大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

地租改正の歴史をまなぶことが土地家屋調査士にとってなぜ必要か?

2016-09-28 18:11:15 | 日記
今、大分会で「大分の土地境界」に関する資料をまとめようとして、作業・打ち合わせをおこなっています。主に地租改正の時期(地券発行から更正図まで)のものをまとめているのですが、この資料を学ぶことが「土地家屋調査士にとってどのような意味を持つのか?」ということが明らかになるようにしたいと思い苦心しているところです。
そんな苦心の中、この資料をまとめることの意義を再確認させてくれるようなことがありました。

筆界調査委員向けにまとめてくれたある資料が送られてきて、それを読んだのですが、「不十分さを改善する」ことを目的としてまとめられた資料には、かえって大きな誤りがありました。「地租改正~第二次地押調査・更正図作成」という歴史を流れとして理解していないことからくる誤りであり、現在における「筆界の認定」にも影響を与えるようなことです。あらためて歴史的過程をしっかりと捉えることの重要性を感じさせられることでしたので、少し書くことにします。

たとえば、その資料では、公図についての評価の問題として、「傾斜がきつかったり、高低差の大きな部分の形状とは一致しないことが判明した。これは当時の測量方法では斜距離の計測が弱く、傾斜地の測量が平坦な土地と比べて、精度が低くなっていることが原因と考えられる」という叙述に対して、次のように「指摘」がなされています。。
「更正図であれば、明治17年の地租条例取扱心得第7条において『山林・原野・雑種地等は、その実際の平斜面に応じて、三斜法その他の便宜の方法により測量』して差支えないとされている。そのため、現在の水平距離と比較すると相違点が生じるのは当然であり、精度の問題だとはいえない。」
これは、さまざまな意味で間違った「指摘」です。
①これは、「更正図は斜面の土地は「平斜面」に沿って斜めに測ってつくられたものだ」ということを言っている、ということなのかと思います。たしかに、具体的なある公図(更正図)を見ると斜めに測っているのではなかろうか、と思えるような公図にでくわすこともあります。しかし、そのことで「公図は斜めに測って作られている」と判断してしまうと、とんでもない誤りになります。むしろ歴史的な資料にあたってみると、「基本的にはそうではない」ということが見えてきます。それは、「更正図」がその名で呼ばれることになる「地図更正の件」(明治20年6月大蔵省内訓)とともに出された「地図更正」のマニュアルである「町村地図調製式及び更生手続」の「第九項」です。そこでは、「距離ヲ丈量スルハ勉メテ水平ニ縄ヲ引ク可シ。然ラサレハ自然差ヲ生スルモノナリ。且ツ第六図ノ如キ斜面地ニ於テハ、其縄ノ一端ヨリ垂球ヲ地上ニ垂レテ順次丈量スヘシ。然ルトキハ真ノ水平距離ヲ量リ得ルナリ。」とされていて、水平に測る方法まで図示されています。マニュアルでは水平に測るべきもの、とされているわけです。その上で、必ずしもマニュアルが守られているわけではない、ということをも考慮して検討しなければならないのですが、それは「相違が生じるのは当然」のことではなく、むしろマニュアルが守られているかの問題、その結果としての「精度」の問題になるわけで、上記の「指摘」とは全く反対のことになります。
②なぜこういうことになってしまうのか?・・・まずは、「更正図」を論じるのであれば絶対に押さえておくべき「地図更正の件」「町村地図調製式及び更生手続」をよく知らなかった、ということがあるのでしょう。「知識」は、やはり必要なのです。しかも、全体の流れをしっかりつかんだうえでの的確な知識が必要になります。
③このことは「明治17年の地租条例取扱心得」についての知識についても言えることです。「取扱心得」は、地租改正事業の完了を受けて、地租に関する事務の基本を「地租条例」として定めたものについて、実際の運用をさらに詳細に定めたものです。ですから、これはまだ「更正図」とはかかわりのないところのものです。「更正図」というのは、明治18年に「地押調査の件」が出されて(第二次)地押調査事業が推進される中で、地押調査の本来の目的である「実地と帳簿と齟齬なからしめる」ためには正確な地図が必要だ、ということで作られることになったものです。ですから明治17年の時点での「取扱心得」をもって「更正図」への評価をしようとする、というのはまったく的外れなことになります。
④もう少し具体的に言うと、「地租条例」の第六条で「開墾鍬下年期明荒地免租年期明にて地価を定めるとき又は地目変換するときは地盤を丈量す」とされている「丈量」について、「取扱心得」で「土地の丈量は三斜法を用い、その地主をしてこれをなさしめ」るものとされている、という構造です。これは、地租改正で全体としての「反別」が定められたことの上で、これを「分裂」したり「地目変換」したりするときに「地主」自体に図面を作って申告させてそれを検査する、という方法でよい、としているものです。これが地租の収納事務を進めるにあたっては、最小限の事務だとされたわけでしょう。そして、そのようなかたちだけでは収拾がつかなくなってくる中で明治18年以降の地押調査事業やその中での「地図更正」が必要とされてきたわけです。そのようなものとして正確な測量が求められて、近代的な測量技術である平板測量の方法に習熟した「プロ」の手によって更正図が作られた、ということになるわけです。年代をゴッチャにして考えてはいけません。
⑤このことをもう少し一般化して考えると、史料というのは一部分を切り取ってみてしまって全体の流れをつかんでいないと、その理解を大きく誤ってしまうものであり、全体としての流れを把握したうえで、個別の資料も読み取れるようにしなけえればならない、ということになります。
更正図のことについていえば、なぜ地租改正の成果(改租図)があるのにあらためて更正図を作る必要があったのか?ということを考える必要があります。それは、「改租図の出来が悪くて使い物にならなかったから」です(「使い物にならない地方があったので、その地方でつくられた」と言った方がいいかもしれませんが)。
では、何の為に使い物にならなかったのでしょうか?税金(地租)を確実に、人々の不満のできるだけでないような(公平な)形で集めることができるようにすることです。そのために「地租条例」や、その具体的マニュアルとしての「取扱心得」などを定めて収税事務に当たってきたけれど、やっぱり大元になる「帳簿図面」特に図面がしっかりとしていないと、その事務に差し障りがでる、ということで「地押調査事業」が「改租に亜ぐの大業」として行われることになり、そのためには正確な図面が必要だ、ということで更正図が作られることになった、というわけです。
しつこいようですが、ですからそのようにして必要となって作られた更正図についての評価を、明治17年地租条例(取扱心得)をもってしよう、というのは、まったく歴史の流れ、その中での事業の意味、その事業によって作られたものの今日における意義を理解せず、誤ったものになり、それは、実務に当たっては「公図の評価を誤り、筆界の位置を誤って判断してしまう」ことに結びついてしまうことになります。

