大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本―「反・民主主義論」(佐伯啓思著:新潮新書)

2016-10-31 16:30:42 | 日記
佐伯啓思さんが「新潮45」に連載している論稿(2015.8~2016.5)をまとめたシリーズのもので、このブログでも取り上げた「反・幸福論」「さらば資本主義」の「続編」にあたるものです。

全体的にその論調に賛同できるわけではなく、まったく逆だなと思うところも多くありますが、そのような面を含めて勉強にはなりました。

著者は、「民主主義」(という訳語自体適切でない、としていますが、それはさておき)を「人類普遍の価値を持つものではない」(引用ではなく私なりの要約です)とします。
「『自由』にせよ、『平等』にせよ、『民主主義』にせよ、『人間の権利』にせよ、きわめて取り扱い困難な観念であって、それは大声で叫ぶものではなく、われわれの生活を円滑にするための基本的な条件ぐらいに見なしておくべきだということです。それは目的ではなく、あくまで条件なのです。」
このように限定的にとらえたうえで、「民主政」と訳すべき「デモクラシー」の意義を次のように言います。
「つまり、人間は判断を誤るかもしれない。いや、かなり大なる可能性をもって誤りうる、という『人間可謬説』から出発する、ということ」
が大事なのだ、とします。そして、「そこから三つの事柄がでてきます」として
①「重要な事柄について、あまり性急な判断をし、急激な変化を求めない。」
②「できるだけ事情に通じた判断能力の高い(と想定される)人々の討議と決定に委ねる。」
③「人間の決定が常に誤りうるがゆえに、その決定は正当な手続きに従って行われねばならない。そして、決定が誤ったものだと判断されれば、ふたたび正当な手続きを経て変更される」という
「三つの要件」をあげます。
私は、この「人間は判断を誤るかもしれない。いや、かなり大なる可能性をもって誤りうる」ということの上で政治のありかたを考える、という考え方はとても重要だと思いますし、その上で言われる「三つの要件」についても大筋では賛同します。

その上で、ちょっと話は外れますが・・・、本書は、2015年8月からの論稿が収録されているものであるため、初めの方は「安保法制」をめぐる話が多くでてきます。
「『戦後』とは何か、といえば、私は、何よりもまず『アメリカへの自発的従属』であった、といいたい」と言う著者は、その弊害に頭を悩ましながら、現実的な政治的選択としては「やむをえない」という「政治的判断」をしているようです。
そして、その立場から「安保法制に反対する憲法学者」を批判します。「憲法をかつぎだした政治運動にほかならない」「一つの政治的価値の選択」「国の安全保障のありかたに関する選択」なのだ、「ここでは、憲法解釈ではなく、国家観が問題になっている」のだ、というような批判です。
たしかに「安保法制に反対する憲法学者」の中には様々な人がいるのでしょうから、著者の言うような「政治的価値の選択」の上での「政治運動」として安保法制に反対した人もいることはいるのでしょう。しかし、「安保法制に反対する憲法学者」が皆そうなのだ、ということはとても言えないのであり、この辺をゴッチャにした著者の言い方というのは、それこそ「一つの政治的価値」からの「難くせ」をつけているもののように思えてしまいます。

「安保法制」をめぐる問題、それが「立憲主義」の問題だ、とされたのは、むしろ先に挙げた「三つの要件」にかかることなのではないでしょうか。。つまり
①これまで積み上げてきた憲法解釈を急激に変えるのはおかしいのではないか
②憲法学者の9割が「違憲」だと言っているものを無視するのはおかしいのではないか
③内閣法制局の「人事」で解釈変更を可能にし、一内閣の「閣議決定」で解釈変更を行い、「対外公約」が先行される、というのは「正当な手続」とは言えないのではないか、
というようなことが問われていたわけです。これらの問題は、たしかに「国家観の問題」なのかもしれませんが、そうであるだけに「国の安全保障のありかたに関する選択」の問題よりも軽い問題だ、というわけには(「法的安定性なんて関係ない」というわけには)いかない問題です。

