大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

「登記研究」誌856号「分筆登記の地積測量図によって分筆地の筆界は確定するのか」

2019-07-17 08:57:11 | 日記
前回、「筆界特定と異なる判断が裁判所によってなされた事例」のことについて書きました。繰り返しますがこのことに関する検討はとても大事です。
それは、「筆界の位置がどこであるのかを探求する」ということの「精度を上げる」ために必要だからです。
「精度を上げる」と言うと、「測量精度」的なことを思い浮かべる人が多いのではないか、と思いますが、私の言いたいのはそういうことではなく、「妥当性を上げる」「正当性を上げる」ということであり、それは「説得力を上げる」ことになり、ひいては「信頼度を上げる」ことになる、という意味合いのことです。
それは、裁判所が行う判断のあり方をしっかりと把握したうえで、それの足りないところを補いうるようなものにしなければならない、ということでもあります。そのようなものとして「筆界特定と異なる判断が裁判所によってなされた事例」に関する検討がとても大事だと思うのです。

そのような課題について、前回予告したように、今月号の「登記研究」誌(856号)に掲載されている新井克己先生の連載「Q&A不動産表示登記」の38回目中の「Q195」として「分筆登記の地積測量図によって分筆地の筆界は確定するのか」という設題と解答について、関連するところがあり、重要な問題を含んでいると思いましたので、今日はそれについて書きます。(できることなら、ここで以降の私のブログを読むのをいったん止めて、「登記研究」誌(856号)を読んでみてください。そこで考えて、明日にでも以降のものを読んでいただければ、ありがたいと思います。)

はじめに、この設題のどういうところを重要だと思ったのか、ということを含めて、基本的な視点について書いておきます。
「筆界特定と異なる判断が裁判所によってなされた事例」を考えると、具体的な事案における当否の問題は別にして、「筆界特定の判断基準」と「裁判の判断基準」に、具体的なことを超えた違いがあるのではないか、と思えます。
それは、裁判(司法)における判断というのは、あくまでも個別の事案の解決に資することを目的意識としているのに対して、筆界特定を行う法務局をはじめとする行政的な判断というのは、全般的な、あるいは統一的な(あるいは画一的な)解決を目指すものとしてあるのだろう、ということです。

・・・ということで、ようやく本題。
「分筆登記の地積測量図によって分筆地の筆界は確定するのか」?という設題に対する新井先生の結論的な解答は、「分筆の登記がされたからといって、分筆地とその隣接地との間の既存の筆界が確定されるわけではない」と言われています。
このこと自体は、「境界の確定」ということがきわめて法的には狭く解釈されるべきものとされていて、筆界特定でさえ確定するものではない、とされていることを前提にするなら、きわめて当たり前の答えだ、ということになります。分筆登記が行われ絵地積測量図に「既存の筆界」の記載があったとしても、後日それが誤っていることが明らかになったのであれば、以降それに拘束されなければならないわけではなく、正しいと認定された筆界をもって爾後の登記手続きを進めればいい、というのは極めて当たり前の妥当な「解答」です。しかし、このようなことは「分筆登記の地積測量図」に限ったことではありません。筆界特定だって、その判断に誤りがあるとされれば筆界確定訴訟でひっくり返されるわけですし、筆界確定訴訟の下級審判決だって上訴審でひっくり返されることはあるわけです。まさに「確定判決」が決まるまで、筆界が「確定」するわけではない、というのは、その通りだと言えばその通りであるけれど、ほぼ何も言っていないのと同じようなことです。
しかし、「境界確定」という言葉は、このような厳密な意味において使用されているだけではありません。たとえば、国有財産法では「境界確定の協議」ということが言われています。そして、この「境界確定の協議」は、戦前のように行政処分として境界(筆界)そのものを確定させる効力があるわけではなく、私人間の契約と同様なものであると解されているものであり、「境界確定訴訟の確定判決によってのみ確定する」というような狭い意味とは異なるものとして使用されています。
このように、さまざまな意味で「確定」ということが使われる、ということを踏まえて、さて、設題に対して「確定するわけではない」という回答を出すべきなのか?ということを考えると、疑問です。
たしかに「法的確定」という位相においては「確定」するものではない、のだとしても、他の位相、ここでの問題としては「分筆登記の地積測量図」の属する位相=不動産登記のステージにおいては「確定」するものとして理解し、取り扱うべきなのではないのか、と思います。
そのあたりのことを以下書いていくのですが、とりあえず直接的な感覚として言えば、少なくとも、「まったく確定しない」とするのだとすると、私たちは日々何のために仕事をしているのだろう?ということになってしまいます。分筆をして、地積測量図を備え付けることによって、その土地の境界が将来にわたって安定する、というものとして私たちは仕事をしているはずです。少なくとも、大分のような田舎でも一つの分筆登記をするためには40~50万円の費用が掛かってしまう、ということのなかで、その費用に見合った効果を生じさせるべきなのは、当然の職業上の責務なのだと思います。(さらについでに言うと、土地を分筆するために土地所有者にこれほどの負担を強いる現在の日本の制度自体について、私たちはついつい当たり前のことのように思ってしまいますが、考えてみるとずいぶんなことだと思えるはずです。そんな土地の管理・境界の管理は「公」の責任において行うべきものだろうと思える・・・という話ですが、本題と離れて行ってしまうのでこの辺で終わります。)



