大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

安保法制―磯崎発言

2015-07-29 08:53:35 | 日記
大分県選出の磯崎洋輔参議院議員(首相補佐官)の「安保法制―法的安定性」に関する発言が問題になっています。
私は、この発言の第一報を見ていなかったので、どういう発言なのかと思って見てみました。
「政府はずっと、必要最小限度という基準で自衛権を見てきた。時代が変わったから、集団的自衛権でも我が国を守るためのものだったら良いんじゃないかと(政府は)提案している。考えないといけないのは、我が国を守るために必要な措置かどうかで、法的安定性は関係ない。我が国を守るために必要なことを、日本国憲法がダメだと言うことはありえない。
 本当にいま我々が議論しなければならないのは、我々が提案した限定容認論のもとの集団的自衛権は我が国の存立を全うするために必要な措置であるかどうかだ。「憲法解釈を変えるのはおかしい」と言われるが、政府の解釈だから、時代が変わったら必要に応じて変わる。その必要があるかどうかという議論はあってもいい。」(大分市での国政報告会で)「朝日新聞デジタル」2015.7.27)

この発言については、自民党の谷垣幹事長が「配慮に欠ける」と苦言を呈している、とのことです。
しかし、磯崎さんは、ご自身のホームページでも同趣旨のことを言っています。

「日本を取り巻く国際情勢が大きく変化していると説明しているにもかかわらず、従来の憲法解釈との法的安定性を欠くなどという形式議論に終始しているのは、国家にとって有益ではありません。憲法は、自衛権について何も規定していませんが、国民の幸福追求権を考えれば、決して我が国の存立を全うするため必要な措置を否定するものではありません。その基準は、「必要最小限度」の範囲内に収まるものか否かにもってひとえに懸かっているのです。」(7.19)

「法的安定性」をめぐる議論は「形式議論」で「国家にとって有益でない」と断ずる、と言うのはなかなか大胆で、「法的安定性なんて関係ない」というアケスケな言い方をしているのかどうか、という違いはあるにしろ趣旨は同じであるように思えます。谷垣幹事長の「配慮に欠ける」というのは、趣旨はいいけど言い方に気をつけろ、という意味なのでしょうか。
現在の安保法制推進派の人の中では「憲法残って国滅びる、ではいけない」というような言い方がよくなされるように、「現実に軍事的脅威があるのだからそれに対応しなければならず、そのためには憲法論議なんてしてられない」というのが、今回の「解釈変更」とそれに基づく「安保法制」の意味するところなのであり、磯崎さんはあまりにも正直に言ってしまった、ということのように思えます。
ここで、「そのような国際情勢の変化による脅威・危機は本当に存在するのか?」「存在するとしてその危機への対応策は軍事的な抑止力強化という方法をとるべきなのか?」ということも問われなければならないわけですが、それとは別の問題として、「法的安定性」「規範性」の問題、より一般化して言えば「国のかたち」をめぐる問題も問われている、ということを避けてしまうわけにはいかないように思います。
それは、「法」が論理的に示しているところに基づいて、その規範性をもって「国」が動かされていく、という基本的な「国のかたち」です。「人」(政府)が変わったら全く方針が変わってしまう、というのではなく、「法」という形で示されたものに対する合理的な判断によって基本的な方向性は決められるようにしておかなければならないし、これまではそうしてきたはずだし、それを外してしまってはいけないだろう、という問題です。

5月に他県の土地家屋調査士会の総会に伺った際に来賓で来られていた弁護士と話をしていて「安保法制」についての話になりました。その弁護士さんが言うには、「憲法について教わってきたことと全く反対のことが言われているので、理解できるわけがない」ということでした。
たしかに「憲法学者」などというのは憲法解釈の権限を持っているわけではありませんが、この弁護士さんをはじめとする多くの法曹関係者等は「憲法とはこのようなものだ」ということを教わり、それを身につけて実務にあたっています。社会のあらゆることが、「法」を基準にして動かされ、紛争が生じた時には「法」に照らして解決されることになっています。そのようなすべてを含めて「法的安定性」が問われている、ということなのだと思います。
「法律関連専門職」として無関係ではいられないことです。