・・・というわけで、大分会で進めている「大分県の土地境界」資料集づくりを、歴史の流れをつかめて、それが実務に役立つものにしていかなければ、とあらためて思わされたところです。


「土地家屋調査士の業務範囲について」・・・続き

2016-09-23 17:31:29 | 日記
以前(8月16日)に「土地家屋調査士の業務範囲」について書いたことに、何度かにわたってコメントを入れてくれている方がいます。
このブログにおける私の基本方針は、「コメントには対応しない」、なのですが、ちょうどその後の「続き」として書きたかったことと関係するので、コメントに係ることについてかくことにします。

コメントの趣旨がよく理解できないのですが、「登記に直接関係するわけでない測量を土地家屋調査士が行うのは測量法に抵触するのではないか」という趣旨なのかと思い、その上で書きます。

まずは、そのようなことを調査士がすることの是非を「法への抵触の如何」によって考える、としていることについては、まぁ宜しいことだと思います。
調査士は(というよりもすべての人間は)「なんらかの法律で禁じられていること以外はしてもいい」ものとしてあります。だから、ある事柄を「してもいいのかどうか?」という問題は、それが「してもいいこととして法律に書いてあるか?」ということで考えるべきなのではなく「何らかの法律で禁止されていないかどうか?」で考えるべき、なのです。ここまではいい、と言えます。

その先が問題になります。「何らかの法律で・・・」という問題を考えた時に、コメントの人は「測量法」を考えました。
これは、「土地家屋調査士の業務範囲」について「調査・測量」ということで問題になっているので、いわば自然と「測量法」として考えられた、ということなのかと思います。或いは日々「測量」をしている現実の上での実感として「測量法」を考えたのかもしれません。
しかし、「測量法」に焦点を当てて考える、というのは、私は違う、と思います。