問題は次のようなことです。


「「図1において、旧不動産登記法当時、2番の土地(900㎡)を2番1及び同番2の各土地に分筆する分筆登記(以下,本問において「本件分筆登記」という。)が経由されている。本件分筆登記に関する地積測量図には,2番1及び同番2の各土地は,次のように求積されている。
① 2番2の土地(以下, 本問において「本件分筆地」という。)は,イ'・ロ'・B・A・イ´の各点を順次直線で結んだ範囲を求積(200rd)
②2番1の土地(以下, 本問において「本件分筆残地」という。)は差引計算(旧不登準則123条ただし書)による求積(700㎡〉
ところが,2番の土地の筆界は,イ・ロ・ハ・二・イの各点を順次直線で結んだ範囲(900㎡)であった。すなわち,2番の土地と1番の土地との筆界は,イ・ロの各点を直線で結んだ線であるところ,本件分筆登記申請時において,これをイ'・ロ'の各点を直線で結んだ線であると誤認したものである。」


このような場合において、筆界はどこの位置にあるものとして考えるべきか?というのが問題です。
この問題な二つに分かれます。
A.一つは、既存の筆界である「1番」と「2番」の筆界はどこにあるのか?(すなわち「イーロ」なのか、「イ´-ロ´」なのか?
B.もう一つは、この分筆によって創設された筆界は、どこの位置にあるのか?(すなわち「A-B」にあるのか?そうでないのか?)
ということです。
この問題についての新井先生の解答は、次のものです。

「分筆の登記がされたからといって,本件分筆地の境界(イ´・ロ'・B・A・イ'の各点を順次直線で結んだ範囲)及び本件分筆残地の境界(A・B・ハ・二・Aの各点を順次直線で結んだ範囲)が公認されるわけではない(甲府地方裁判所昭和53年5月31日・訟務月報24巻8号1609ページ)。
本件分筆登記によって,2番2の土地と1番の土地との筆界の認定に誤りがあった(イ・ロの各点を直線で結んだ線とすべきをイ'・ロ'の各点を直線で結んだ線と認定)結果,登記記録(不登法2条5号)上の地積(200㎡)が実際の地積(300m2)と齪翻することになったのであるから,地積更正の登記(同法38条)によって,これを是正すれば足りることになる。」
「この場合、2番2の土地の登記記録上の地積を確保して,本件分筆線をA'・B'の各点を直線で結んだ線に移動する是正方法(図2参照)は,筆界を移動することになるから,認められない。」

