「商店街」に関する話、・・・・って、私たち(土地家屋調査士)には関係ないなぁ、・・・・と思われた方が多いでしょうね。
でも、読んでみると意外に共通するところが多くて、非常に参考になりました。
「商店街」というものに、どんなイメージを持つのか、というのは、世代や育った地域によって、さまざまでしょう。同じ「商店街」に対して180°違うイメージがあるかもしれないので、まずそこを整理します。
まず、「商店街」というものは、通常言われているように古い歴史を持つもの(「平安時代以来のもの」という説もある、とのこと)ではなく、日本の近代化の過程で生み出された、比較的歴史の浅いものであることが明らかにされます。
「自営業層の安定によって都市の貧困化をとめ、それが安定した消費空間と地域社会の生成につながり、最終的には、社会経済上の平等化を実現する」
という社会政策として形成された、というわけです。
これは、戦後の高度成長の中でも、やや様相を変えながらも、「保護されるべき都市中間層」として存続・拡大していきます。そのようなものとして「商店街」は、ごく近年まで、社会的に有意義なものとしてあり、だからこそ存続してきたわけです。
しかし近年においては、「シャッター街」に示されるように衰亡への坂道を転がり落ちています。
その「理由」を著者は二つに収約しています。「一つは、商店街が恥知らずの圧力集団になったこと」、「二つ目の問題は専門性」、です。
一つめの「恥知らずの圧力集団」というのは、次のようなことです。戦前~戦後にかけて「商店街」が持った意義が、大規模スーパーが登場してくる中で、ある面では薄れて行ったことに対して「商店街」側がとった方策というのは、当初存在した社会的意義を新しい時代に見合ったものとして磨き上げていくことではなく、「大店法」等の「政治的規制」による「保護」の強化だった、ということです。このような方策は、一時的には奏功するとしても、中長期的には、自らの「正統性」を失わせ、全国民的な見方からすると「恥知らずの圧力集団」視されてしまう、ということになります。
もう一つの問題である「専門性」は、「商店街」が開かれた「専門性」を鍛え上げるものになっていなかった、ということです。これは、「規制」のありかたが地域的な限定性においてあったことから必要な専門性を伸ばしていく必要がなかった、ということと、「商店街」を構成する零細商店の経営形態が家族経営で権益が私物化されることによって世代間の継承がなされなくなってしまった、という点において指摘されています。
このような姿、というのは、私たちの将来を考えるうえで、実に参考になるような気がします。
しかし、本書における主張がそうであるように、「商店街」が持った社会的な意義は、本来的にはなくなっているわけではなく、正しく伸ばされるべきものなのだ、と私は思います。
この点について、村上春樹を引用しながら少し情緒的な言い方で言っている「抜け道」というのが、全体としての社会構成とその中における位置づけの問題として、私たちにも当てはまるのではないか、と思えます。「村上春樹の引用」は次のものです。
今、「金もないけど、就職もしたくない」という思いを抱いている若者たちはいったいどのような道を歩んでいるのだろうか?かつて僕もそんな一員だっただけに、現在の閉塞した社会状況はとても心配である。抜け道の数が多ければ多いほどその社会はよい社会だと僕は思っている。」
調査士に限らず多くの「資格業」は、「金もないけど就職したくない」若者や、すでに若者ではなくなった人々が歩いていける「抜け道」(バイパス)としての意義を持っている、と言えるのだと思います。その道を閉ざしてしまう、というのは、社会的に見て、決して得策ではない、とするべきでしょう。
もちろん、だからと言って、そのような「抜け道」の中にある非合理性がそのまま許される、ということではありません。それは、「商店街」と同じことです。全社会的に、長い目でみれば、「商店街」の自己変革が必要であったように、調査士をはじめとした資格者の世界にも自己変革が必要です。 社会の求める必要な自己変革を行いながら、大事な部分をを守って行く(そのための「まともな規制」の必要性はしっかりと主張して行く)という私たちも進んで行かなければならない道について、あらためて考えさせてもらえて非常に勉強になりました。