大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

連載7・・・「境界問題」番外編

2017-06-28 14:55:49 | 日記
「境界問題」について、明治初期の「筆界の誕生」を見てきたのですが、ちょっと中休みで、実際的なことについて書きます。

つい最近、私のおこなった業務で「境界の専門家としての土地家屋調査士」ということを考えさせられる案件がありました。

まずは、非常に直接的・即自的なところで言うと、「境界問題というのは素人の寄せ集めで処理されているものだな」ということをあらためて痛感しました。
そこからもう少し前向きに考えると、「唯一『専門家』っぽい存在である土地家屋調査士がしっかりしないとメチャクチャになっちゃうな」ということになります。
少しきれいに言うと、「やはり『境界の専門家』と言いうるのは土地家屋調査士しかない」ということと、「『境界の専門家』としての役割を果たすためには今のままでは足りないのであり、もう少ししっかりとした態勢を作っていく必要がある」ということになります。


もう少し具体的に話すようにしましょう。

3年ほど前に分筆登記の行われた土地についての(再)分筆の依頼を受けました。資料を見ると、分筆時の地積測量図は当然「全地測量」のもので、街区基準点にもとづく測量がおこなわれたものとされています(もちろん土地家屋調査士作成のものです)。また、道路との境界確認書もあります。
それらを見たときには、「実に簡単な案件だな」と思ったものです。

しかし、この「地積測量図」が実にメチャクチャなものでした。分筆前の一筆の土地について「筆界」として表示されているものが、①公図の形状と一致しない、②既提出の地積測量図と一致しない、③現地の土地利用状況状況と一致しない、④街区基準点の測量成果と一致しない、のです。
つまり、通常考えられる「一致すべきもの」と何一つ一致しないわけです。こんなものが通用していいのか!?が率直な感想です。
しかし、事実の問題として、このような図面は、道路管理者たる市役所との「境界確認」を経て、分筆登記の際に利用され(つまりその形で「筆界認定」され)、登記所に備え付けられることによって公示されているわけです。

これってどういうことなのだろう?と思ってしまいます。
まず④の「測量成果と一致しない」ということについては、境界確認を行う市役所の道路管理部門も法務局の表示に関する登記審査部門も、実際に測量を行うわけではないので、仕方ないと言えば仕方ないこと、になるのかもしれません。要は「調査士さんを信じるしかない」ということになるのかもしれないわけです。こういう時だけやけに持ち上げられて「国家資格をもって責任ある業務を行うのが調査士さんなのだから」などと言われたりもします。しかし、実際に測量を行わないまでも、書面上のチェックでもできることはあるわけですから、それはちゃんと行うべきでしょう。私たち土地家屋調査士の側から言っても、「真実性の確保(虚偽性の排除)」のための自主的な努力をもう少し行うべきなのだと思うのですが、「調査報告書の改定」にあたっても、むしろ「責任の軽減」を図って後退さえしてしまっているわけで、やはり問題がある、とすべきでしょう。

②の既提出の地積測量図との関係については、この土地は昭和51年に道路拡幅の分筆が行われているものでその際の地積測量図があります。その地積測量図では分筆した土地はカーブを描いているのですが、現況は、当該分筆対象地の部分についてはまっすぐ側溝が入っています。その隣接の土地については地積測量図通りにカーブの形状をしており、隣接地と分筆対象地とを合わせてみると地積測量図の示す線が現地のどこにあるのかは明らかになります。しかし、3年前の分筆の際には現況のまっすぐの形で市役所との境界確認が行われ、それに基づいて分筆登記も行われてしまっているわけです。
この点について、市役所に「3年前の境界確認の際に既提出の地積測量図を考慮しなかったのか?」と質問したところ「古い地積測量図なので誤っているものと判断した」ということでした。「何となくもっともらしいけど何の根拠もない素人判断」とでも言うべきものです。