私なりに整理すると、新井先生の解答は、次のようになります。
A.「1番」と「2番」の筆界はどこにあるのか?・・・については、後から正しいことが判明した「イーロ」が「1番」と「2番」の筆界であり、分筆の際に確認した「イ´-ロ´」は単に誤認したものなので全然関係ない。
B.分筆によって創設した筆界は「A―B」なのだから、その「移動」は認められない。つまり、



というように、新たに正しいと認められた「イーロ」を前提として、当初の分筆をした際の地積である200㎡を確保するような分筆線「A´―B´」を分筆線だとすることは認められない、ということです。

しかし、この解答には、私は疑問を抱きます。
「筆界の移動は認められない」と言われています。しかし、何をもって「移動した」ということが言えるのでしょうか?分筆によって創設された筆界の位置がはっきりしたものでなければ、そもそも「移動」ということは言えません。
おそらく、分筆した位置である「A」点、「B」点に境界標が設置されている、とか、分筆した位置である「A―B」が復元可能な座標を持つ線として公示されている、というようなことが、分筆によって創設された「A-B」を確固たるものにしていて、だからそこからの「移動」は認められない、というようなこととして想定されているのかと思われます。
しかし、たとえば、分筆登記をおこなったのが、そもそも数量指示の分筆で、分筆はしたものの特に利用されはしたが境界標も何の工作物も設置されておらず、分筆の地積測量図は復元性のない三斜のものであった、というような場合であったらどうなのでしょうか?
このような場合において、「2番2」がどこにあるのか?その筆界はどこにあるのかわからない、ということで、筆界特定の手続なり筆界確定訴訟を行ったりした場合には、「1番との筆界」の位置をまず明らかにして(「イ―ロ」ということになるでしょう。、そしてそこから200㎡を画する「A´‐B´」が2番2と2番1との筆界、すなわち分筆によって創設された筆界なのだ、ということとして判断をすることになるのではないか、と思われます。何も、「A―B」が「不動」で、そこからの「移動」がない、と決めつけられるべきものではないように思えます。
ですから、「分筆したのはA-Bなのだからそこから筆界は移動できない」ということを、どんな場合にも通用する不動の解答であるかのようにしてしまうのは、ちょっと違うのではないか、と思えるのです。
もっとも、「そんな変な事例を想定しているわけではない。「A‐B」には境界標が設置されている、とか、復元可能な座標を持つ線として公示されている、ということが前提であり、そのうえで「筆界は移動しない」ということを言っているのだ」との反論がなされるかもしれません。
しかし、もしもそうであるのなら、「A‐B」だけでなく、「イ´―ロ´」についても「境界標が設置されたり、復元可能な座標を持つ線として公示されていることになるはずです。その場合、たとえそれが「1番と2番との筆界」ということではないとしても、「2番2の筆界」を示すものであることには間違いない、と言うべきでしょう。その意義を、ほとんど何の意味もないようなものにしてしまって、「イ‐ロが正しいのだからそれで地積更正をしろ」というのは、あまりにも分筆登記という手続きの意義を軽んじるものであるように思えて仕方ありません。
もしも、分筆の際に「イ´―ロ´」としたのが間違いだったとしても、そこを「2番2の西側の筆界だ」としたことの意味を踏まえて、「イ´―ロ´―ロ―イ―イ´」で囲まれたは「もともとは2番の土地の範囲内なのだから言わば2番3だ」ということになる、というような考え方をも示してもいいように思えます。
なお、新井先生の大著「公図と境界」では、このように考える考え方を「飛地分割説」として、今回「正しい」としている処理方法を「地積更正説」とするのとともに示していて(そのほかにもう一つ「分筆錯誤説」をも挙げて)、「いずれによっても差し支えないであろう」とされています(P359-361)。
今回、なぜ「飛地分割説」がなくなり、「地積更正説」だけになってしまったのか理由は不明ですが、「諸説並び立つ」形から「これひとつが正解」へと絞り込んでしまう、ということは、「進化」なのではなく「退化」なのではないか、と思います。「多元主義」から「一元主義」へ、というような感じで、「一元」が好きな「行政」的立場にふさわしいのかもしれませんが、本来は、諸説が並び立つ、ということだけでなく、当該分筆がどのような性格のものだったのか・・・先に挙げたように相続だとか売買だとかで「200㎡」という数量が重要なものだった場合もあるでしょうし、特定の位置での分筆ということだった場合もあるでしょうし、分筆後にどのような経緯をたどっているのか、ということもさまざまあるでしょうから、それらの場合分けに応じた適切な処理をするようにする、という判断の仕方をすることが重要になるのではないか、と思います。
いわば「司法」的な判断の仕方で、これは、前回書いた「筆界特定と裁判での判断の仕方の相違」ということにも結び付くことであり、まさに「筆界特定」や「表示に関する登記」における実務が、現実の土地境界問題に関する解決能力を持ち、それを発揮することができるものなのかどうか?ということを問われるような問題であると言うべきなのだと思います。