ある法律の内容を理解するときに、「立法趣旨」を考えることが重要です。この「立法趣旨」は、そもそもその法律を必要とした社会的事実への理解や、国会での審議内容等を含めて考えるべきものですが、それらをするにあたってもまず第一に見るべきものは「第一条」で示されるその法律の「目的」、ということになります。今、問題にしている「測量法」では第一条は次のようになっています。
第一条  この法律は、国若しくは公共団体が費用の全部若しくは一部を負担し、若しくは補助して実施する土地の測量又はこれらの測量の結果を利用する土地の測量について、その実施の基準及び実施に必要な権能を定め、測量の重複を除き、並びに測量の正確さを確保するとともに、測量業を営む者の登録の実施、業務の規制等により、測量業の適正な運営とその健全な発達を図り、もつて各種測量の調整及び測量制度の改善発達に資することを目的とする。
測量法というのは、そもそも「国もしくは公共団体」の測量に関する法律なのです。
ですから、私が前回書いた「登記に直接かかわらない筆界調査・測量」というのは、そもそも「測量法への抵触」が問題になるようなものではありません。(他にもいくつかの論点がありますが、これ以上は必要ないので省略します。)

さて、その上で、やや細かい話になりますが、この問題について、コメントの人(同じ人かどうかわかりませんが)は「登記を前提としない調査測量」という言葉の使い方をしています。しかし、「登記を前提としない」というのはいけませんね。分筆等の登記を行うことを直接に目指していないシチュエーションで筆界調査やそのための測量を行うにしても、それはいつかその成果を利用して分筆登記等ができるようなものとして行うものです。その意味では、あくまでも「登記を前提」にしているものでなければいけない、と言えるでしょう。
「登記に直接かかわらない」というのは「登記を前提としない」のとは、全然違うものです。なお、土地家屋調査士法での用語の使い方は「不動産の表示に関する登記に必要な・・調査又は測量」です。登記を前提とした概念である「筆界」に関する調査・測量というのは、その中に入るもの、と言えるのかと思いますが、ここについてはもう一段明確にした方がいいのかとは思います。(これは土地家屋調査士の専管業務に関する解釈の問題であって、「してもいいか」の問題ではありません。)

それにしても、コメントをくれた方が土地家屋調査士なのかどうかわかりませんが、もしも調査士なのだとしたら、自分自身の業務に関する法令についての解釈をできず、そのための頼りになるものもない、というのは、考えさせられることです。これは、まず第一にこの解釈を示さなければならない資格者団体(土地家屋調査士会・日調連)が、それをはっきりと示さずにいること、そして「研修」を通じて共有化することを怠っていること、の反映だとらえるべきでしょう。反省しなければならないことなのだと思います。


行政機関の情報公開について

2016-09-14 18:50:30 | 日記
東京都の「豊洲新市場」の汚染土壌対策の問題が大きな問題になっています。

全体的に4.5mの盛土をすることとされていたのに、主要建物の位置ではそれがなされていないことが判明した、というのが「問題」だそうです。
たしかに、それは「問題」なのだと思います。しかし、事情をよく知らない私からすると、こんなことが今までわからなかった、ということこそ「問題」に思えてしまいます。
敷地の地盤の上に建物が置いてあるように建てられているわけではなく、地下に一定の構造物がある、ということは常識的に考えてわかりそうなことです。そうだとすれば、その地下のものというのは、盛土部分とどういう関係にあるのか?ということは当然考えられていいことなのだと思います。膨大な人間が関与したプロジェクトの中で、誰もそういうことに「思いが至らない」なんてことは、ありえないことのように思えます。
どういうことなのか、是非解明してほしいと思いますが、いずれにしても一つの大きな問題というのは、東京都の情報公開のありかたなのではないか、と思います。インターネットの世界が広がる中、それ相応の情報を公開していれば、もう少し早い時点で何らかの問題提起がなされたのではないか、という気がするのです。

日本の行政期間における情報公開は、「情報公開法」の制定など、昔に比べれば格段に進んだ、と言えるのでしょうが、それにしてもまだまだ閉鎖的です。情報公開法の解釈にしても、「公開へ向けて」ではなく「非公開で済ませるため」の解釈を練り上げている、という感じを受けることがよくあります。

