佐伯啓思さんが「新潮45」に連載している論稿(2015.8~2016.5)をまとめたシリーズのもので、このブログでも取り上げた「反・幸福論」「さらば資本主義」の「続編」にあたるものです。
全体的にその論調に賛同できるわけではなく、まったく逆だなと思うところも多くありますが、そのような面を含めて勉強にはなりました。
著者は、「民主主義」(という訳語自体適切でない、としていますが、それはさておき)を「人類普遍の価値を持つものではない」(引用ではなく私なりの要約です)とします。
私は、この「人間は判断を誤るかもしれない。いや、かなり大なる可能性をもって誤りうる」ということの上で政治のありかたを考える、という考え方はとても重要だと思いますし、その上で言われる「三つの要件」についても大筋では賛同します。
その上で、ちょっと話は外れますが・・・、本書は、2015年8月からの論稿が収録されているものであるため、初めの方は「安保法制」をめぐる話が多くでてきます。
「『戦後』とは何か、といえば、私は、何よりもまず『アメリカへの自発的従属』であった、といいたい」と言う著者は、その弊害に頭を悩ましながら、現実的な政治的選択としては「やむをえない」という「政治的判断」をしているようです。
そして、その立場から「安保法制に反対する憲法学者」を批判します。「憲法をかつぎだした政治運動にほかならない」「一つの政治的価値の選択」「国の安全保障のありかたに関する選択」なのだ、「ここでは、憲法解釈ではなく、国家観が問題になっている」のだ、というような批判です。
たしかに「安保法制に反対する憲法学者」の中には様々な人がいるのでしょうから、著者の言うような「政治的価値の選択」の上での「政治運動」として安保法制に反対した人もいることはいるのでしょう。しかし、「安保法制に反対する憲法学者」が皆そうなのだ、ということはとても言えないのであり、この辺をゴッチャにした著者の言い方というのは、それこそ「一つの政治的価値」からの「難くせ」をつけているもののように思えてしまいます。
「安保法制」をめぐる問題、それが「立憲主義」の問題だ、とされたのは、むしろ先に挙げた「三つの要件」にかかることなのではないでしょうか。。つまり
①これまで積み上げてきた憲法解釈を急激に変えるのはおかしいのではないか
②憲法学者の9割が「違憲」だと言っているものを無視するのはおかしいのではないか
③内閣法制局の「人事」で解釈変更を可能にし、一内閣の「閣議決定」で解釈変更を行い、「対外公約」が先行される、というのは「正当な手続」とは言えないのではないか、
というようなことが問われていたわけです。これらの問題は、たしかに「国家観の問題」なのかもしれませんが、そうであるだけに「国の安全保障のありかたに関する選択」の問題よりも軽い問題だ、というわけには(「法的安定性なんて関係ない」というわけには)いかない問題です。
このように、きわめて客観的に、思想(史)的に説かれているかのようなことの中にも、やはり「政治的価値の選択」がある、ということが垣間見える、という意味でも勉強になるわけですが、そのような逆説的な意味ではなくごく純粋な意味でも、「私はシャルリ」に見られるような「自由や民主主義の『文明』の側が、自分たちにのみ正義があるとする『驕り』に陥」ることへの批判や、「トランプ減少は民主主義そのもの」であり、「一方で自由な経済競争やIT革命やグローバル企業などによって共和主義的精神も道徳的習慣も打ち壊しながら、民主主義をうまく機能させるなどという虫の良い話はありえない」という指摘は納得させられるところがあります。
全体的にその論調に賛同できるわけではなく、まったく逆だなと思うところも多くありますが、そのような面を含めて勉強にはなりました。
著者は、「民主主義」(という訳語自体適切でない、としていますが、それはさておき)を「人類普遍の価値を持つものではない」(引用ではなく私なりの要約です)とします。
「『自由』にせよ、『平等』にせよ、『民主主義』にせよ、『人間の権利』にせよ、きわめて取り扱い困難な観念であって、それは大声で叫ぶものではなく、われわれの生活を円滑にするための基本的な条件ぐらいに見なしておくべきだということです。それは目的ではなく、あくまで条件なのです。」