「登記情報」誌今月号の「実務に活かす 判例登記法 第25回完 筆界特定の結果と異なる判断が裁判所によってなされた事例」(柳澤尚幸)について

2019-07-03 19:50:01 | 日記
毎月、この時期に「登記研究」誌と「登記情報」誌が送られてきます。いっぺんに来るとすぐに目を通す気にならなくて、そのまま「積ん読」状態になってしまうことがあります。できれば、時期を半月ずらして発行してくれるとありがたいのですが、そういうわけにもいかないようなので、送られてきたら、とにかくザーッと全体をみてみるようにしています。
ザーッと見た中で、今月は興味深く感じるものが二つありました。
「登記情報」誌の「実務に活かす 判例登記法 第25回完 筆界特定の結果と異なる判断が裁判所によってなされた事例」(柳澤尚幸)と
「登記研究」誌の「Q&A不動産表示登記(38)」の「Q195 分筆登記の地積測量図によって分筆地の筆界は確定するのか」(新井克己)です。
これについて、以下書くようにします。

まず、「登記情報」誌の方について。

筆界特定と筆界確定訴訟の判断が食い違った事例については、筆界特定制度の内容的な検証を行う上で非常に重要な検討対象です。これについては、3年ほど前に、法務省民事2課局付検事らによる報告が「登記研究」誌821号でなされていて、それはそれで有意義なものであるとは思うのですが、ほとんどの筆界調査委員を供給している土地家屋調査士の側からの積極的な検討も必要であり、それが決定的に不足している、とかねがね思っていました。
そんな中で、土地家屋調査士、しかも日調連の(前)専務理事が、このような事例に関する検討報告を行っている、というのは、何はともあれ大変よろしいことであると思います。

事案は、平成18年に筆界確定訴訟が提起され、その訴訟の中で(おそらくは裁判所の勧めによって)筆界特定手続きを行うことになり(19年)、21年3月に筆界特定がなされたうえで、22年3月にそれと異なる内容の判決が下された、というものだそうです。
内容については、この報告からだけではよく読み取れないのですが(この事案については「登記情報」誌の588号にも載っているそうなので、この後探し出して読んでみようとは思いますが)必要と思われるところを抜き書きしてみます。
まず、筆界特定における判断について。
「対象土地を含む街区の北西端点と東南端点を基準として、旧公図を現況の測量結果に重ね合わせると、旧公図に描画された街区の南側筆界、西側筆界、北側筆界は、現況の測量成果のこれらの筆界の位置とおおむね一致する。したがって、対象土地の範囲は、旧公図を現況の測量成果に重ね合わせた位置に基づいて判断するのが相当である。」