このように、きわめて客観的に、思想(史)的に説かれているかのようなことの中にも、やはり「政治的価値の選択」がある、ということが垣間見える、という意味でも勉強になるわけですが、そのような逆説的な意味ではなくごく純粋な意味でも、「私はシャルリ」に見られるような「自由や民主主義の『文明』の側が、自分たちにのみ正義があるとする『驕り』に陥」ることへの批判や、「トランプ減少は民主主義そのもの」であり、「一方で自由な経済競争やIT革命やグローバル企業などによって共和主義的精神も道徳的習慣も打ち壊しながら、民主主義をうまく機能させるなどという虫の良い話はありえない」という指摘は納得させられるところがあります。

国際地籍シンポジウム

2016-10-23 16:17:06 | 日記
先週、台湾の台中市で開かれた「国際地籍シンポジウム」に行ってきました。

「国際地籍シンポジウム」は、日本の土地家屋調査士会、韓国の「国土情報公社(旧大韓地籍公社)、台湾の「地籍測量学会」の三者で1998年から隔年で開催されているもので、今回で10回目を迎えるものです。

この「国際地籍シンポジウム」については、「日韓台の三か国で『国際』はおこがましいのではないか」とか、「土地家屋調査士の業務とかけ離れているのではないか」と言った批判もあるものですが、私としては意義深いものだと思っています。

「日韓台の三か国で・・・」と考えるのもわからないではないのですが、少なくとも日本と韓国・台湾では「地籍」ということに関する考え方や方向性にかなりの違いがあり(日本が「ガラパゴス化」している、とも言えなくもなく)、韓国・台湾を見ることによってずいぶんと「世界」を見ることができ、「国際」化できる、ということが言えるのではないか、と思います。大体、世界の何十国も参加する「名実ともの国際」会議になってしまったら荷が重すぎる、ということもあり、この三か国での「国際」でちょうどいいのではないか、という気もします。

また、「土地家屋調査士の業務と・・・」ということについても、上記の現況の下では、「日常的な調査士業務から離れた課題を見ることに意義がある」と、全く逆にみることのできることです。もちろん、その上で、「現実の調査士業務」に生かしていく、ということが必要になるわけですし、そこにおいて、これまでの「現実」に弱さがあった、ということは言えるのかとは思います。

今回参加して、台湾、韓国の報告を聞く中でも、「技術的な進歩」がこの領域において進んでいることを痛感させられました。この2年間で言うと、台湾・韓国では、「地籍」の分野においてもドローンの活用が図られている、というのが印象的でした。これは、計測自体を効率的に行う、という面だけでなく、「国民(土地所有者)への視覚的な表示による納得」という面においても有効なようです。
そして、それを可能にするのは、公的機関が責任を負う形で「地籍」関係の事務を行う、という制度なのだと思います。
そして逆に、そのような進展があればあるほど「国民の権利」と衝突する場面も増えてくるわけで、それに対する法的な備え、ということでは、問題を抱えている、ということも垣間見える所でした。

次回(再来年)は、日本での開催、ということになっています。「意義」をしっかりと確認できるようなものにするために、土地家屋調査士の世界だけでなく、日本の「官」「産」「学」を貫いた体制で準備できればいい、と思っています。


台湾から日本に帰ってきたらニュースで「台湾 25年までに原発ゼロ」とのニュースが流れていました(もちろん、向こうでも言われていたのでしょうが・・・)。
「脱原発」をめぐっては、台湾でも「電力需要をまかなえない」「無理」「海外競争力が落ちる」などの意見もあったそうですが、それらの問題を理解しながら、はっきりとした方向性を打ち出した、というところがポイントのようです。