地籍問題研究会第13回定例研究会

2015-07-26 18:15:50 | 日記
昨日、千葉県浦安の明海大学で地籍問題研究会の第13回定例研究会がありました。準備段階に少し関与したこともあって、出席しました。
研究会は、第1部として「人口減少高齢社会と不動産管理」をテーマに吉原祥子氏の基調報告「人口減少高齢社会と不動産管理」と千葉県土地家屋調査士会会員からの「境界管理制度の現状と課題」に関する報告を受け、第2部「今日の境界紛争解決制度の課題と展望」として筆界特定制度 、調査士会ADRの報告を受け、最後に京都産業大学の草鹿晋一先生から「境界紛争解決制度の選択と制度間連携の可能性について」という報告を受けました。

どの報告も興味深いもので勉強になりました。地籍問題研究会は、実務家(土地家屋調査士)と研究者とが、それぞれの知見を出し合って「地籍に関する制度及びその環境の充実発展に資することを目的」とするものですが、その形が具体的に示されるものになったように思えます。

私には、特に草鹿先生の報告は、私たち土地家屋調査士が直面している課題についての整理を手際よく示してくれるもので、とても勉強になりました。
草鹿先生は、「筆界」という概念を「所有権の範囲を確定する前提としての公法上の概念」とします。きわめて正当な整理だと思います。このように、「筆界」をその果たすべき役割において捉える、という視点が必要なのだと思います。
そのようなものとして「筆界の専門家」である土地家屋調査士が、筆界だけにとどまらない境界問題の全体に対して解決能力を示すことができ、社会的に有用な役割を果たすことができる、という構造を確認することが必要でしょう。
その上で、本題である「制度間連携」について、筆界特定制度を軸に制度設計を組み直すことを提案されていました。所有権界の問題の解決をも見据えて筆界特定制度に取り組み、筆界特定制度では限界のある部分について調査士会ADRや訴訟での補完・連携を図る、という考え方だと言えると思います。傾聴に値するもので、指摘いただいた視点の上で、さらに検討していくことが必要だと思いました。

次回の研究会は11月28日に「民法改正」をテーマに研究者の方からの報告を中心になされる予定ということで、これも楽しみにしています。

読んだ本ー「オールド・テロリスト」(村上龍著:文藝春秋刊)

2015-07-22 17:03:50 | 日記
この本を買う時、一緒に「下流老人―一億総老後破壊の衝撃」(藤田孝典著:朝日新書)という本を買いました(まだ読み終わってませんが。)

読む前の私の予想としては、先日の新幹線放火事件のように「老後破壊」にさらされた老人のテロリスト化ということを描いた小説なのではないか、というものだったのですが、この予想は外れました。この「予想外」は、いい方向でのものではなく悪い方向のものです。正直言って面白くありませんでした。
著者は、「あとがき」で次のように言います。

「70代から90代の老人たちが、日本を変えようと立ち上がるという物語のアイデアが浮かんだのは、もうずいぶん前のことだ。その年代の人々は何らかの形で戦争を体験し、食糧難の時代を生きている。だいたい、殺されもせず、病死も自殺もせず、寝たきりにもならず生き延びるということ自体、すごいと思う。彼らの中で、さらに経済的に成功し、社会的にもリスペクトされ、極限状態も体験している連中が、義憤を覚え、ネットワークを作り、持てる力をフルに使って立ち上がればどうなるのだろうか。どうやって戦いを挑み、展開するだろうか。そういった想像は、わたしの好奇心をかきたてた。」