あまり関連性はないのですが、身近なことでは次のようなことがあります。

「登記所備付地図作成作業」の発注状況についての、インターネット(法務局の調達情報)での公開(公表)について、です。

わが大分地方法務局のものをみてびっくり。なんと「落札者」について「個人情報につき非公開」となっています。こんなの初めて見ました。

行政機関における情報公開と個人情報の保護というのは、たしかに難しい問題を含むものです。行政機関が情報公開を拒む理由としてこの「個人情報」を挙げることが多い、ということは以前からあり、それが行き過ぎになってしまっているのではないか、という指摘がなされていまきました。
しかし、それにしても、この入札(落札)情報の公開における、落札者氏名の「個人情報につき非公開」というのには驚きました。

そもそも、こういうふうに、インターネットで調達(入札)状況を公開している、というのにはそれなりの意味があるのでしょう。税金を使っての発注が適正に行われているのか、その金額が不当に高すぎたり、あるいは不正競争に当たるように不当に低かったりはしないか、受注(落札)者が偏っていないか、反社会的集団とのつながりがあったりはしないか、落札者は正常に業務を遂行できるのか・・・等々等、・・・もちろん行政機関自体でも精査の上で進めてはいるのでしょうが(東京都の市場関係者のように)、それだけでなく広く社会に公開することによるチェック機能というのも必要なのだと思います。

それを、落札者について「個人情報」だとして「非公開」にしてしまう、というのは、どういう理由なのでしょうか?行政機関が入札にかけたものに応札をして、しかも落札・受注している、ということは、すでに「公的」なものになっているのであって、そもそも「個人情報」に当たらないと思いますし(情報公開法では「非公開情報」として「個人情報」が挙げられていますが、その場合でも「事業を営む個人の当該事業に関する情報を除く」とされています)、「個人情報」などの「非開示情報」にあたるとしても「公益上特に必要であると認めるとき」には公開できるものとされています。

入札の、しかも落札=受注者が誰であるのか、ということを、インターネットでわざわざ「政府調達情報の公開」をしている場で「非公開」にしてしまう、というのは、情報公開の制度をどう考え、法令等をどう解釈してなされることなのか、・・・とても興味のあることです。

「現場感覚」「実務感覚」

2016-09-09 18:41:34 | 日記
前回、「所有者不明土地を隣接地とする土地について分筆の登記等を可能とするための筆界特定手続の取扱要領(案)」について書きましたが、そのことについて考える中で、「現場感覚」とか「実務感覚」と言われるものについて考えさせられたところがあったので、それについて書きます。

「所有者不明土地」ということが問題になってきたとき、土地家屋調査士(と言うのは、その組織的な表現である土地家屋調査士会―日調連が、ということですが)が考えた対応というのは、「固定資産台帳などを調べることによって所有者を探せるようにしたい」というものでした。登記情報などで探索できないものも、課税情報を調べて見つけられるようにしたい、というものです。
実務上ぶつかった問題に対して、とにかく直接ぶつかったものをどうにかしたい、というところから出てきている考え方でしょう。
しかし、これはいささか情けないものです。
実務の中でぶつかった問題について、それが現在の社会の中でどのような意味を持っているのか考え(一般化・普遍化して)、それに対する有効な方策を考える、ということが、本当は必要なのだと思います。そういうのが本来求められている「現場感覚」「実務感覚」を持った考え方というべきものです。
そうでなく、現場でぶつかった問題について、直対応的に「どうにかしてくれ」と言うのはただの「わがまま」みたいなものです。

たしかに、これまでの「実務」における現実の問題として、分筆等の登記を行うために求められる「筆界確認」というのが、「隣接地所有者と立会をして承認を得ること」になってしまっている、ということはありました。しかし、それを前提にしてしまって、「立ち会うためには所在を探すことが必要だから探せるようにしたい」ということをメインの問題にする、というのは話の筋が違うことのように思えます。
どこにいるのかもすぐにはわからないような人を見付け出すことができて、連絡がついたとしても、その人はわざわざ「立会」にきてくれるものでしょうか? もしも来てくれたとしても、その人はそもそもその土地を知っているのでしょうか? 知っていたとしても、筆界に関する(昔の、もともとの境界に関する)認識を持っているのでしょうか?・・・・きわめて「?」の多いことです。
そういう「?」がいっぱいある中で、「それでも所有者を呼んで立会をして承認を得ることが求められているから、とにかく探すための条件をよくしたい」というのは、何も考えずにただ命じられたことをやればいいだろう、という従僕の考え方です。少なくとも話の筋が違います。