①と③の「公図と現況と合致しない」については、この案件の場合、公図と現況とは合致していました。したがって、通常であればそれにもとづいて「筆界」の判断はされるはずです。それと異なるものが出てくる、とは通常考えられないのですが、本件の場合どうしてこういうことになってしまったのか、と見てみると、3年前の分筆の時には「全地測量」であるにもかかわらず分筆だけが行われていて地積更正が行われていません。土地台帳の地積を引きついでいる土地(一度昭和51年に道路拡幅の分筆が行われていますが、その時は当然のことながら残地・差し引き計算です)で、分筆前の土地の登記地積が実測面積と合致する、というのは通常考えられないことですが、この案件では「合致する」ものとされていました。つまり、「確認(認定)された筆界の位置で一筆の土地の地積を算出する」のではなく、「『筆界』の位置を登記地積と合致する位置にする」ということが行われていたわけです。だから、「筆界」の位置を公図とも現況とも一致しない位置にしてしまったわけです。
先に④に関するところでも言いましたが、たしかに「審査」をおこなう人たちは実際に現地での測量などの調査を行うわけではないわけですから、判断をするための材料が必ずしも十分ではない、ということもありうることです。しかし、それならそれで、何らかの形でのチェックを行うようにしなければならないはずです。
そして、もしも実際的な問題として、そのようなチェックをなしえないのだとすれば、「審査をする」という看板自体を下したほうがいいのではないか、と思えます。

このように、「素人ばかりが寄ってたかっている境界問題の世界」において、土地家屋調査士は「唯一の専門家(っぽい存在)」としてあります。現状からすると「調査士への信頼性」こそが「正しい境界問題の処理が行われていること」を唯一担保するものでさえある、と言える状態です。
こんなことでいいのか?とも思いますが、実情がそうなのであれば、それにこたえるようにしなければならない、というのが私たちの責務だと考えるべきなのでしょう。

連載6・・・「更正図」と筆界

2017-06-19 09:15:42 | 日記
ちょっと間が空いたので、前回までのおさらいから。

前回、①地租改正事業の後半に「筆界」が意識されるようになったこと、②しかしそれは現地において個別的にではなく、例外を含む一般的な規準として示され、「決められた」にすぎないものであること、③だから現地においてどこが「筆界」であるかは、個別的には「共通認識」としてあったのにすぎず、その意味で「観念的」なものであること、④この「観念的な筆界」は、現地における具体的な位置で確認され表示されることによって「実存する筆界」になる(「筆界の現実化」)」こと・・・・を述べました。④については、少し先走りの話になってしまいましたが、このように「現実化」された「筆界」とともに、分筆などによって実際に創設された筆界が現実に存在し併存している、というところに問題をややこしくする理由があるように思います。そして、⑤「更正図の作成」というのは「筆界の現実化」にあたるのか?という問題を今回見ることにして、とりあえず結論として「そうは思わない」ということだけを述べたところで終わりました。

先走ってしまったところで論点があいまいになってしまったような気がしますので、もう一度どうしてこういうことが問題になるのか、ということについて(あらためて)書きます。
それは、地租改正~更正図作成の時期に、「筆界」が現地に実存するものとして存在したわけではない、というところにポイントがあります。
そもそも、この時点における「筆界」というのは、完全に「所有権界」と同一のものとしてあります。明治維新後に、土地所有権が「一筆」を単位として「与え」られた、ということがまずあり、その「一筆」の限界、すなわち「一筆」を単位として成立した所有権の及ぶ範囲の限界を示すものとして「筆界」というものが観念されることになった、ということであるからです。
ですから、通常「原始筆界」と言われるものは「原始所有権界」なのであり、それは「一筆の土地」を単位としての「近代的土地所有権」が確立された後に、個別的にではなく一般的な規準として定められた、ということになります。
この「原始所有権界」に対する土地所有者らの認識が「筆界」と言われるものにされた、ととらえられるわけです。
ですから、「筆界」というものが。公的なものとして「設定」「画定」された、ということはないのであり、それは後の時代になって「筆界」だととらえ返された(位置づけられた)ものとして理解する必要があるものです(これが、今述べている「歴史的な問題」とは別の法的・政治的問題になります)。

