大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本―「パンデミックとたたかう」(押谷仁、瀬名秀明 岩波新書2009.11)

2020-04-17 15:46:11 | 日記
政府の「緊急事態宣言」がなされ、何かと大変な時であり、今日の本題もそれに関することですが、まずは軽い話から。

昨日の政府対策本部での安倍首相の「緊急事態宣言の対象区域の全国への拡大」方針の発表をABEMAテレビのニュースで観ました。
安倍首相が話すと、すぐに「AIポン」なるものが「リアルタイム字幕」を出すのですが、これが面白い。字幕を読んでいると、安倍首相が何を言っているのか頭に入ってこなくなるくらいに面白い。
「フランスとも言うべき」と字幕にあるのは、後で聞きなおしてみると「国難とも言うべき」が正解でした。
「緊急事態宣言」と言っているのが、「県銚子店」になったり、「緊張したよ」になってしまったり、愛知・京都などの6道府県が先行した7府県と「同程度にまん延」と言っているのが「童貞に2万円」になってしまったりして、「オイオイ、全国民に10万円じゃなかったんかい!?」と突っ込みたくなったりしります。
そもそもの滑舌の悪さのうえにマスクをしているので聞き取りにくいのもわかるのですが、それにしてもAIもまだこの程度か、と安心させられました。(なお、今日の首相記者会見のABEMAテレビ中継では「AIポン」のリアルタイム字幕はありませんでした。あまりの不出来に首になってしまったのでしょうか?残念です。)

・・・という「軽い話」はともかくとして、「読んだ本」です。
「21世紀初のパンデミック」と言われる2009年の新型インフルエンザの際に、今回の政府の専門家会議の委員の一人でもある感染症・公衆衛生の専門家押谷仁教授と作家の瀬名秀明氏との対談をまとめた本です。
「パンデミック」について、「公衆衛生」について、素人にもわかりやすく説明してくれていて、「今、必読の書」と言ってもいいものだと思いました。・・・もっとも、私はたまたま近くの書店で見かけたので読んだのですが、10年以上も前の「新書」ですから、なかなか手に入らないとは思います・・・ということで、紹介がてら考えたことを書くようにします。

まずは、原理的な問題。本書で押谷氏は、次のように言います。
「公衆衛生学的な考え方というのが独特ですね。普通の医学教育の考え方、医者の考え方と違います。医者の考え方は、1人の人に対していかに最善を尽くすかという考え方ですよね。それが、公衆衛生学の考え方では、人間の集団として何がベストかという考え方をするんです。」
目の前にいる一人の患者を救おうとするのではなく、「人間の集団」=社会としてどうするべきかを考えるのが、「公衆衛生学的な考え方」であり、「パンデミックとのたたかい」は、この視点に立っておこなわなければならない、とするわけです。
そして、この上で、日本の具体的な現状について次のように言います。
「中国・・・、シンガポールや香港だの、SARSの影響を大きく受けた国では、感染症の危機管理に非常に力を入れて取り組んでいます。日本でSARSの流行がなかったことが果たしてよかったのかと思ってしまうくらい、日本の感染症の危機管理は立ち遅れています。」
これは2009年の時点でのこととして言われているわけですが、2020年の今でも大きく変わっているわけではない、といういくつかの話を聞きましたし、今回の対策の実績から見ても大きくは変わっていないのだと思われます。
この「日本における感染症対策・医療体制の弱さ」というのが、今回の「COVID-19」対策の具体的な在り方を決定づけているのだと思います。限られた戦力をどこに振り向けるのか?という問題で、全般的な検査を実施するのではなく、クラスター対応に重点を置いた「日本モデル」が選択された、もしくは選択せざるを得なかった、ということになったのだと思われる、ということです。
もうひとつ、「基本思想」、日本の「国民性」的な問題があります。
「日本ではこれから、いろいろな局面で非常に厳しい決断をしていくことになると思います。そこで直面するのが、社会の許容力です。医療も行政もそうですが、日本の社会は被害に対する許容力が非常に小さいと思います。これから対応にあたる人たちは、そういう社会の中で本当の意味でのトリアージをしていかなくてはいけないのです。」
「助けを求めている人が100人いて、そのうちの90人が助かるなら、10人は犠牲になっても仕方がないという考え方ですからね。それは非常に重たい話です。日本では非常に難しいことです。アメリカだったら、合理的に判断してやるのでしょうが。」
「公衆衛生というのは公共的な考え方ですが、今後、個人主義がどんどん進んでいくと、そういう公衆衛生の考え方と乖離していくような気がするのです。」(瀬名氏)
「アメリカではまだ公衆衛生の考え方が残っていて、「社会を守るために」というところがありますが、日本はそういうことが難しくなってきています。」
このように押谷氏は、日本社会の「弱さ」に焦点を当てます。そして、その原因を「個人主義」という点に求めます。
これは、ある意味その通り、と言えることです。しかし、いろいろな意味でこれは違う、とも思えるのです。
たしかに、「休業要請」と「補償」を一体化させてゴタゴタしてしまう、というのは、そのような「私益中心の個人主義」の然らしめるところ、というところがあるのでしょう。しかし、その反面「かけがえのない個人」としての尊厳を重視する「個人主義」という点では、甚だ弱い、という面もあるのであり、それらが相まって「不十分な検査体制」をも含む「日本モデル」に結びついているように思えます。

このように、今回の今回の「COVID-19」対策がどのような考え方にもとづいてなされているのか、ということは考えるべき課題としてあるのであり、本書はそれを伺い知ることができるものとして、勉強になるものだと思うのです。
そのことについえは、押谷氏の次のような指摘があります。
「感染症の危機管理の基本は、わからないなかで決断をしなくてはいけないことです。その最終的な決断は、やはり政治家がすべきだと私は思います。」
おそらく、このような指摘・助言を受けたうえで、フライングとも言うべき2月27日の全国一斉休校要請がだされ、その後の迷走に結びついたように思えます。「政治家の決断」について押谷氏は、
「ただし、その決断にいたるまでのプロセスが重要です。日本ではまだ、専門家の意見がきちんと決断に反映されるようになっていません。そういうプロセスをふまえた決断が行える体制をつくらなくては、パンデミックの危機は乗り越えられないと私は思います。」
とも言っているわけですが、その「プロセス」という点において、まだ反省し改めなければならないところが多くある、ということなのだと思わされました。

なお、最後になってしまいましたが、瀬名氏は、
「押谷教授は、こちらからの問いかけにすぐさま的確な言葉で応じる専門家としての靭さを湛えた方であった。」
と言い、そのような人間性が伝わるように、との思いから「対談」という形式をとった、とのことです。たしかに、押谷氏が真摯に誠実にパンデミック対策に向き合い、全力を尽くしていることが、この本のだされた2009年にも、そして今回2020年にも貫かれていることをよく感じられます。
いろいろと違うな、と思うところもないことはないのですが、それでもやっぱり、このような専門家の方々の主導する今回の「COVID-19」対策に全幅の信頼をおいて行きたい、と思いもします。
しかし、その上で、やはり問題になるのは、「最終的な決断」ということになります。今回の「緊急事態宣言の全国拡大」にしても「全国民10万円給付」にしても、結局はこの「最終的な決断」によることになるのであり、それへの信頼がおけない、ということが困ったものです。