大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

「グランドデザイン」について・・・・その1?

2018-01-23 18:53:15 | 日記
まず、本題と関係ない話。
西邊邁氏が死にました。「自死」だそうです。
西邊邁氏については、私としては「嫌いな人ベスト(ワーストか?)100」に入るくらいに嫌いな人のですが、その死(に方)については(事情をよく知らないとはいえ)共感するところがあります。
・・・ということを書き出すと長くなるので、「本題」に帰ります。日調連の「グランドデザイン」について、です。

日調連の「Eメールマンスリー」によると、「第4回理事会(12月7日、8日開催)において、連合会の定めるグランドデザインとして採択された」のだそうです。
これまで「グランドデザイン(案)」が示されていましたが、私としては「誰もまともに読んでないもの」「誰も本当には信じていないもの」だと思われるところから、まともに取り上げるのも馬鹿らしいな、と思っていたのですが(その認識は変わらないとしても)、そのような形式的な手続きを経たのだとすれば、それなりにまともな対応をしなければならないかな、とも思いますので、以下ポイントだと思う点について書くことにします。

この「グランドデザイン」について、私が「誰もまともに読んでないもの」「誰も本当には信じていないもの」だと思うのは、ここに示されたものがおよそ「現実の土地家屋調査士」とはかけ離れたものであると思われるからです。
この「グランドデザイン」において、決定的に欠けているのは「自己認識」です。自分自身がどのような存在であるのか?ということについてのリアリズムが決定的に欠けているのです。
ここで私の言う「自分自身がどのような存在であるのか?」というのは、単に「今、どういう存在としてあるのか?」ということではなく、「どのようなものとして社会的に存在意義があるのか?」というところにおいて問題になる問いです。

「今、どういう存在としてあるのか?」ということだけであれば、「グランドデザイン」の中においても、きわめて曖昧なものであるとはいえ、そこそこのものが示されています。
「第2章グランドデザインと土地家屋調査士」において「2.土地家屋調査士に求められる重点テーマ」において「土地家屋調査士(会)の内部環境(土地家屋調査士の持つ優位性・課題)と外部環境(社会潮流における発展可能性と脅威)からSWOT分析を行った」とされているところのものです(ここにおける問題設定の仕方自体のあやしさについてはさておくとして)。
ここでは、「調査士の持つ優位性」は次のように挙げられています。「①土地家屋調査士は国家資格者としての地位を持つ。②土地家屋調査士は不動産の権利・制限についての知識を持つ。③不動産の表示に関する登記申請についてのインセンティブをもつ。③法律判断と現地特定の両面の専門性をもつ。④土地家屋調査士会の強制会による組織の堅固性をもつ。⑤土地家屋調査士は測量技術をもつ。⑥境界紛争の未然防止能力(調整能力)をもつ」・・・です。
ここで挙げられたことの各別の評価については行いませんが、全体としてほぼ何の意味もないことの羅列に終わっています。その中で、せめてもと言うか、その意味するところを理解できるのは、「①土地家屋調査士は国家資格者としての地位を持つ」「④土地家屋調査士会の強制会による組織の堅固性をもつ」くらいです。要するに、「強制入会性の業務独占資格としてある」ということが、「土地家屋調査士の強みだ」と言っているわけです。
「それだけ?」と思わされる貧弱な自己認識です。・・・「他者から守られていることが自分の強みだ」と言うのは、やっぱり貧弱だと思わざるを得ない、ですよね。
そして・・・これが「偽らざる自己認識」なのだと思います。だから、この自己認識から出てくる実際的な方針は「国家資格者としての地位」を保つ、「強制会による組織」を保つ、ということになります。そこで、極めて具体的には、「国家資格者としての地位」「強制会」を保持してくれている所管庁であるところの法務省(民事局民事2課)のご機嫌を損ねないようにしよう、ということが方針になり(これが言わば「グランドデザイン」になり)、そのもとにすべての具体的な施策が決められていく、ということになるわけです。
・・・以上述べたことが、この「グランドデザイン」において示されたこと、あるいは示されてはいないけれど実質的に示しているものの根本問題だと思います。「あれやこれやの細かい問題を取り上げても、そこに土地家屋調査士の未来が見えてくるわけではなく、とにかく業務独占・強制入会の資格制度で守られていくことが必要だ」「その保持こそが追求されるべき最大の問題だ」という理解であり、ここから実際の方針がひねり出されていくことになりますので、極めて卑俗なものでありつつ「根本問題」になるわけです。

先に私は、「グランドデザイン」には自己認識のリアリズムがない、と言いました。しかし、「資格制度護持」を第一に考える、というのは、ある意味では「リアリズム」です。「クソリアリズム」なのかもしれません。しかしそれは発展性のない自己規定に過ぎません。
では、どのような自己認識のリアリズムが必要なのでしょうか?・・・それは「社会的必要性」についてリアリズムをもって考えることなのだと思います。土地家屋調査士というのは、どのような社会的必要性を持つ存在としてあるのか、ということを、絵空事ではなく「事実」の問題として考えることです。
そのようなことを考えると、先に挙げた「グランドデザイン」で言うと、「③不動産の表示に関する登記申請についてのインセンティブをもつ」などというわけのわからないものがでてきたりしてしまって、こんなわけのわからないことが「強み」なのだとすると、実は「強み」がないんじゃないかと思わされてしまったりもするのですが、これを含めて全体として、調査士の果たすべき役割を「行政」的な役割としてとらえている、と言うことが言えるのではないか、と思います。
ここに決定的な問題がある、と思えるのです。

