大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

佐川前国税庁長官の証人喚問

2018-03-29 20:25:50 | 日記
佐川前国税庁長官の証人喚問。すでにあちこちで言われていることですが、少しだけ。

結局、「刑事訴追の恐れ」を理由にほとんど何の証言もなされませんでした。
「何人も自己に不利益な供述を強要されない」というのは憲法(38条1項)にも定めのある大原則ですから、「強要」することはできないにしても、「全く情けない」と悪罵を投げかけることはできるでしょう。
確かに、「何人も強要されない」という原則がありながら、全国で毎日のように「被疑者」となった人たちが、自らの犯行を「自供」しています。それは、まったく「自己に不利益」なことを、それによって刑事訴追を受けることが確実な状況のなかで述べるものです。中には、自分のししていないことまで「自供」させられてしまうこともありますので、そこに「強要」的契機がまったくないのか、と言うとそうでもないのかもしれませんが、それにしても多くは「強要」ではなく、「説得」によって、刑事訴追の恐れのある自己に不利益な事実を進んで述べているのです。それは、「犯罪」という公益を害することをしてしまった者が、自分自身の「刑事訴追を免れる」という私益にしがみつくことを潔しとしないところで選択をした結果のものだととらえるべきものです。
それに対して、「全体の奉仕者」たる公務員(15条2項)のほとんどトップの地位にまで登りつけた人間、それも国民から税金を徴収する組織の長にまでなった人間が、その地位(というのは国税庁長官だけでなくトップに近い地位、ということですが)にあった時に行った行為について、「刑事訴追を受けたくない」という私益のために、国有地の不当廉売や公文書偽造という大きな公益に関する問題を明らかにしない、というのは、まったくもって恥ずべきことです。
本来であれば、自らの(あるいは部下の)犯した行為は万死に値することだから、一切合切洗いざらい明らかにしたうえで殺してほしいくらいだが、そういうわけにもいかないので、刑事訴追をしてくれて、法定刑の範囲内で罪を償う機会を与えていただければありがたい、とするべきものでしょう。それを自分一身が「刑事訴追を受けたくない」という「私益」のために何も明らかにしない、というのは卑怯を超えて卑劣というべき行為・姿勢です。

佐川前国税庁長官の証人喚問における基本姿勢が、このように「自分の一身上の利益」によるものである、ということを確認できると、自分自身の関与については何も話をしないくせに安倍首相等の関与についてだけは妙に明確に否定する、という整合性の取れない態度についても説明がつきます。
要するに、そのような態度をとった方が自分自身の利益になる、と判断した、ということなのでしょう。理財局長時代の善かれと思って行った国会での虚偽答弁や、それによって必要となった決裁文書偽造という犯罪行為によって、これまで築き上げてきた栄華は崩れ落ちてしまいましたが、それでもなお、これまでと同じように権力者の意向に沿った行動をとることが自分自身の利益につながる、と判断した、と言うことなのだと思います。その判断が、「自分自身の判断」なのか、「外部からの関与」によるものなのかわかりませんが、いずれにしてもそ「公益」を考えた上でのものでないことは確かです。

おりしも「教科」とされることになった「道徳」の教科書検定のニュースがありましたが、こんな「全体の奉仕者」たる公務員のトップクラスの人間の「私益」にしがみつく姿を、子供たちを含む全国民の前に曝け出しているようでは、どんなに「道徳教育」に力を入れても公益に資するものにはなりようがない、と思えてしまいます。

今日もまた「財務省文書偽造問題」

2018-03-26 20:53:17 | 日記
本ブログにおける話がなかなか前に進まないのですが、今日も「財務省文書偽造事件」について。

今日も参議院予算委員会の中継を聴いていました。もっとも、与野党問わず、くだらない質問が多すぎるので、その都度嫌になってしまって飛び飛びではあるのですが・・・。

中継を直接聞いていると、マスメディアで報道されないようなことでもびっくりするようなことがあります。
今日で言うと、自民党の山本一太議員の質問とそれに対する財務省の答えです。
これをマスメディアが伝えない、というのは、どういうことなのか?と思うのですが、まぁいいや。紹介します。