しかし、そんな設定のどこに「好奇心をかきたて」られるのか、私にはわかりません。
「生き延びるということ自体、すごい」のであれば、そのまま老人として生き延びているだけのことにしておけばいいのであって、わざわざ「テロリスト」にする必要がわかりません。
大体、「経済的に成功し、社会的にリスペクトされ」て生き延びている、というのは、それなりの処世の方法を身につけているからそうなっているのであって、死期を間近にして自暴自棄になる、というのならともかく、今更「義憤を覚え」て立ち上がる、なんてことを考えるのがどうかしているように思えます。
大体、「経済的に成功し、社会的にリスペクトされている老人が、自分の成功体験の上に偉そうに社会への「義憤」を述べ立てる、というのは世間でよくあることであって、とりたてて珍しいことではありません。
それが、「テロ」と言う形をとる、という着想は、確かに目新しいものですが、もしもそうであれば、「テロ」の態様自体、もう少し理解可能なものにするべきでしょう。
しかも、「旧満州国」の系譜をひく秘密のネットワーク、という設定になってしまうと、とてつもなく陳腐で、「テロリスト」化の目新しさも吹っ飛んでしまいます。

「オールドテロリストたちはインテリ」「貧乏で、飢えて死にそうだから、世の不公平や不平等をなくしてくれとかそういうのじゃない」
というのが、著者の「こだわり」のようですが、そういうところがわかりません。今の日本社会で老人たちの置かれている状況からすると、「そういう」ところから発想を膨らませてくれた方がよかったのにな、と思います。

村上龍の愛読者、というわけではないのですが、これまで読んだものは面白く読めていただけに、とっても残念でした。このブログでは、基本的に、面白く読めて賛同できる本や、賛同はできないまでも役に立つ部分がある本について書くことにしているので、この本については書くのをやめようかとも思ったのですが、あんまりがっかりだったので書いてしまいました。

読んだ本-「知性とは何か」(佐藤優著:祥伝社新書)

2015-07-19 06:14:33 | 本と雑誌
著者佐藤優さんは、今日の世界・日本の危機的な状況の中で「反知性主義」が抬頭していることを危険な徴候と捉え、「反知性主義」に対抗して打ち克つ方向を探るものとして本書を含む諸論稿の執筆・発表をしています。私もその基本的方向性に共鳴する者として期待をもって本書を読みました。

しかし、率直な感想として言えば、期待がかなえられたとは言い難いです。別に内容の方向性に不満がある、という訳ではないのですが、やっぱり佐藤優さんは「書きすぎ」ですよね。内容的にではなく量的に。
私は(以前にも書いたことですが)佐藤優さんは「読書論」的なものを書くのが一番向いているのではないか、と思っているので、本書のような引用で埋め尽くされているようなものも勉強になって面白くはあるのですが、それにしても世界の現下の最大課題とも言っていい「反知性主義への対抗」を正面に掲げたものとしては、物足りなく感じてしまいました。(820円の新書本にたいする過大な期待がいけない、と言われれば確かにその通りですが。)