そのような「筆界」を具体的なあり様の問題として考えると、「筆界」は、個別的には具体的に姿をもって存在するわ両土地所有者における認識(の一致)という形で存在するに過ぎなかった、ということができます。これは、その後区画整理、耕地整理などによって「筆界」が具体的に設定されたりした一部の例外を除いて、普通のあたりまえのこと(常態)であった、ということになります。

そこで、問題です。その常態は「更正図の作成」によって変化を受けなかったのか?更正図の作成によって、事実上筆界が画定されたり、画定に準じる確認(現実化)がなされたのではないのか?ということが問題になります。

・・・と、長い前置きの上で本題に入ります。

「更正図」は、今でも大分をはじめとして多くの地域で「公図」として備え付けられている図面であり、その多くはかなりの精度で現地の状況を表示しているものです。このことから、今日において「筆界」の現地における位置を特定するための資料としての価値の高いものとして評価されています。
このような「更正図」への評価から、「更正図は筆界を表示するものである」と考える向きがあるように思えるのですが、今日においてそのようなものとして利用しうるものであることは確かだとしても、本来的な性格としては違う、ということを押さえておくことが必要なのだと思います。

「更正図」というのは、明治18年から行われた「地押調査」をやり遂げるための必要性から作られることになったものです(明治18年に地押調査事業が始まり、その2年後に「地図更正の件」がだされて更正図の作成が始まっています。)。
だから「更正図」の基本性格は、その元となる「地押調査」の性格を正しく理解するところから始めなければなりません。

地押調査事業は、「改租ニ亜クノ大業」「地租改正以来土地ニ関スル第二ノ大業」(「明治18年地押調査始末」)と言われるものです。実際、事業費用を見ると、地租改正事業における民費が2909万円であるのに対して、その3分の1を超える1093万円が地押調査事業に費やされています(同)。まさに「大業」であったわけです。
このような大きな事業を行ったのは、明治22年の土地台帳の編成へ向けて、土地の網羅的な把握が必要だったから、と言えます。当時の文書での言い方で言うと、次のようなことです。
「客年当省第89号ヲ以テ相達候帳簿様式中ニ示ス土地台帳」は、「毎町村毎地ノ地目反別地価地租等ヲ明カナラシムルモノニシテ固ヨリ必要欠クヘカラサルモノ」である。だから「今此帳簿ヲ編製スルニ当リテハ」「在来ノ帳簿ノミニ憑拠シテ謄写スルトキハ、或ハ実地ノ齟齬セル帳簿ヲ後年ニ伝フルノ虞」があるし、処罰の必要性も出てくる。だから、「此際適宜期限ヲ定メ毎町村ニ於テ在来ノ帳簿図面ニ対照シ一応実地ノ取調ヲ為サシメ」ようにした、ということです。

しかし、この際対象としているものは「第十号訓令誤謬土地整理ノ趣旨タルヤ鎖少ノ広狭ヲ申告セシメ之ヲ訂正増減スルノ意ニアラサル」とされていて、「反別(面積)」をも対象にしているわけではありません(明治18年地押調査始末(明治年月日不詳)。だから、そこでは「筆界」を対象にしているわけでもありません。あくまでも、土地台帳編成に向けて、土地を漏らすことなく網羅的に把握することが必要だった、と言えます。
そして、その目的を実現するために「正確な地図」が必要になった、ということなのでしょう。あくまでも土地の重複脱漏のない把握のために「正確な地図」が必要だということになった、ということなのであり、だから地押調査事業を始めてから2年ほど経った明治20年6月に至って「地図更正の件」が出され、「更正図」の作成が(正確な地図を作りうる近代的測量方法たる平板測量の技術を用いて)なされるようになった、ということになのだと思います。
この更正図の「正確性」は、一つには近代的測量技術の利用という技術的な面で言えることですが、「筆界」を明らかにするための資料という面からみると、それだけではありません。それは、測るべき対象の変化としても言えることです。
すなわち、地租改正事業の際の「課税対象範囲」のみを測るのではなく、「一筆の土地」を測るようになっている、というのが、大きな変化だと言えます。
と言っても、ここでの「筆界」というのは、現地において特定するものとして設定(画定)されたものではありません。その時点で「崖地処分規則」等の一般規準が示されていたわけですが、それを現地において具体的に特定されたわけではないものです。一般規準に基づいて「推定」されるものではあっても、それが本当に「筆界」なのかどうかは確言しえないものとしてあります。
たとえば、「およそ甲乙両地の中間にある崖地は上層の所属とすべし」という一般的な規準が示されているので、更正図の作成に当たっては「崖」の裾の位置を「筆界」と「推定」して測量・作図がなされたのだと思えます。「その従来より下底所属の確証あるもの」の場合にも、それが十分に反映されていたのか、という点については確言はしがたいわけです。