まず、佐川前理財局長がいつの時点で「改竄」を知っていたのか?という質問に対して、財務省は、(大意)「最初に知っていたということであれば指示をしたということになるし、途中で知っていたということであれば相談を受けていたということになるし、最後に知ったということであれば、それでいいとしたということになるけれど、今は、どこの時点のなのかわからない」というようなことを答えています。へぇ、そんなものかね?と思わされることではありますが、「刑事訴追の恐れ」を言えば、大した追及をできないのが、この人たちの世界なんだな、と「了解」や「納得」はできないまでも「理解」はさせられるところです。

びっくりしたのは、その次です。山本一太は、「これまでで明らかになったこと」として、「総理・財務大臣の関与がなかったこと」」(これが問題になっているにもかかわらず)が「明らかになった」とした上で次のような質問をします。典型的な「誘導尋問」というか、よりひどい「強要尋問」だと思いますが、次のものです。
「官邸も官房長も、いわゆる書き換えのことについては知らなかった、全く報告を受けてない、これは大事なところなので断言してもらいたい。」
これに財務省の矢野官房長は答えます。
「委員の指摘のとおり、本件につきましては総理官邸も麻生大臣も全く指示もしておられませんし、関与もしておられませんでしたことは紛れもない事実でございます。」
・・・すごいですよね。自分の役所の中の人間がどのような関与をしたのかはわからないのに、「外部」からの関与があったのかどうなのか、という革新的な問題については、「なかった」ということが「紛れもない事実」としてわかってしまうのです。
佐川前局長がどの程度関わっていたのか、ということについては、それが(川の流れで言えば)「上流」からなのか?「中流」からなのか?「下流」からなのか?ということはわからない、としながら、そのさらに上に「水源」があったかどうか、ということは「紛れもない事実」として「なかった」とわかる、というのです。
すでにこれだけで、「財務省は嘘をついている」ということがわかります。少なくとも、「政治的圧力」(もちろん強いところからです)がかかれば「紛れもない事実」でさえ平気で書き換えられてしまうことが、この国会質疑からも見て取ることができるわけです。

・・・ということの上で、このような「紛れもない事実」を私たちとしては、どう受け止めるべきなのか、ということが問題になります。

すまじきものは宮仕え

2018-03-19 20:45:07 | 日記


今日一日、国会中継を聞いていました。
感想としては、「すまじきものは宮仕え」。
「官庁の中の官庁」の財務省において激烈な出世競争を勝ち抜いてきた「エリート中のエリート」である「財務省官房長」「理財局長」などが、何をつまらないことを言ってるんだろう?と呆れかえってしまうようなものでしたね。哀しい。
そこでおもったのが、「すまじきものは宮仕え」です。つくづく「官僚になどならずによかった」と思います。(同様に「芸能人にならずによかった」とよく思いますが、なろうと思ってもどうせなれなかった、ということはさておいて・・・。)

・・・と思ったところで、そんな風に「他人」のことを見ながら、はたして私たちはどれだけこの「官僚の不自由さ」と無縁で居られているのか?ということも考えさせられてしまいます。
今や、完全な「悪者」に仕立て上げられてしまったあの佐川(さん)も、ほんの二週間前までは「国税庁長官」でした。財務省理財局長という要職において、森友問題での国会質疑という難関を乗り越えた能吏として「適材適所」で国税庁長官に起用されていたわけですが、もはや「トカゲのしっぽ」になってしまいました。政治家たちが「佐川のせい」ということで収めようとしたり、それに便乗した後任の理財局長が「佐川さんの責任」で終わらせようとしているのを見るにつけ、「すまじきものは宮仕え」とは思うのですが、はたして「民間」の私たちは、それとどれほど離れたところにいるのだろう?ということも考えさせられてしまうのです。

佐川さんが、国税庁長官になった後、就任記者会見もせずひたすら表に出ないようにしていたうえで、初めて表に出てきたのは、日本税理士会連合会での「新春インタビュー」だったそうです。そこでは、日税連の会長などが森友問題にはなんら触れないまま、「税務行政」などについて語り合った、とのことです。
このようなことが、今の時点でどう評価されるのかはよくわかりませんが、少なくともその当時においては、税務当局の眼鏡に適い、政権の眼鏡に適うことであったのでしょう。
しかし、ここにおいて本当は、「日税連」の姿が問われていたのだと思います。財務省・国税庁の下請け・翼賛業者なのか、国民の側に立った民間資格者なのか?という問いです。

同様のことは、私たち土地家屋調査士にも言えます。法務省において不祥事が起き、それを官僚たちがひた隠しにしようとしたときに、はたして私たちはどのような態度をとれるのか?(実は、すでに同様のことはいくらでもあった、と言えるのですが、それはさておき)「未来」の問題として)考えておかなければならないことです。

