「あわただしい」などと思うのはまだまだの証拠。

今日は午後から友人のお寺のお施餓鬼での法話。そしてお通夜。
明日はお葬式から火葬場、そして初七日を終えて、16時から本堂で「法話の辻」(今、資料を作りおえた。今日の仏さまのコーナー馬頭観音だ)。そして18時からふたたびお通夜。
当然のことのように明後日はお葬式である。

そんなんで、「あわただしい三日間の始まりだな。頭の切りかえができるだろうか」と今朝思ったが・・・。
僧侶として生きているわけだから、頭の切り換えなど必要ないことにあらためて気づいた。
いつだって仏道を歩いていけばいいわけで、途中で脇道を使う必要はないのだ。
そうしたら「慌ただしい三日間」が「充実した三日間なのだ」と腑に落ちた。
つまり、「慌ただしい」と思うような今朝の私が、まだまだ僧侶として生きていないということである。どははは。我ながら、情けねぇじゃねぇの・・・。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )