今、大分会で「大分の土地境界」に関する資料をまとめようとして、作業・打ち合わせをおこなっています。主に地租改正の時期(地券発行から更正図まで)のものをまとめているのですが、この資料を学ぶことが「土地家屋調査士にとってどのような意味を持つのか?」ということが明らかになるようにしたいと思い苦心しているところです。
そんな苦心の中、この資料をまとめることの意義を再確認させてくれるようなことがありました。
筆界調査委員向けにまとめてくれたある資料が送られてきて、それを読んだのですが、「不十分さを改善する」ことを目的としてまとめられた資料には、かえって大きな誤りがありました。「地租改正~第二次地押調査・更正図作成」という歴史を流れとして理解していないことからくる誤りであり、現在における「筆界の認定」にも影響を与えるようなことです。あらためて歴史的過程をしっかりと捉えることの重要性を感じさせられることでしたので、少し書くことにします。
たとえば、その資料では、公図についての評価の問題として、「傾斜がきつかったり、高低差の大きな部分の形状とは一致しないことが判明した。これは当時の測量方法では斜距離の計測が弱く、傾斜地の測量が平坦な土地と比べて、精度が低くなっていることが原因と考えられる」という叙述に対して、次のように「指摘」がなされています。。
①これは、「更正図は斜面の土地は「平斜面」に沿って斜めに測ってつくられたものだ」ということを言っている、ということなのかと思います。たしかに、具体的なある公図(更正図)を見ると斜めに測っているのではなかろうか、と思えるような公図にでくわすこともあります。しかし、そのことで「公図は斜めに測って作られている」と判断してしまうと、とんでもない誤りになります。むしろ歴史的な資料にあたってみると、「基本的にはそうではない」ということが見えてきます。それは、「更正図」がその名で呼ばれることになる「地図更正の件」(明治20年6月大蔵省内訓)とともに出された「地図更正」のマニュアルである「町村地図調製式及び更生手続」の「第九項」です。そこでは、「距離ヲ丈量スルハ勉メテ水平ニ縄ヲ引ク可シ。然ラサレハ自然差ヲ生スルモノナリ。且ツ第六図ノ如キ斜面地ニ於テハ、其縄ノ一端ヨリ垂球ヲ地上ニ垂レテ順次丈量スヘシ。然ルトキハ真ノ水平距離ヲ量リ得ルナリ。」とされていて、水平に測る方法まで図示されています。マニュアルでは水平に測るべきもの、とされているわけです。その上で、必ずしもマニュアルが守られているわけではない、ということをも考慮して検討しなければならないのですが、それは「相違が生じるのは当然」のことではなく、むしろマニュアルが守られているかの問題、その結果としての「精度」の問題になるわけで、上記の「指摘」とは全く反対のことになります。
②なぜこういうことになってしまうのか?・・・まずは、「更正図」を論じるのであれば絶対に押さえておくべき「地図更正の件」「町村地図調製式及び更生手続」をよく知らなかった、ということがあるのでしょう。「知識」は、やはり必要なのです。しかも、全体の流れをしっかりつかんだうえでの的確な知識が必要になります。
③このことは「明治17年の地租条例取扱心得」についての知識についても言えることです。「取扱心得」は、地租改正事業の完了を受けて、地租に関する事務の基本を「地租条例」として定めたものについて、実際の運用をさらに詳細に定めたものです。ですから、これはまだ「更正図」とはかかわりのないところのものです。「更正図」というのは、明治18年に「地押調査の件」が出されて(第二次)地押調査事業が推進される中で、地押調査の本来の目的である「実地と帳簿と齟齬なからしめる」ためには正確な地図が必要だ、ということで作られることになったものです。ですから明治17年の時点での「取扱心得」をもって「更正図」への評価をしようとする、というのはまったく的外れなことになります。
④もう少し具体的に言うと、「地租条例」の第六条で「開墾鍬下年期明荒地免租年期明にて地価を定めるとき又は地目変換するときは地盤を丈量す」とされている「丈量」について、「取扱心得」で「土地の丈量は三斜法を用い、その地主をしてこれをなさしめ」るものとされている、という構造です。これは、地租改正で全体としての「反別」が定められたことの上で、これを「分裂」したり「地目変換」したりするときに「地主」自体に図面を作って申告させてそれを検査する、という方法でよい、としているものです。これが地租の収納事務を進めるにあたっては、最小限の事務だとされたわけでしょう。そして、そのようなかたちだけでは収拾がつかなくなってくる中で明治18年以降の地押調査事業やその中での「地図更正」が必要とされてきたわけです。そのようなものとして正確な測量が求められて、近代的な測量技術である平板測量の方法に習熟した「プロ」の手によって更正図が作られた、ということになるわけです。年代をゴッチャにして考えてはいけません。
⑤このことをもう少し一般化して考えると、史料というのは一部分を切り取ってみてしまって全体の流れをつかんでいないと、その理解を大きく誤ってしまうものであり、全体としての流れを把握したうえで、個別の資料も読み取れるようにしなけえればならない、ということになります。
更正図のことについていえば、なぜ地租改正の成果(改租図)があるのにあらためて更正図を作る必要があったのか?ということを考える必要があります。それは、「改租図の出来が悪くて使い物にならなかったから」です(「使い物にならない地方があったので、その地方でつくられた」と言った方がいいかもしれませんが)。
では、何の為に使い物にならなかったのでしょうか?税金(地租)を確実に、人々の不満のできるだけでないような(公平な)形で集めることができるようにすることです。そのために「地租条例」や、その具体的マニュアルとしての「取扱心得」などを定めて収税事務に当たってきたけれど、やっぱり大元になる「帳簿図面」特に図面がしっかりとしていないと、その事務に差し障りがでる、ということで「地押調査事業」が「改租に亜ぐの大業」として行われることになり、そのためには正確な図面が必要だ、ということで更正図が作られることになった、というわけです。
しつこいようですが、ですからそのようにして必要となって作られた更正図についての評価を、明治17年地租条例(取扱心得)をもってしよう、というのは、まったく歴史の流れ、その中での事業の意味、その事業によって作られたものの今日における意義を理解せず、誤ったものになり、それは、実務に当たっては「公図の評価を誤り、筆界の位置を誤って判断してしまう」ことに結びついてしまうことになります。
・・・というわけで、大分会で進めている「大分県の土地境界」資料集づくりを、歴史の流れをつかめて、それが実務に役立つものにしていかなければ、とあらためて思わされたところです。
そんな苦心の中、この資料をまとめることの意義を再確認させてくれるようなことがありました。
筆界調査委員向けにまとめてくれたある資料が送られてきて、それを読んだのですが、「不十分さを改善する」ことを目的としてまとめられた資料には、かえって大きな誤りがありました。「地租改正~第二次地押調査・更正図作成」という歴史を流れとして理解していないことからくる誤りであり、現在における「筆界の認定」にも影響を与えるようなことです。あらためて歴史的過程をしっかりと捉えることの重要性を感じさせられることでしたので、少し書くことにします。
たとえば、その資料では、公図についての評価の問題として、「傾斜がきつかったり、高低差の大きな部分の形状とは一致しないことが判明した。これは当時の測量方法では斜距離の計測が弱く、傾斜地の測量が平坦な土地と比べて、精度が低くなっていることが原因と考えられる」という叙述に対して、次のように「指摘」がなされています。。
「更正図であれば、明治17年の地租条例取扱心得第7条において『山林・原野・雑種地等は、その実際の平斜面に応じて、三斜法その他の便宜の方法により測量』して差支えないとされている。そのため、現在の水平距離と比較すると相違点が生じるのは当然であり、精度の問題だとはいえない。」
これは、さまざまな意味で間違った「指摘」です。①これは、「更正図は斜面の土地は「平斜面」に沿って斜めに測ってつくられたものだ」ということを言っている、ということなのかと思います。たしかに、具体的なある公図(更正図)を見ると斜めに測っているのではなかろうか、と思えるような公図にでくわすこともあります。しかし、そのことで「公図は斜めに測って作られている」と判断してしまうと、とんでもない誤りになります。むしろ歴史的な資料にあたってみると、「基本的にはそうではない」ということが見えてきます。それは、「更正図」がその名で呼ばれることになる「地図更正の件」(明治20年6月大蔵省内訓)とともに出された「地図更正」のマニュアルである「町村地図調製式及び更生手続」の「第九項」です。そこでは、「距離ヲ丈量スルハ勉メテ水平ニ縄ヲ引ク可シ。然ラサレハ自然差ヲ生スルモノナリ。且ツ第六図ノ如キ斜面地ニ於テハ、其縄ノ一端ヨリ垂球ヲ地上ニ垂レテ順次丈量スヘシ。然ルトキハ真ノ水平距離ヲ量リ得ルナリ。」とされていて、水平に測る方法まで図示されています。マニュアルでは水平に測るべきもの、とされているわけです。その上で、必ずしもマニュアルが守られているわけではない、ということをも考慮して検討しなければならないのですが、それは「相違が生じるのは当然」のことではなく、むしろマニュアルが守られているかの問題、その結果としての「精度」の問題になるわけで、上記の「指摘」とは全く反対のことになります。
②なぜこういうことになってしまうのか?・・・まずは、「更正図」を論じるのであれば絶対に押さえておくべき「地図更正の件」「町村地図調製式及び更生手続」をよく知らなかった、ということがあるのでしょう。「知識」は、やはり必要なのです。しかも、全体の流れをしっかりつかんだうえでの的確な知識が必要になります。
③このことは「明治17年の地租条例取扱心得」についての知識についても言えることです。「取扱心得」は、地租改正事業の完了を受けて、地租に関する事務の基本を「地租条例」として定めたものについて、実際の運用をさらに詳細に定めたものです。ですから、これはまだ「更正図」とはかかわりのないところのものです。「更正図」というのは、明治18年に「地押調査の件」が出されて(第二次)地押調査事業が推進される中で、地押調査の本来の目的である「実地と帳簿と齟齬なからしめる」ためには正確な地図が必要だ、ということで作られることになったものです。ですから明治17年の時点での「取扱心得」をもって「更正図」への評価をしようとする、というのはまったく的外れなことになります。
④もう少し具体的に言うと、「地租条例」の第六条で「開墾鍬下年期明荒地免租年期明にて地価を定めるとき又は地目変換するときは地盤を丈量す」とされている「丈量」について、「取扱心得」で「土地の丈量は三斜法を用い、その地主をしてこれをなさしめ」るものとされている、という構造です。これは、地租改正で全体としての「反別」が定められたことの上で、これを「分裂」したり「地目変換」したりするときに「地主」自体に図面を作って申告させてそれを検査する、という方法でよい、としているものです。これが地租の収納事務を進めるにあたっては、最小限の事務だとされたわけでしょう。そして、そのようなかたちだけでは収拾がつかなくなってくる中で明治18年以降の地押調査事業やその中での「地図更正」が必要とされてきたわけです。そのようなものとして正確な測量が求められて、近代的な測量技術である平板測量の方法に習熟した「プロ」の手によって更正図が作られた、ということになるわけです。年代をゴッチャにして考えてはいけません。
⑤このことをもう少し一般化して考えると、史料というのは一部分を切り取ってみてしまって全体の流れをつかんでいないと、その理解を大きく誤ってしまうものであり、全体としての流れを把握したうえで、個別の資料も読み取れるようにしなけえればならない、ということになります。
更正図のことについていえば、なぜ地租改正の成果(改租図)があるのにあらためて更正図を作る必要があったのか?ということを考える必要があります。それは、「改租図の出来が悪くて使い物にならなかったから」です(「使い物にならない地方があったので、その地方でつくられた」と言った方がいいかもしれませんが)。
では、何の為に使い物にならなかったのでしょうか?税金(地租)を確実に、人々の不満のできるだけでないような(公平な)形で集めることができるようにすることです。そのために「地租条例」や、その具体的マニュアルとしての「取扱心得」などを定めて収税事務に当たってきたけれど、やっぱり大元になる「帳簿図面」特に図面がしっかりとしていないと、その事務に差し障りがでる、ということで「地押調査事業」が「改租に亜ぐの大業」として行われることになり、そのためには正確な図面が必要だ、ということで更正図が作られることになった、というわけです。
しつこいようですが、ですからそのようにして必要となって作られた更正図についての評価を、明治17年地租条例(取扱心得)をもってしよう、というのは、まったく歴史の流れ、その中での事業の意味、その事業によって作られたものの今日における意義を理解せず、誤ったものになり、それは、実務に当たっては「公図の評価を誤り、筆界の位置を誤って判断してしまう」ことに結びついてしまうことになります。
・・・というわけで、大分会で進めている「大分県の土地境界」資料集づくりを、歴史の流れをつかめて、それが実務に役立つものにしていかなければ、とあらためて思わされたところです。