土地家屋調査士という資格が、もともと「行政補助」的なものとしてつくられ展開してきたものであり、「法務行政」を支える役割を担うものだとされていることから、私たちは「行政」的な役割を果たすべき存在としての自己認識を持っているようです。そこから「グランドデザイン」も考えるようになっています。パッと見て目についたものを上げるだけでも、「地籍制度にある地籍情報管理資格者として、調査士が位置づけされるような努力が必要な時代になった。」「土地家屋調査士は、申請代理人として、または登記官の補助としての準公務員の立場で、活躍する可能性が広がるはずである。」というように180度違う方向を向きつつ、「行政」的な役割としてに考える、という点においては同じものになっています。

しかし、ほんとうにそうなのか?というのが、本当の本題というべき問題です。
私としては、このような「行政」的な役割ではなく、「司法」的な役割において「グランドデザイン」を描くべき直ではないか、と思いますので、日を改めて詳しく論じるようにしたいと思います。



2018年-新しい年を迎えて

2018-01-14 10:09:48 | 日記
だいぶ遅くなりましたが、新しい年、2018年になりました。あけましておめでとうございます。

ただでさえ、のんびりと新年を迎えたうえで、さらに新年早々激しいぎっくり腰を発症してしまい、文字通りの「寝正月」を過ごしたため、新年の始動が大幅に遅れてしまいました。
新年の御挨拶をいただいた皆様へも、何の音沙汰もなく過ごしてしまい、大変失礼いたしました。

寝たきりの日々を過ごしたため、本だけは読むことが出来ました。多くは小説です。山本周五郎、三浦しをん、夏目漱石、藤原伊織・・・と言った何の脈絡もない「雑読」ですが、正月らしいと言えなくもありませんでした。
問題は、この中で「夏目漱石」です。
夏目漱石は、たぶん「日本最高の文豪」だと言われる存在なのだと思うのですが、正直言って、私にはその「すごさ」がわかりません。どこがいいのかわからないのです。同じようなことは、村上春樹や吉本隆明やビートルズについても言えます。世間で高い評価を受けるこれらの人について、私にはその「すごさ」がさっぱりわからないのです。
このようなことについて、私としてはとりあえず「好みの問題」だと思うようにしています。人それぞれ好みがあるのだから、多くの人が「とっても素晴らしい」と思うものについて、私があまりそう思わない、ということもありうるのではないか、というような「解釈」です。
今も基本的にはそのように考え(るようにし)ているのですが、なお、そのうえで次のような疑念も抱いています。・・・「私に夏目漱石等の良さがわかるだけの資質がないのが問題なのではないか?」

そう考えると、「何が足りないのか?」ということが問題になります。「芸術的感性」が足りないのだろうか、と思うと確かにそれは言えます。およそ即物的な人間で、芸術的な感性はないな、とすぐに納得できるところではあるのです。そして、それだけであればまだ諦めがつくのですが、その次にもう一つの「原因」が思い浮かびます。
それは、「教養の不足」です。人生の終盤期を迎えた今になって言うことでもないのですが、夏目漱石のことだけでなく、最近つくづく痛感するところです。
ですので、「今年の目標」は、今更ながらの「教養強化!」ということにしたいと思います。これは一生の課題で、成し遂げないままに死んでいくのでしょうが・・・。

「教養の不足」を感じるのは自分自身のことに限りません。昔の政治家というのは(そのころにはさんざん文句を言っていましたが)今の政治家に比べてもう少し豊かな教養を示していたように思えます。
このようになってしまう事の基礎には、マネー資本主義の「グローバル」展開、ということがあるのでしょう。「すぐに金儲けに役に立つもの」が尊重される社会において「教養」などというのは、邪魔にこそなれ役に立たないものだと考えられてしまうようです。
しかし、「危機」の時代においては、やはり「人類の知恵」「歴史の蓄積」が必要になります.今年はその力を実感できる年になれば、と期待します。

「教養の不足」は、わが業界においても深刻な問題です。「教養」と言うより「基礎学力」の問題と言った方がいいのかもしれません。全く問題外の愚策を真剣に論じ合うことを続けてきて、「実行」にまで手を付けてしまう姿は、まさに「基礎学力の不足」を示すものに他なりません。
そしてこの「基礎学力(教養)の不足」の問題というのは、実は「土地家屋調査士制度」という資格制度の根幹をめぐる問題でもあります。この「基礎学力(教養)の不足」の克服なしに、制度の発展はおろか存続さえもない、という問題です。
それは、「元来、土地家屋調査士に教養(基礎学力)を求めるものとはなっていない」ということが、土地家屋調査士という資格制度をつくった当初からあり、土地家屋調査士自身がそれをもってよしとする形で展開してきている、という「現実」があるからです。土地家屋調査士に求められてきたものは、きわめて「技術」的に手続きの円滑な進行を図ることであり、それは言わば「決められたことを黙々とこなしていくこと」であり、それによって一定の「待遇」が保障される、という形で「土地家屋調査士制度」の根幹が形成されてきたわけです。
このことは、資格試験のありかたに端的に示されています。一切の資格要件なしでの試験制度というのは、そのようなものとして資格制度が考えられている、ということなのだと思います。そして同様のことは司法書士についても言えるわけですが、司法書士においては、当初そのように設計されていたものを自分自身で克服しようとする努力をそれなりに行ってきた、と言えるように思えます。
それに対してわが業界は・・・、というのが問題であり、私自身と同様に今更ながらのようにして「基礎学力(教養)不足の克服」を課題にしなければならない、ということで、今年がそのような課題に取り組む年になることを期待したいと思います。