その上で、いくつか勉強になったこと。

著者は、「反知性主「実証性と客観性を軽視若しくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」としています。
そのような「反知性主義」が「もっとも『良質』な形で表れている」ものとして、2013年の麻生副総理による
「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね。」
という発言がとりあげられています。
なお、歴史の事実としては
「ナチス・ドイツは憲法を改正しておらず、ナチス政権時代のドイツでも形式的にはワイマール憲法が維持されていた」
ということなので
「麻生発言には根本的な事実誤認がある」
ということになるわけですが、そうであること(ワイマール憲法の形式的維持)を含めて、今日の日本の政治状況との関係で見ると興味深いことが示されています。
「ナチス・ドイツ第三帝国は、独自の憲法を作らなかった。形式的には、ワイマール憲法が残った。コストをかけて憲法改正をする必要がないという主張を展開したのが、ミュンヘン大学教授をつとめたオットー・ケルロイター(18883~1972年)だ。」
としてケルロイターの著作の一部が紹介されています。ケルロイターは
「今日の発展段階においては、この意味において次の諸法律をドイツ指導者国家の憲法規定と称することができる。即ち-」
として「1933年3月24日の国民及び国家の艱難を除去するための法律」(所謂授権法)から「1937年1月26日のドイツ官吏法」までの10の法律を挙げています。そしてこの10の法律によって 
「自由主義の国家学及び憲法学が産んだ憲法構成、及びそれから生ずる一切は、指導者国家においては無意味なものとなった。けだし、法技術的に見れば、上に掲げた基本的諸法律は、国家指導の他の諸法律と別に区別はない。就中これらを変更することは、爾余の政府による法律の場合と正しく同一の、単純な形式で可能なのである。」「ここで問題になるのは、有機的な憲法発展の形式的完成ということである。何となれば、成文の規範体型の構成は、指導者国家における憲法の意味なのではなく、民族と結ばれた指導による民族体の政治的及び国法的構成が、その意味であるからである。指導者国家に於ける憲法の構成及び完成の態様と方法に対しては、ヒューラーによって確定される、ドイツの民族・及び国家生活の政治的必要だけが、決定力を持ちうるのである。」
と言っているのだそうです。
分かりにくいところもある文章ですが、”憲法を形式的に改正しなくても、通常法の制定で憲法の実質的改正はできる。””それは、指導者が国家・民族が必要としているものを判断して決めればいい”というようなことを言っている、ということなのかと思います。
これは、「国際情勢に目をつぶって従来の(憲法)解釈に固執するのは政治家としての責任の放棄だ」として「違憲」とする圧倒的多数の憲法学者の指摘に対して「合憲だという絶対的な確信」を根拠なく言うこと(安倍総理)や、「法律の説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんだから」とすること(安倍総理)、「現在の憲法をいかに法案に適用させるか」が問題だとすること(中谷防衛相)、「憲法学者はどうしても憲法九条二項の字面に拘泥する」とか「私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある」(高村自民党副総裁)。・・等というようなことを、表現を変えて言っているものだととらえられるように思います。麻生発言が、通常思われるように思慮の足りない軽はずみで馬鹿げたものであるわけではないように思え、恐ろしいことです。

「安保法案」強行採決

2015-07-16 06:15:35 | 日記
昨日「安保法案」が衆議院特別委員会で強行採決されました。

国会での審議を通じて、特に「集団的自衛権」をめぐる問題についての矛盾や違憲性が明らかになり、多くの憲法学者等が指摘していたように、昨年の閣議決定のような勝手な「解釈」が成り立ってしまったらわが国の政治と社会の「法的安定性」を著しく損なうことになってしまう、ということが明らかになって来ていたように思えていたのですが、そのようなことへの改めての考慮はなされなかった、ということで残念です。

今回の「安保法案」の内容や国際情勢に対する対応方針についても多くの問題があるように思えますが、憲法の基本的な原理に関してさえも、その時の「政治的必要」から論理的な筋道の立たない「解釈」で変えてしまうことが許されてしまう、というところに問題がある、と言うべきでしょう。
このことを、「法律関連」の職業であるとする土地家屋調査士においても、もう一度考える必要があるのだと思います。

人びとが「政治」を個別的な課題の実現のための手段として弄んでしまうと、「全体としての政治」は確実に劣化します。そして劣化した政治は、人々が「政治」を手段に実現したささやかな利益をも根底から覆してしまうような事態を生み出してしまいます。
昨年末の総選挙は「消費税10%見送り」「アベノミクスこの道しかない」を「争点」として行われた(と少なくとも多くの人は思っていた)わけですが、その結果の「3分の2」が、わが国の政治・社会の全体に関わる「法的安定性」を崩壊させようとしています。
私たちの「政治」への関わり方を含めて考えていかなければならないように思います。