大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

連載③・・・「筆界」

2017-05-21 13:42:35 | 日記
前回、「いわゆる原始筆界と言われるものは実在しない」ということを書きました。「実在しない」というのは、単純に「ない」というのとはちょっと違います(わかりにくい話ですみませんが・・・)。
それは、
① 「実在」はしないけれど、「地域社会の共通認識」という形で言わば観念的には存在している。(→これが、「筆界確認」を「立会」によって行ってきたことの根拠としてある。)
② 「筆界」をめぐって現実に行われてきたことは、観念的に存在するものを法的な構成として「ある」ものとした(擬制した)、ということであり、その意味で巧緻(狡知)な仕組みとして有効に機能してきた。

という意味合いで言うことです。さらに、もう少し先回りして言うと
③ そのような①②の前提が、今、崩壊してきているのであり、その事実を振り返りながら新しい方法を考える必要が、実務者としての土地家屋調査士にはある。
ということになります。

・・・ということを一応お断りしたうえで先に進みます。

先の引用文の中で、寶金先生は、「筆界は、地番の成立とともに当然に成立する」ということを言っていました。しかし、何故そのように言えるのでしょう?おそらく、「地番」というのは、本来区分されているものではない土地を人為的に区分したものなのだから、「地番」が定められた、ということは「筆界」もある(成立した)ということなのだ、というようなことなのだと思います。
しかしそうでしょうか?
あまりぴったりとしたたとえではないかもしれませんが・・・・、大きなフライパンで何個もの目玉焼きを作るとき、「一つの目玉焼き」というのは元の一つの卵として区別されるものではありますが、フライパンの上でそれぞれの白身がまじりあっているとき、その目玉焼きの「境」というのは必ずしも「当然に成立する」ものだとは言えないように思えます。特に、主な関心が黄身にある時はより一層そうです。
実際の我が国の歴史の上での「地番の成立」の歴史を見ると、この目玉焼きのたとえ以上に、「地番」は設定されても「筆界」は設定されていない、ということであったのだと思います。
そのような関心のもと、この後、少し、歴史について見るようにします。

「地番・筆界の成立」については、次のような理解が一般的なものだと言えるでしょう。
「境界確定の訴は、・・明治初年に設定された地番の境界を、現地においてどこに存するかということを設定することに、その本質がある・・・」(村松俊夫「境界確定の訴」P21)
というものです。
ここで問題にするのは、「境界確定訴訟」の性格に関することではなく、「明治初年に設定された地番の境界」というような理解の仕方です。
このような理解は、もう少し丁寧な言い方だと次のように言われます。
「地租改正事業の際、一筆の土地として把握され、図面に公示された区画に対応する現地の線は、その後変更がされない限り、登記法(明治19年)及び不動産登記法(明治32年)の下で当該土地が一筆の土地として登記された時の筆界(原始的筆界)に一致するものと考えられる。」(「平成17年不動産登記法等の改正と筆界特定の実務」P20)
このような持って回ったような言い方の中には、「地租改正事業によって筆界が設定された」とは必ずしも言えないのではないか、という疑念も含まれているように私には受け取れるのですが、それにしてもそのうえで、この引用文のすぐ後では「現在の土地の筆界は、明治初期に創設されたものと、その後の分合筆により形成されたものから構成されていることになる。」(同)と言われていますので、「原始筆界」は「明治初期に創設されたもの」だ、という理解に立っているのだと思えます。

さて、本当にそうなのか?ということが問題であり、そのことについて、次回以降で、実証的な観点から見ていくようにしたいと思います。

連載②  「筆界」について・・・「原始筆界」

2017-05-20 14:06:21 | 日記
「境界」論に関する「連載」を始める、と前回書いてから随分と日にちが経ってしまいました。途中、私のパソコンが動かなくなってしまい、「こまめなバックアップ」を日ごろ怠っていたツケを払わなければいけない、というようなことがありました。皆様もお気を付けください。

さて、「筆界」について考えます。

「筆界は、地番の成立とともに当然に成立し、不動のものとして存続するが、目に見える存在ではない」(寶金敏明「境界の理論と実務」P14)
というようなことが言われます。そう言われると、「なるほどそういうものか」と思いもするのですが、どうも、モヤモヤしたところが残ります。「存在するが目に見えない」というのは、何か怪しげな宗教みたいな感じを受けるような話です。