それは、「地押調査」が、「此際特ニ毎町村ニ於テ地主総代人三名以上(実地熟知ノ者)ヲ撰定シ実地取調ニ従事セシムヘシ。」(明治一八年月日不詳 実地取調順序(大蔵省)としていたものであることから強く推測しうるものです。本来であれば「各地主ニ於テ之ヲ調理シ夫々ノ順序ヲ経由スヘキ筈ナレトモ」そうすると「却テ事ノ煩雑ニ渉リ其要領ヲ得ヘカラサルニ付」そのように、「各地主の確認」ではなく「地主総代人」によるもので済ませた、というわけです。
初期のころの国土調査において、各土地所有者の立会を行わずに「区長」だけの立会で進めた、みたいな感覚でしょうか。この場合、「実地熟知の者」だとしても、それがどこまでのものであるのかは(国土調査の例を見てもわかるように)何とも言い難いわけであり、地押調査-更正図作成において「筆界」とされたものは、一般的規準からする「推定筆界」なのであり、両土地所有者の確認を経て「現実化した筆界」だとはみなしえないのではないか、ということです。

日調連の役員改選

2017-06-12 16:28:18 | 日記
今日は、連載「境界」をお休みして、来週の日調連総会-役員選挙について書きます。

「選挙公報」が日調連のホームページ(会員の広場)に掲載されていますので、是非ご覧ください(総会が終わると消えてしまいますので、今のうちに)。
・・・と言っても、読んでも勉強になるとか、何か役に立つというものではありませんが、自分たちの未来を決める一要素になるものですので、是非関心は持っておくべきだと思います。

この「選挙公報」を読んで、あらためてこの2年間の「停滞」ということを強く感じました。何か「進んだ」と思えるものが何もない「停滞の時代」だった、ということをあらためて感じざるを得ません。
この「停滞」は、おそらく「土地家屋調査士を取り巻く環境」の停滞に起因するものだと言えるのでしょう。「規制改革」「司法改革」が叫ばれ、ある程度は現実のものになっていた時代に持っていた危機感が薄れ、すっかり「安定的下請け」の座に安住してしまう、という姿なのかと思います。
しかし、日本全体での「問題の先延ばし」が、そういつまでも続くとは思えません。この「ひと時の安定」の時期は、本来なら力を蓄え、やがて来る嵐に備える時代でなければならないのですが、目の前の安逸に浸ってしまうのは人の常なのでしょうか。他人事ではなく責任も感じますし、情けなく思います。

「土地家屋調査士会」や、その「連合会」の基本性格については何度か書いたことがあるのですが、それらを踏まえつつ、最近強く感じた感覚的なところを一言で言うと、今の日調連というのは「下請け企業協力会」みたいなものになってしまっているな、と思います。
親企業に不満も持ちつつ、ある程度の要求もしながら、「下請け」という立場からはけっしてはみださないようにする、というのが基本方針になっています。それは、「切られないようにする」ということでもありますが、「下請けの矩を超えて余計なことはしない」ということでもあります。決定的なところでは親会社の意向に背くことはせず、そのことによってご機嫌を損ねることなくやっていけば切り捨てられることもないだろう、という方針です。
しかし、親会社がより大きな危機に見舞われたときに下請けの立場が保証されるのか、と言うとそれは確約されませんし、むしろ歴史はそれに否定的な答えを前例として示しているように思えます。
「下請け」的なものからの全面的な脱却は無理だとしても、その可能性を持てるようにしよう、と考えるところが最低限の出発点だと思うのですが、今、「役員選挙」において示されている道は、最早完全に別の道になってしまったように思えます。