「財務省」文書偽造事件

2018-03-12 20:17:48 | 日記
財務省は「1984年」の真理省になったか。いよいよオーウェルの世界。国民を欺いてきた始末をどうつける。

3月12日朝日新聞夕刊の「素粒子」です。
財務省の「文書改竄」事件について聞いたときに、私も「オーウェル『1984年』の真理省」を、まず思い浮かべました。そう書こう、と思っていたら、上記「素粒子」を見て、まぁだれしも思うことは同じだな、と思い、同じようなことを書いてもしょうがないな、と思いました。・・・で、見方を変えて、というか、自分たちの方に視点をひきよせて、考えようと持ったのですが、あまりにも長くなりそうなので、きょうのところは、その前提となることについてだけ書いておくようにしたいと思います。

まずは、「素粒子」で言われていることの意味が通じないといけないので、とりあえず「Wikipedia」wを引用してジョージオーウェル「1984年」についての解説を載せさせていただきます。
1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。
ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらに、ウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。
ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は、「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら“心から”党を愛すようになるのであった。

・・・オーウェルの「1984年」は名作ですので、是非現物に当たっていただきたいと思いますが、とりあえず若干の「補足」をします。
「主人公ウィンストン・スミス」は「真理省」の役人として勤めています。今で言えば「官僚機構の一端」ですが、もっともっと末端の位置にいます。歴史的な事実を扱う部署にいますが、時の政権が「真実」だとすることに基づいて「歴史」の改竄を行う作業を(その末端で)行っていて、すでに時の政権の都合のいいように、何度も「歴史」を改ざんしていますので、スミスのような末端の役人だけでなくその上司たちを含めて「何が真実か?」ということは、すでに分からなくなっています。その中で、その時々に都合のいいように「歴史」を書き換える作業が繰り返されられ、「昨日の真実は今日の嘘、今日の嘘は明日の真実」という状態になっています。スミスは、その中で、いわば機械的に「歴史」の改竄を自らの職務として行いつつ、それをも含む全体のありかたに疑問を抱いていくということがこの小説で描かれていることです。

・・そのうえで、今回の事件。
この事件というのは、今、「麻生財務大臣が辞任するかどうか?」というようなところで問題にされていますが、その程度の問題ではない、のだと思います。もちろん、麻生さんの引責辞任は避けられない(最低限必要)と思いますし、安倍内閣自体の屋台骨も揺らいでいる、ということなのだと思いますが、そのうえで、「1984年」的な、あるいはもっと卑近な「ファシズム」的な政治体制の選択、ということが問われている、という問題として考えなければならないのではないか、と思えるのです。
たとえ「民主主義」で、みんなの意見に基づいて決めていくんだ、としていたとしても、その「みんなの意見」を決めるための情報が、最も権威あるとされる官庁の情報を含めて改竄・偽造されていて信用できないのだとしたら、「決める」ための基礎、考えるための根拠も成立しないことになってしまいます。

・・・ということの上で、次回は、グーっと卑近な私たちの問題について考えてみたいと思います。


「叙勲・褒章」

2018-03-05 20:48:20 | 日記
黄綬褒章を受章された方(の土地家屋調査士会)から、「受章祝賀会」の案内をいただきました。
これまでも何回か同様の案内をいただき、大分会の会長だとか日調連の副会長だとかの職にあった時には、出席したこともあります。また、そもそも私自身、大分会の会長在任時にはその案内を出したこともあります(「渡世の義理」というもので・・・)。
そのような経過の上で今頃こんなことを言う、というのも如何なものかと思われるかもしれませんが(自分自身で思っています)、この今回いただいたご案内を含めて、今後一切のこの手の「祝賀会」には出席するつもりがありませんので、今後のためにその旨を表明しておきたいと思います。(まぁ、その手の案内を出してくれる方が、どれほどこれを読んでくれているか、というと、あまりないようにも思えますし、そもそもこれまでも「叙勲・褒章」を受けられるような方からすると私なんぞには来てほしくない、という思いがあるのかとも思えて、案内自体をいただかないことも多いので、あらためて表明する意味もあまりないのかもしれませんが・・・。)

この「叙勲・褒章」については、私としては、そもそもそれ自体について根本的に気に食わない、というところがあるのですが、それについては、とりあえずさておくとして、ごく身近な問題としての「土地家屋調査士に対する叙勲・褒章」についてだけ考えます。