これに対して筆界確定訴訟における判断は、
「当該方法による本件筆界の特定に合理性がないということはできないところである。」という一定の「理解」?を示したうえで
「しかし、本件旧公図は、土地台帳附属図面であって、一般に定量的にはそれほど信用できないが、筆界が直線であるか曲線であるか、がけか平地かといった定性的な点では信用されているところ、前記重ね合わせの結果によれば、旧公図に描画された各筆界と現況の測量成果の各筆界とは、対象土地甲及び対象土地乙の北側筆界については一致せず、4946番1の土地、4946番2の土地及び4945番1の土地の東側筆界、4956番8の土地の筆界並びに4956番10の土地と4596番7の土地との筆界については大きく相違していると言わざるを得ないものとなっている。そうすると、本件旧公図は、定量的な面での信用性は高くないと言わざるを得ないのであって、本件旧公図を現況の測量成果に重ね合わせることによって本件筆界を特定するという方法は、より合理的な他の方法がない場合に限って相当性が認められるとするのが相当である。」
「そこで、前記重ね合わせの方法よりも合理的な他の方法があるかについて検討すると、次のとおりである。本件街区においては、街区の外周にあたる筆界はすべて特定されており、その現況の実測面積は3034.87㎡である。街区を構成する筆の公簿面積の合計は、2853.53㎡であり、この割合に応じて各筆に面積を割り付けることにより、対象土地甲及(ママ)の面積は661.17㎡と求めることができ、対象土地甲の面積が661.17㎡となるように筆界を設定すると、K1点とK4点とを結んだ線となる。」

要するに、「筆界特定は公図に基づいて判断したが、筆界確定訴訟は面積に基づいて判断した」と言えるのかと思います。
事案の細かい内容がまったくわからないのですが、それにしてもこの裁判所の「判断」はあんまりだ、という気がします。以下、
① 「公図」への一般的評価が認識不足
この判決では、「公図は、土地台帳附属図面であって、一般に定量的にはそれほど信用できないが、筆界が直線であるか曲線であるか、がけか平地かといった定性的な点では信用されている」ということが言われています。意味不明のところもありますが、それはともかくとして、問題は公図は「定性的には信用できるが、定量的は信用できない」という「一般的評価」です。このような「一般的評価」は、境界確定訴訟の判決の中でも筆界特定においても多用されていますが、実に内容のない、何を言っているのかわけのわからない「評価」にすぎません。「公図」として一括して総称される図面には、さまざまなものがあるのであり、当該「公図」の特殊性を読み取ることぬきに「一般的評価」をしようというのは、そもそも認識不足だと言うべきです。
② 「公図」への一般的な評価からの演繹的な展開は誤り。
ですから、公図への「一般的評価」から演繹的に結論を導こうとすることは誤りです。本件では、「公図は一般に定量的には信用できないから本件でも信用できない」「より合理的な他の方法がない場合に限って相当性が認められるにすぎないものだ」(したがって、一般に相当性が認められるものではない)というように、「一般的評価からの演繹的な結論付け」がなされてしまっています
③ 「公図と現況との重ね合わせ」への評価の仕方が疑問
事案の具体的な内容がわかっていないのではっきりとはしないのですが、筆界特定の説くところによると、街区の東南端点を基準として南側筆界、西側筆界、北側筆界について、公図と現況とがおおむね一致するものとされています。東側がどうなのか?というのが気にはなるところですが、4辺のうち3辺が一致する、ということで、街区の外周としてほぼ一致、と言っていいのでしょう。これに対して、判決では街区の外周ではなく、内部の個々の筆界についての相違をあげています。しかし、内部の個々の筆界の公図への描画については、原始筆界と分筆によって後に書き入れられたものとでは区別した評価が必要ですし、内部の筆界については、外周に比べて現況の方の変化、ということも考えられます。このような、個別的なことへの評価を抜きにして「相違」をあげつらう、というのは、だいぶ違うのではないか、と思えてなりません。
④ 「面積」が「より合理的な方法」?
これらの「公図」への不当な過小評価の上で、「より合理的な他の方法」として取られたのが「面積」によるものだということです。これには驚きました。「より合理的」という基準を自ら設定したうえで「面積」を持ち出す、というところに私は驚いたのですが、考えてみると、これは「境界確定訴訟」における判断のあり方として、きわめて普通のものであり、驚くようなことではない、とも思えてきます。「民事紛争の解決」を目的とする民事訴訟の判断のあり方を「土地境界問題」にストレートに適用しようとすると、「結局は経済的利益」ということになり、「経済的利益」を表象するものは「面積」、ということになるわけです。だから「面積」が持ち出されてくること自体は、驚くべきことではないわけです。しかし、「境界(筆界)確定訴訟」の意義を改めて考えるならば、「客観的な筆界」ということをかませることによって、より「合理的」な解決が導かれる、ということがあるわけであり、「経済的利益」にストレートに(無媒介に)結びつけようとする態度をとるべきではない、ということになります。「判決」は、こういうことを考えているのか?と思ってしまうのです。
合理的判断」ということに戻って言えば、「面積」が判断の合理的な基準となる、というケースは、あまりない、ということをはっきりとさせておくべきだと思います。なぜなら、歴史的な経緯からして、「筆界」と「面積」は直接的な関連性を持つものとしては存在しないからです。もちろん、区画整理・土地改良・耕地整理の場合や、一帯が分筆によって創設された土地である場合には、「面積」をもとにして「筆界」が形成されているので、「面積」は「筆界」を判断するための有力な基準になります。しかし、いわゆる「原始筆界」やら「原始地積」(私の今造った造語ですが、最初に土地台帳に「反別」として記載された地積のことです)を含んだ土地の場合、「面積」は「筆界」の判断のための「合理的」な基準にはなりえるものではありません。