そのうえで、やはり、「今と同じようなことをしていてはダメ」なのだと思います。「顧客(社会・国民)」の方向に目を向けず親会社の動向を窺うことにきゅうきゅうとしてしまい、親会社に対して何も言えないような「協力会」では、ダメなのです。
もっとも、的外れなことを言ってしまって、かえって「顧客(社会・国民)」との関係を悪くしてしまう危険性もある(と「選挙公報」を読んで思った)ので、躊躇するところもあるのですが・・・。

連載5・・・「筆界」の誕生

2017-06-05 14:46:52 | 日記


前回の最後の画像をもう一度載せました。更正図に、地租改正時の「量地絵図」を重ねたものです。
更正図の黒い線が「筆界」を示すものです。地租改正時に実際に現地において測られたのが赤い線です。では、「筆界」はいつ定められて、いつ描かれた(表示された)のか?ということが問題になります。
まずあとのほうの問題から言うと、「描かれた(表示された)」のは、この場合は更正図ですから、更正図の作成された明治20年以降(大分県では「明治21年12月」)ということになります。
では、「いつ定められたのか?」
私の結論を言うと、「定められた時期は特定できない」あるいは「いつ定められたというものではない」ということになります。もっと言うと「定められてはいない」と言ったほうがいいのかもしれません。
こういうと、「定められてもいないものが描かれる(表示される)というのはおかしいのではないか」と思われるかもしれません。その「ちょっとおかしい」ところを見ていくことにします。

地租改正時の「丈量」は、当初は
「耕地ヲ丈量スルハ畔際ヨリ打詰ト心得ヘキ事」(明治八年七月八日 地租改正条例細目(地租改正事務局議定)とされていました。
それについて、「明治9年11月13日内務省達乙第130号」で、
「畦畔之儀、改租丈量之際、其歩数ヲ除キ候ハ収穫調査ノ都合ニヨリ候儀ニテ、右ハ該田畑ニ離ルべカラザルモノニ付、官民有地ヲ不論其本地ノ地種ヘ編入シ券状面外書ニ歩数登記候儀ト可相心得 此旨相達候事」
とされています。畦畔は「田畑に離るべからざるもの」だということを明らかにして、それを「本地の地種に編入」することにしたわけです。
これによって「一筆の土地」は、「畔際」以内の耕作可能地だけでなく畦畔をも含むものとして、今日の「一筆の土地」と同じ範囲を対象とするものになった、と「一般論」としては言えます。前掲の図で言えば、赤い線ではなく黒い線で「一筆の土地」を考えることになった、ということになります。
したがって、これ以降に地租改正事業の中での一筆調査が行われたところでは、このようなものとしての「一筆の土地」の確定がなされたものだと言えそうですが、大分県の場合は、この時点ではすでに地租改正事業が完了しているので、これは反映されていません。また、他の多くの県でも実際にどこまで反映されたのかは、歴史的事実に基づいて判断されるべきものなので、一概には言えません。実証的な研究が必要となる所以です。
では、その「一筆の土地の範囲」はどのようにして定められたのか?ということが問題になります。
その方法は、地租改正の一筆調査が、それぞれの土地について現地において測点を定め、それを測るという現地で個別的に定める形で行われたのとは違って、一般的な規準を「規則」として設けて、それによって「定めたこととする」という形をとった、と言えるでしょう。
それはたとえば、
「およそ甲乙両地の中間にある崖地は上層の所属とすべし」(崖地処分規則(明治10年2月8日 地租改正事務局別報達第69号)というものであったり、
「畑宅地の一筆のみに用いる通路や一筆内にあってその所有主が便宜に設ける小運の類はすべて本地に量入する」、「崖高の地ではその崖脚中の鍬入に必要な土地はこれを本地に量入し、崖脚であって多少の収益のある土地はこれを本地に量入するか若しくは一筆として丈量する」、「一筆の田畑宅地内に孕在する雑種地等はこれを本地に量入する」(「地租条例取扱心得」(明治17年4月5日)というものであったり、
「水流を界とするものは其中心を以てし、山頂を界とするものは雨水分派するところを以てし、道路を界とするものは其中央を以てすべし」(明治9年5月23日「地籍編製地方官心得書」第7条3号)というものとしてあります。
一般的な判断基準を定める形で、地租改正時に赤線で「丈量」したものの外側にある黒線が、どのようなものとしてあるのか、ということを示したわけです。