土地家屋調査士に対しては、たとえば直近の昨秋のものを見てみると「旭日双光章」1人、「黄綬褒章」8人を「受章」されている、ということです。
多分これは例年に比べて多くて、例年は「4~5人」が通常であるように思えますが、何はともあれこれほどに多くの人が受章するのは「めでたいことだ」とされています。
さらに言うと、それだけでなく、「どれだけの人に受章させられるのかが連合会の力量を量るもの」だと考えられたりして、「隣接の他士業(要するに司法書士ですが)に比べて土地家屋調査士の方が多い」ということが、日調連の「手柄」であるかのように考えられたりもしているようです。
これは、「叙勲・褒章」という制度そのものが、それを餌にして国民を「馴治」することを目的とするものであることからすると、とても素直な対応の仕方だと言えます。「国」(の機関であるところの監督官庁)の言うことに素直に従い、その意を体して活動して、無用な「反抗」などせずに与えられた環境のなかで黙々と与えられた職務をこなしていく、というのは「望まれた姿」であり、「叙勲・褒章」などの餌をばら撒かれるのに値する「善行」だ、ということです。
しかし、それでいいのかな?・・・と私は思います。よく、「人間衣食が足りると名誉が欲しくなる」というようなことが言われますが、その「衣食」という「餌」をまず得た上で、さらにその次の「名誉」を得ることをひとつの「目的」にするようになってしまうと、それこそ本質的な意味での「名誉」からはどんどんかけ離れてしまうのではないか、という気がします。つまり、自分だけは衣食が足りた、ということの上で、自分自身が衣食を足りさせるために行った「努力」というのはとりあえず棚に上げた上で、なお余った部分を「名誉」のために費やす、というのは、何か歪んだもののように思えるのです。

そのようなものとして、私は、そもそも「叙勲・褒章」というような制度そのものがなくなればいい、と思いもしますし、特に土地家屋調査士の世界で、これが重いものとして考えられなくなればいいな、とも思うのですが、どちらも現実的には「無理」なのだと思わされもします。

・・・というのは、この文章を書き始めてから、Wikipediaで「叙勲・褒章」を調べていて次のような記事を読んだからでもあります。大江健三郎の(「叙勲」の一種である文化勲章の受章拒否にかんする記事です。
(大江健三郎の文化勲章受章拒否について
)「ジャーナリストの筑紫哲也は、出演していたテレビ番組『NEWS23』において「制定されたのが昭和12年という第二次世界大戦真っ只中にも関わらず、従来の勲章のような武功や勲功など国の為に尽くした者ではなく、純粋に日本の文化に功労のあった文化人に贈る為に制定されたのがこの文化勲章だが、ノーベル文学賞は受賞しておいて自国の文化の為に尽くした者の為の勲章を拒否するのはどう考えてもおかしい、彼はただ単なる左翼主義者である」と受章拒否を批判した。
大江健三郎については、私としては「嫌いな人ベスト(ワースト)200」に入れてもいいくらいな人ではあるのですが、それにしてもこの筑紫哲也の「批判」はひどいですね。わが大分県出身の筑紫哲也ではあり、近年のジャーナリストとして「偉い」人だと言われている人ではありますが、正直言ってどこがすごいのかまったくわからない人で、特にこういうことを言っちゃぁおしまいだ、という感じがします。
そもそも「賞」などというものは、それを「授ける」側の論理があり、それが圧倒的に強い力を持っているが故に「授けられる」側はありがたく押し戴くべきものとされ、現実にそのようになるケースが圧倒的に多いわけではありますが、本来的には「授受」の双方に同じ権利が与えられているものであり、「受章拒否」の権利は当然にあるものとみるべきです。「ノーベル賞」なら欲しいけど「文化勲章」はいらないや、という判断もあっておかしくないのであり、そんな人の内面にまで入って文句を言うということ自体がおかしなことなのだと思います。

・・・ということで、急に卑近なごく小さな話になりますが、私としては「官」からの一切の「表彰」は受けないようにしています。「地方表彰」を受けたら「管区表彰」が欲しくなり、その次は「大臣表彰」・・その次は「褒章」、・・その次は・・・というようになってしまうことが恐ろしいと思いますし、そのようになるように仕掛けられた罠を恐ろしいと思うからです(そんな恐れを抱く必要はないのかもしれませんが・・)。