このように、事案の詳細はよくわからないにしても、本報告文で紹介されている内容を見る限り、この「筆界特定の結果と異なる裁判所の判断」には疑問が多くあります。私の印象としては、筆界特定の判断の方が、それを否定した裁判所の判断よりも合理性があるのではないか、と思えるのです。
ところが、この報告文の筆者(柳澤さん)は、「確かに判決文を通読すると、筆界特定の結果に比し、筆界確定訴訟の判決がより高い合理性に構成されていることが認められ、本判決は妥当な判断であると考える。」と言っています。私は「判決文を通読」したわけではないので何とも言えませんが、少なくとも「判決文を通読」したうえで要約紹介してくれたものを読む限りでは、判決の方が筆界特定よりも「高い合理性に構成されている」とはとても思えません。むしろ、筆界確定訴訟にありがちな、「筆界」への無知が前面に出てきてしまっているもののように思えてしまいます。

「筆界特定と異なる判断を裁判所によってなされる」ケースには、大きく言って3つのものがあるのではないか、と私は思っています。
1つは、裁判所の判断の方が筆界特定の判断より正しいもの
2つ目は、逆に筆界特定の判断の方が裁判所の判断より正しいもの
3つ目は、そもそも考え方の違いの問題で、どちらが正しいとは言い難いもの
の3つです(なんともありきたりですが)。
3年ほど前に法務省民事局が示したいくつかのケースは1つめのものが多かったように思えます。筆界特定の判断が変に「技術的」な面に引き付けられて全体像を見渡せなくなってしまっているような感じのものです。
それに対して、やはり2つ目のケースというのもあるように思えるのです。これは、もともと筆界特定制度ができた要因の一つとして、「裁判官は必ずしも筆界の専門家ではなく、専門的な判断をすることに困難がある」ということがあったことと関係します。
3つ目のケースというのは、たとえば国土調査で全体的にあやしげな「筆界認定」がなされている場合に、当該筆界についてどう考えるのか?というようなときに現れます。
これらのすべてのケースを含めて、「筆界特定と異なる裁判所の判断」についての検討を行う必要がある、ということになります。第一の場合は、裁判所の判断から学んで偏りをただすこと、第二の場合は、「傾向と対策」で、後の裁判所が誤った判断をしないように周到な言及に努めること、第三の場合は、「異なる考え方」への理解の上で判断の幅を広げること、がその検討の当面の目標になるわけです。
そのような検討を私たちはもっと積極的に行うべきであり、その意味で内容的にははなはだ物足りない面もあるとはいえ、このような形での検討が行われたこと自体は、非常によろしいことだとあらためて思っています(本当です・・・)。

「登記研究」誌のほうについては、またの機会に・・・。