ですから、「筆界」は現地で決められたり、示されたりしてはいないわけ(これを私は「設定行為がない」と言いますし、「現地に実存するわけではない」と言ってもいいのだと思います)なのですが、それでも一般的な規準によって「決められたようなもの」としてあるようになった、と言えます。それは、筆界に接する両土地所有者を含む地域社会の認識として共有されるようになった、と言えるものです。その意味で観念的なもので、「筆界は観念的に存在するものになった」ということになります。
この「観念的な筆界」のありかたというのは、「筆界に関する地域社会の共通認識」と言うべきものです。このことは、たとえば、「がけ地処分規則」で「およそ甲乙両地の中間にある崖地は上層の所属とすべし」と定められたものの、そのすぐ後に「その従来より下底所属の確証あるものは旧慣のままに据置くべし」とされていることに表れています。
およそ一般的な規準に基づいて個別的な事柄を判断しようとする場合には、「判断の幅」が生まれざるを得ないわけですが、その「判断の幅」に関することを「旧慣」(「地域の慣習)にゆだねることを明確にしているわけです。

そして、この「観念的な筆界」は、ただ単に観念的なだけでなく、「現実化」するものとしてあります。一般的な規準を個別的な土地の筆界に適用して、筆界に接する両土地所有者(ならびに地域社会)において、その現地における位置を特定して確認して、それを「現地復元性のある図面」に表示したり、境界標識を設置したりすれば、「現実に存在するもの」に転化することなるわけです。この「現実化」は実際にかなり行われてきていますし、この「設定行為のない筆界の現実化」と、それ以外の分筆や区画整理などの「設定行為のある筆界」とを合わせると、2億筆とも3億筆ともいわれるわが国の筆界のうちのかなりのものは「現実化」している、と言えるのでしょう。もっとも、特に「図面」での表示の場合、古い時代の分筆を含めて「ピンポイントでの現地復元性」を持つものは少なく「極めてまれ」であるのが実情となっています(これについては、またずっと後にみることにします)。

さて、それでは明治20年以降の「更正図」の作成は(したがって更正図を「公図」としている地域では)、上述の「筆界の現実化」がおこなわれているのか?ということを次に考えてみます・・・・が、だいぶ長くなったので、これは「次回」にします。・・・・・結論だけ言っておくと、私は「否」だと思っています。

連載④・・・「地租改正事業での筆界の誕生」

2017-06-02 08:38:30 | 日記
前にも書きましたが、大分会の境界鑑定委員会の作業として、大分における地租改正の経緯をたどる研究をしています。

これがなかなか面白く、近日中にある程度まとめるようにしていますが、この「連載」との関係で言うと、やはり実証的に考えても、一般に「筆界は地租改正の過程で画定された」とされているのはやはり違うのではないか、という思いを強く持つようになりました。
もしも「画定した」というのであれば、やはり独自の「画定行為」がなければなりません。具体的にある土地のある境界を「筆界として定める」ということが必要であるわけです。ところが、わが国の近代化の中での「筆界の誕生」は、そのような明確な「画定行為」のない、自然発生的なものとしてあった、のだと思えます。地租改正事業から土地台帳編成、不動産登記制度創設の15年以上の年月の中で、徐々に「ある」こととされ、その意味で「形成」「誕生」したものなのであり、いつかの時点で明確に「画定」された、というものではないわけです。