李世光・経済部長(経済相)は、
「政権としての政策を明確にすることで、関係省庁が関連の政策を推進することができる。政策に揺るぎがないということが分かれば投資も生まれ、大きな変化につながる」
「政策をはっきり打ち出す前は、全体の14%を占める原発の発電量をどう補うのかとか、電源の安定性はどうかといった議論が出て『再生エネへの転換は難しい』となってしまっていた。放射性廃棄物の処理問題も『そのうち考えよう』と先送りしていた。こうした考えこそが再生エネの『敵』なのだ」
「原発ゼロを目指すに当たっての問いは、『再生エネで原発を置き換えることが出来るかどうか』というものではない。放射性廃棄物の問題を子孫に残さないために、どのような政策が必要なのかということこそを考えるべきなのだ」
と言っているそうです。
学ぶべきことだと思います。

地震に因る境界の移動

2016-10-07 09:05:48 | 日記
先週の金曜日(9月30日)、熊本会の研修会に出席させていただきましたので報告します。

この研修会は、今年4月の熊本地震を受けての土地家屋調査士業務に関する様々な問題を取り扱ったものです。
午前中に、「熊本地震後の対応」「熊本地震座標補正パラメータの使用について」の報告がある、ということで、これも大変興味深かったのですが、旅程の都合によってこれには間に合わず、午後の「地震後の境界移動等の実例」に関する報告だけを聞いてきました。

まずは、地震により自らも被災する中で、業務を通じて、あるいは業務以外のところでも復旧復興への貢献をしている熊本会の会員の皆さんの姿に感心しました。また、「境界の移動」という事態に対して、真剣にまじめに対応していることにも感動しました。
調査士って真面目だなぁ、とあらためて思い、その良さを残し伸ばしていく、という課題を改めて考えさせられました。広く言えば、このような一つ一つの事柄に対する真摯な取り組みこそが、戦後日本社会を支えてきたものなのだろう、と感じました。

その上で、これは私自身の反省としても言うことですが、「地震に因る境界の移動」ということについて、阪神大震災以降いくつかの経験を積み重ねつつ、どれほど理論的に深め、地震による現実に対応しうるようなものを築き上げてこれたのか、と言うと、非常に不十分で足りないところが多すぎるのではないか、と思わされてしまうところがあります。

「地震に因る境界の移動」の問題については、二つの問題領域があります。
一つは、「移動後の境界をどのように認定するのか」という問題であり、もう一つは「移動後の境界をどのように表示(公示)するのか」という問題です。

理論的な問題として考えられてきたのは、主に後者の問題のように思います。熊本会の研修会場でGPSの機器展示をしていたアイサンテクノロジー(株)が「熊本地震と復旧測量」という特集を組んでいる広報誌の「特別号外」を配布していましたが、明治時代の濃尾地震から関東大震災等の歴史を振り返りながらこの問題についての整理をしていて、勉強になりました。いろいろと問題はありつつ、一定の整理は進んでいる、ということなのでしょうか。

それに対して、「移動後の境界をどのように認定するのか」という問題についての整理はあまり進んでいないように思えます。もちろん、「境界の移動」が様々な形で現れ、ひとつとして同じことはないものであることから、その個別的な解決を地道に図っていくしかないわけですが、それにしても、と思うところがあります。
阪神大震災後の法務省見解では、「土地の区画の形状が変化を生じている場合には、関係所有者間で筆界の調整を図る必要がある」として「関係所有者間での筆界の調整、実質的には合理的な合意を尊重するものであって、通常の取り扱いと変わるところはない。」とされていますが(そしてそれはもっともではありますが)、「通常の取り扱い」というのが「客観的に明らかになるものとしてある筆界」を前提として、それを軸として行うものであるのに対して、地震による地殻変動等によってその前提に異動がもたらされたことを受けて問題が生じているわけですから、前提となるものを再構築するのでなければ「通常の取り扱い」と同じようにことを進めることはできなくなってしまいます。

大分でも地震に因る一定の影響があり、特に現実の問題として直面している日田の方が熊本会の研修会に参加しておられましたが、その他の地域の方にとっても、けっして「他人事」ではないものとして考えていくようにしたいと思います。