意味のなくなったものでもいつまでも求め続ける、というのがお役所(官僚機構)の一つの習性としてあるわけで、それに対して「社会の現実が変わっているのだからちはう方向を考えよう」と提案するのが「民間」のなすべきことなのだと私は思います。
しかし、土地家屋調査士の世界では、それがおよそなされていません。むしろ、役所よりもさらに保守的になってしまっていて、よくても役所の後についていくだけで、ひどいときには役所でさえ必要性を認める改革の足を引っ張ることさえしてしまうようになっているように感じることがよくあります。

こういう個別の事情と利害にしがみつくことが「現場感覚」「実務感覚」だと考えられているような現状を変えていかないと、本当に未来はない、と思います。









「所有者不明土地を隣接地とする土地について分筆の登記等を可能とするための筆界特定手続の取扱要領(案)」について

2016-09-02 17:07:49 | 日記
タイトルの「案」(略して「所有者不明土地用筆界特定」・・・・あまり略したメリットを感じない長さですが・・・)ができていて、その検討がなされている、ということを今月の「Eメールマンスリー」で初めて知りました。情報に疎くなってしまっていていけません。

「案」を読んでみての感想は、「目指しているものはいいのに、なぜこういうことになっちゃうの?」 です。以下、そう思う理由等について書きます。

まず、そもそもこの「所有者不明土地用筆界特定」とは、どういうものとして考えられているのか?ということを紹介します。

冒頭に「目的」が明らかにされています。
「昨今、相続の発生や地方から都市への人口移動などにより、不動産登記簿等から所有者が直ちに判明しない、または判明しても連絡を取ることができない土地(以下「所有者不明土地」という)が増加しており、今後、隣接地所有者による筆界の確認ができないために分筆の登記又は地積更正の登記が事実上困難となる事案が増加することが懸念される。このような所有者不明土地を隣接地とする土地の分筆の登記又は地積更正の登記を可能とするための方策として、筆界特定制度を活用することが考えられる。」
というものです。

隣接地の所有者が所在不明の場合に分筆登記等ができなくなってしまうのであれば困る、と言うか、そんな状態にしてしまうことがよくないのは明らかですので、どうにかしなくてはいけない、ということが考えられるのはいいことです。
そして、そのために筆界特定制度が有用である、というのもその通りだと思います。
だから、「目指しているもの」はいいのだと思います。

しかし、ここで考えておかなければならないのは、隣接地所有者が所在不明だと分筆登記等ができない」というのは、現実の問題として、分筆登記等を行おうとする土地と隣接地との筆界を確認するためには「隣接地所有者」との立会によって同意を得ることが必要とされている、という「現実」「実態」が一般的なものである、という前提のうえでのことだ、ということです。
この前提の上で問題を立てていたのでは、本質的な問題の解決に近づくことはできないように思えます。
それは、「土地所有者が自分の土地の筆界を知っている」ということがかつては一般的であったけれども、そういう時代が終わろうとしているからです。「案」の「目的」の冒頭に言われているように、まさに問題は「相続の発生や地方から都市への人口移動などにより」生まれているものです。これにより、所有者が不明になるだけでなく、所有者自体は判明して連絡を取ることができるにもかかわらず筆界については何も知らずしたがってその「確認」のしようがない、という事案も増加することが懸念されるわけです。
このような場合には、筆界の位置を客観的に明らかにする、ということが重要になります。その一つの形態が筆界特定制度であり、そのようなものとして「筆界特定制度を活用すること」の意味は大きい、と言えます。
問題は、単に「所有者不明」ということだけには限られないのであり、「所有者不明」を生み出す社会の環境変化への対応、ということとして考える必要があるのでしょう。