先にも述べたように、「地租改正事業の中での筆界の画定」ということについて、それなりの研究の上で言われているものを見ると、実は「いつ画定されたのか?」ということについては、イマイチ明らかではありません。「登記法(明治19年)、不動産登記法(明治32年)」までの随分と長い期間の中で考えざるを得ないものだとされています。そんなに長い期間の中で「画定」ということが行えるのか?という疑問を抱くべきなのだと思いますが、「明治初期に筆界は画定された」ということがドグマになってしまっていて、そこから疑う、ということがなされないままにやり過ごされてしまっているように思えます。
そのようなことの上で、もう一つには、「地租改正事業の中で筆界が画定された」とされていることから、やはり明治6年から14年の地租改正事業の本体事業の中で「筆界の画定」がなされたのだろう、と言わば素朴に考える傾向というのもあるように思えます。

そのような素朴な考え方をさせるものとして、たとえば次のような史料から「地租改正事業の実態」を考えて、「地租改正事業の中で筆界は画定された」と考える考え方があります。それは、。
「実地歩数ヲ定ルニハ先ツ村役員立会銘々持地ニ畝杭ヲ建置キ 然ル後ニ隣田畑持主共申合耕地ヘ臨ミ経界ヲ正シ 銘々限リ持地有ノ儘ノ形ヲ書キ 入歩出歩等見計ヒ屈曲ヲ平均シテ縦何間横何間ト間数ヲ量リ其間数ニ応シ坪詰イタシ 一筆毎右之通取調村役人ヘ差出シ役オイテハ右絵図ヲ以尚又実地ニ臨ミ其地并隣地持主再ヒ為る立会歩数ヲ改め 相違無之上ハ畝杭ヘ更正之反別ヲ認メ此絵図ヲ元ニシテ第五条ノ字限地図ヲ仕立可申事・・・」(千葉県の「地租改正ニ付人民心得書」明治6年10月4日「租税寮改正局日報」第44号に掲載)
という史料から、地租改正事業において、「持地ニ畝杭ヲ建置キ」ということがなされ、田畑の持ち主が申し合わせ「経界を正す」ことが行われたのだから、その位置として「筆界の画定」がなされた、ということなのだろう、と読み取る考え方です。このような、「畝杭」を建てるという明確な行為をもって、それまで「支配進退」の対象としてあった土地の境が国家の名のもとに明確にされたのだ、と考えるわけです。まさに、地租改正事業の「地押丈量」によって「筆界が画定された」と言えるのではないか、ということになります。

しかし、地租改正時の「丈量」についての現物資料(「量地絵図帳」「地引絵図帳」といった名称の地租改正時の丈量において作成した「絵図」)を見てみると次のようなものです。

この土地は、現地の状況としては次のようなものです。(なんか、画像が小さくしか表示されてないようですが・・・)

そして更正図では次のように描かれています(この地域は国調が行われており、国調地籍図もほぼ同じようなものです。)

更正図と「量地絵図」とを重ねてみると次のようになります。

あくまでも「畔際」で耕作可能な範囲しか「丈量」していないのであり、したがってこの時に「畝杭」を立てた位置というのはあくまでもこの図で赤線で表示した「畔際」の位置に過ぎません。今日で言う「筆界」の位置には立てていないわけですし、その前提としての「経界を正す」というのも、今日的な意味で使われる「境界」「筆界」を指しているわけだとは思えません。(それは、たとえば数枚ある田のうちのどれまでがAのものでどこからがBのものか?というような意味での「経界」であったり、あるいは逆にもっと細かく「畔際」の位置がどこに当たるのか、というようなことをめぐってのせめぎあいがあった、ととらえるべきなのだと思います。)
このようなものとしての地租改正事業の中での「地押丈量」が行われた、ということを、今日の感覚からする先入観やドグマからではなく、実際の歴史に即して見直す、ということが必要なのだと思います。

では、地租改正事業自体の中で「筆界の画定」がなされていないのだとしたら、「筆界」はいつ、どのようにして生まれたのか?ということが問題になります。だいぶ長くなったので、次回この問題を見るようにします。