福島原発事故を受けて「電力問題」が大きな関心を集めています。
「電力問題」は、そもそもとても重要な問題だったのに、問題そのものが覆い隠されてきたこともあって、私たちがあまりにも無知だった、ということがあるように思えます。そこで、この問題に本当に「入門」させてくれる本が出たのであれば、ありがたいことだと思って読みました。
読後、たしかに蒙を啓かれた部分もあります。しかし、全体としては、全ての問題が見渡せるような「入門」が果たせたとは思えません。
それは、タイトルに示される著者の基本姿勢に原因があるのだと思えます。「精神論抜き」と言う部分です。たとえば、
「倫理的・文化的議論を否定するわけではありませんが、経済社会のインフラとして電力は絶対に必要なのです。」
というように言われます。
「電力は絶対に必要」と言っても、どの程度必要なのか?というのは別問題でしょう。著者を含む「電力重視論」者の一つの共通点は「節電」への消極的な姿勢です。著者は別のところでは、「こうした節電を半永久的に継続させるのは相当に難しいことです。震災後は高かった節電意識も、わずか一年でずいぶん薄れてしまったように思います。」とも言っています(この夏の節電実績が出る前のものです)。今までと同じようなレベルで「電力は絶対に必要」だと考え、それを「安定供給」するためにどう考えるのか、というのが不動の前提であるわけです。「倫理的・文化的議論」を、単に「否定するわけではない」だけではなく、自ら考えてみることが必要であり、それが欠けているところでの議論では、全体を見渡せなくなってしまう、ということなのでしょう。著者は、次のようにも言います。
「そもそも、エネルギー源に倫理的な『正邪』があるのでしょうか。原子力であろうと、太陽であろうと、エネルギーを電力に転換して、日常生活や経済活動に利用していることには変わりありません。それを『悪魔の火』と捉えるか『神からの思し召し』と捉えるかは、個々人の価値観や倫理観にすぎないのです。」
著者にとって「価値観」「倫理観」というものは、「個人的」なものでしかなく社会的に一つの時代において形成されていくもの、とは考えられないようです。そういうところから「ゼニに色がついているわけではないでぇ」とうそぶく振り込み詐欺の犯人みたいに「エネルギー源に『正邪』はない」とまで言い切ってしまうわけです。同じように「日常生活や経済活動」に使われる電力だとしても、もしもそれが多くの人々の生活を破壊しながら生み出されるものなのだとしたら、それは「邪」なエネルギー源だ、と言うべきでしょう。この本の帯には、「なぜ議論がすれ違うのか?」と大書されていますが、エネルギー源の「正邪」の区別があったうえで、どれを選択していくのか、ということが問題になっているときに、「正邪がない」ということを前提にしているのでは、議論がすれ違ってしまうのも当然だな、と思えてしまいます。
著者は、資源エネルギー庁の資源燃料部政策課長などを務められた方、ということですが、こういう「価値観・倫理観」に基づいて政策立案されていたのだとすると、福島原発事故に至る原子力政策の破綻というのは、必然だったのだろうな、と思えてきます。
その他、「電力問題」のごく基本的なことについて勉強になった部分も多くありました。現実を踏まえながら現実を変えていく必要がある、というのは、どんな社会的問題についても同じだと思いますので、それはそれとして学び、考えておかなければならないことなのだと思います。