筆界特定制度が所有者不明土地との筆界を特定するために有用である、ということは、別にいまに始まったことではありません。制度発足当初に調査した時点でも、全体の6%は「隣接地の所有者不明」を理由とする申請でした(日調連平成21年調査)。このペースだと、これまでで1500件ほどは「所有者不明」を理由に筆界特定申請がなされ、筆界特定の上で分筆登記等が処理された、ということになるのかと思われます。
では、なぜ今、「所有者不明土地用筆界特定」というものが改めて問題にされるのでしょう?
おそらく、筆界特定手続に時間がかかりすぎる、という「現実」がある、ということなのかと思います。「普通の筆界特定手続」をすると、大体6ヶ月くらいはかかってしまう、これでは分筆登記等の必要性に十分に答えられないので、迅速に処理ができるようにしなければならない、ということなのでしょう。
そのために「所有者不明土地用筆界特定」という、「普通の筆界特定」とは違う類型を考えた、ということなのかと思われるわけです。

たしかに、ただ隣接地の所有者が不明だ、というだけで、分筆登記をするのに6ヶ月も待たなければならない、というのは納得できることではありません。もう少し早く筆界特定がなされてもいいのではないか、と思います。
しかし、これは単に「隣接地の所有者不明」の場合だけではありません。筆界の位置が表面的な資料からはなかなか判断が付かず、当事者同士の紛争性も高いような場合には、「6ヶ月」くらいの期間を要してもしかたないと思いますが、筆界の位置は資料上も現地の状況からも明々白々なのに隣接地所有者が対応してくれない、とか、まったく荒唐無稽なことを言って筆界確認ができずにやむを得ず筆界特定申請に及んだ、というような場合にも「6ヶ月」かかってしまう、というのも納得できるものではありません。
要するに、事案の特性をしっかりと把握して、それに応じた手続がなされるようにする、ということが重要なのだと思います。

このことは、「案」においても意識されてはいるようです。たとえば、「①現地復元性のある資料がない、②公図等と占有状態が大きく相違している等」の事案については「本取扱いによる筆界特定手続が可能か否かも含めて検討を行う」ものとされています。迅速で簡易な手続で済ませるかどうか、ということは「所有者不明」かどうかによるのではなく、筆界を特定することの困難性の程度による、ということを明確にするべきなのだと思います。

なお、この「所有者不明土地用筆界特定」において、手続を迅速に進めるために必要とされていることは、「申請代理人による事前準備調査に準ずる調査及び意見書(案)の作成」だとされています。
これについても、「所有者不明土地用筆界特定」だけに限られる問題ではありません。私たちは、すべての筆界特定手続において、代理人である土地家屋調査士は、事前の調査とその結果の意見書としての提出が必要だ、としてきました。そして、その提出のなされた事件においては、その提出のない事件に比べて迅速な筆界特定手続を行うようにするべきだ、と考えてきました。
残念ながら「現実」はそのようには進まないものが多かったのですが、そのような「現実」こそが見直されなければならないのだと思います。問題を「所有者不明土地用筆界特定」だけに限ってしまうのは、その水戸をかえって閉ざしてしまうように思えてしまいます。
「所有者不明土地用筆界特定」だけに限らず、事案の特性を踏まえて、また、代理人による調査結果を有効に活用して、その事案に即した迅速な手続を目指す、ということを明らかに須べきだと思います。

以上のように、「所有者不明土地用筆界特定」は、目指すべきものはよく、その意味で推進されるべきものだとは思うのですが、「案」のようなものだと、結局実際に役立つ場面をあまり得ずに終わってしまうような気がします。
それは、本質的には、社会の構造的な変化に対する根本的な対応ではなく、「所有者不明土地」という現象への対症療法的対応に過ぎなくなっていることによります。また現実の問題としては、筆界特定事件に関する内容的な分析・判断の上で具体的な方針を考えるのではなく、「所有者不明土地」かどうかという形式的・外形的な事柄への判断の上で定型的な処理をしようとするものであること、において方向性が違ってきてしまっているのではないか、と思えるのです。
このような傾向というのは、やっぱり行政機関的な(官僚機構的な、と言ってもいいのですが)考え方だな、という気がします(そういえば、「案」の中で「法務局職員」という用語が頻出しています。実質的な判断ではなく、形式的な適合性を問う文脈の中で出てくる用語のような気がします)。

民間の資格者である土地家屋調査士としては、行政的な手続が形式的なものに流れていくのに対して、実質的な有効性を持つものになるよう、積極的な提案やサポートをしていく必要があります。
私たちはそういう役割を果たせてきているのか?・・・問い直す必要があるのでしょう。