ここで「目に見える存在ではない」とされているのは、いわゆる「原始筆界」というものです。この「原始筆界」が、目には見えないけれど存在しているものなのだ、というのが先の寶金先生の引用文のように)「筆界」について考えるときの前提としてありました。
しかし、目に見えないものは存在しているとは言えない、と言うべきです。つまり、「原始筆界」なるものは存在(実在)するものとしてあるわけではない、と言うべきなのだと思います。

では、「筆界」について「目に見える」というのは、どういう状態でしょうか?もともと土地というのは、すくなくとも一つの大陸や島の中ではもともと区分されたものではなく、その「境界」が目に見えて存在するわけではありません。だから、「筆界」そのものが目に見えるわけではない、ということになるのは、当然といえば当然のこと、ということになります。

そのうえで、しかしやはり「目に見えるもの」もある、と考えるべきです。これは、たとえば、造成のなされた宅地分譲の土地のようにコンクリート擁壁で区画されているような状態だけを指していうことではありません。境界標が入れられていれば、それを結ぶ「線」は目に見えて存在しなくても、「目に見えるもの」ということができるのはもちろんのこと、現地に「物」として存在しないのだとしても、図面上で現地に復元することができるようなものとしてあるのだとしても、やはり「目に見えるもの」としてある、と言える、と考えるべきです。区画整理の行われた土地は、これと同じものとしてあります。
要するに「目に見えるもの」というのは、はっきりとした「筆界の設定行為」のあるもの、ということになります。明確な設定行為があれば、その設定行為の内容を見ることによって「筆界」も「目に見える」ことになるわけです。

通常「筆界」と言われるものの中には、この「筆界の設定行為」のないものが含まれてしまっています。いわゆる「原始筆界」というものです。
後で(後日)「原始筆界には設定行為がない」ということを述べていくようにしますが、その意味は「設定行為がない」ということは「目に見えない」ということであり、それは「実在しない」ということを意味する、ということを明らかにしたい、というところにあります。

連載開始・・・「土地境界について」①

2017-05-09 17:48:01 | 日記
「ゴールデンウィーク」が終わりました。私自身、この連休はその名に相応しいような感じで「完全休養」を取りました。「働き方改革」が叫ばれる今日、しっかり休むべきだ、と思った、ということもありますが、そもそも会務がなくなると忙しいというほどの仕事量ではなく、必然的に休めてしまう、ということが主要な原因です。

そのようなだらけ気味の中ではありますが、この間考えてきたことを少しまとめてみようと思って、とりあえず「土地境界について」というテーマで「連載」的に書いていくことにしようと思います。どれほど続けられるものか・・・。

前に少し書いたのですが、この二年間日調連研究所の研究員として「筆界論」に関する「研究」に当たりました。
この「筆界」という課題については、土地家屋調査士の中においてもいささか食傷気味にとらえている方が多いのではないか、という印象をもっているのですが、どうでしょう?「筆界」という概念は、実際の社会生活においてどのような有効性を持っているのか?かえって問題をややこしくするだけの邪魔な古い概念に過ぎないのではないか、というような感じになっている人が結構いるように思えるのです。

たしかに、「筆界」について「神のみぞ知る」、などということが言われることもあるわけで、そのようにとらえていたのでは(あるいはそのようにとらえられる余地のあるものであるのなら)、物事をややこしくする不要な概念だととらえられても仕方ないのだと思います。
しかし、私としては、この間「研究」してきたことの上で、「神のみぞ知る」的な考え方が間違っているのであって、「筆界」という概念を使って土地境界問題を考えて実際の処理に当たる、という方法は、なかなか「巧緻」なものなのだと思います(音の共通性から言うと「狡知」と言ってもいいほどに)。

「筆界」という「考え方」は、少なくともこれまでは、実際の社会的な問題である境界問題を解決するために有用であった、と思い、そのことを再確認しておく必要があるように思うのです。
しかし、それとともに、その有用性は、社会状況の変化の中で、これまでと同じような考え方、取り扱い方をしていたのでは失われて行ってしまう、ということについてもより強く思うようになりました。

そして、この「筆界」という概念の有用性をめぐる問題というのは、「土地家屋調査士」という職業の社会的有用性とも直結する問題なのだと思います。
すなわち、「土地家屋調査士」についても、これまで土地境界問題をはじめとする不動産をめぐる社会的問題の実際上の処理のために有用な存在であったわけですけれど、これまでと同じようなことをしていると、その社会的有用性は失われて行ってしまい存在意義がないものとされて行ってしまう危険性がある、ということです。

そのような問題意識を持ちつつ、以下五月雨的に、あちこちに行くような形で「連載」をしていくようにします。