このように限定的にとらえたうえで、「民主政」と訳すべき「デモクラシー」の意義を次のように言います。「つまり、人間は判断を誤るかもしれない。いや、かなり大なる可能性をもって誤りうる、という『人間可謬説』から出発する、ということ」
が大事なのだ、とします。そして、「そこから三つの事柄がでてきます」として①「重要な事柄について、あまり性急な判断をし、急激な変化を求めない。」
②「できるだけ事情に通じた判断能力の高い(と想定される)人々の討議と決定に委ねる。」
③「人間の決定が常に誤りうるがゆえに、その決定は正当な手続きに従って行われねばならない。そして、決定が誤ったものだと判断されれば、ふたたび正当な手続きを経て変更される」という
「三つの要件」をあげます。②「できるだけ事情に通じた判断能力の高い(と想定される)人々の討議と決定に委ねる。」
③「人間の決定が常に誤りうるがゆえに、その決定は正当な手続きに従って行われねばならない。そして、決定が誤ったものだと判断されれば、ふたたび正当な手続きを経て変更される」という
私は、この「人間は判断を誤るかもしれない。いや、かなり大なる可能性をもって誤りうる」ということの上で政治のありかたを考える、という考え方はとても重要だと思いますし、その上で言われる「三つの要件」についても大筋では賛同します。
その上で、ちょっと話は外れますが・・・、本書は、2015年8月からの論稿が収録されているものであるため、初めの方は「安保法制」をめぐる話が多くでてきます。
「『戦後』とは何か、といえば、私は、何よりもまず『アメリカへの自発的従属』であった、といいたい」と言う著者は、その弊害に頭を悩ましながら、現実的な政治的選択としては「やむをえない」という「政治的判断」をしているようです。
そして、その立場から「安保法制に反対する憲法学者」を批判します。「憲法をかつぎだした政治運動にほかならない」「一つの政治的価値の選択」「国の安全保障のありかたに関する選択」なのだ、「ここでは、憲法解釈ではなく、国家観が問題になっている」のだ、というような批判です。
たしかに「安保法制に反対する憲法学者」の中には様々な人がいるのでしょうから、著者の言うような「政治的価値の選択」の上での「政治運動」として安保法制に反対した人もいることはいるのでしょう。しかし、「安保法制に反対する憲法学者」が皆そうなのだ、ということはとても言えないのであり、この辺をゴッチャにした著者の言い方というのは、それこそ「一つの政治的価値」からの「難くせ」をつけているもののように思えてしまいます。
「安保法制」をめぐる問題、それが「立憲主義」の問題だ、とされたのは、むしろ先に挙げた「三つの要件」にかかることなのではないでしょうか。。つまり
①これまで積み上げてきた憲法解釈を急激に変えるのはおかしいのではないか
②憲法学者の9割が「違憲」だと言っているものを無視するのはおかしいのではないか
③内閣法制局の「人事」で解釈変更を可能にし、一内閣の「閣議決定」で解釈変更を行い、「対外公約」が先行される、というのは「正当な手続」とは言えないのではないか、
というようなことが問われていたわけです。これらの問題は、たしかに「国家観の問題」なのかもしれませんが、そうであるだけに「国の安全保障のありかたに関する選択」の問題よりも軽い問題だ、というわけには(「法的安定性なんて関係ない」というわけには)いかない問題です。
このように、きわめて客観的に、思想(史)的に説かれているかのようなことの中にも、やはり「政治的価値の選択」がある、ということが垣間見える、という意味でも勉強になるわけですが、そのような逆説的な意味ではなくごく純粋な意味でも、「私はシャルリ」に見られるような「自由や民主主義の『文明』の側が、自分たちにのみ正義があるとする『驕り』に陥」ることへの批判や、「トランプ減少は民主主義そのもの」であり、「一方で自由な経済競争やIT革命やグローバル企業などによって共和主義的精神も道徳的習慣も打ち壊しながら、民主主義をうまく機能させるなどという虫の良い話はありえない」という指摘は納得させられるところがあります。