昨日、衆院選が公示されたが、近所で選挙カーが騒音を撒き散らすでもなし、テレビを殆ど見るでもなし、いまひとつ実感に乏しい穏やかな秋の一日だった。選挙戦と言えば政策論争に期待したくなるが、自民党総裁選でやり尽くした感があり、どの政党も揃ってパンデミック対応と財源の議論がない「分配」を訴える、財務省事務次官が心配するほどのバラマキ中心で、どうも興味が湧かない。
こうしてあらためて日本の将来をまがりなりにもぼんやり考える機会に接すると、日本と言うよりニッポン(実体としての日本と言うより、国際競争力の観点から捉えたニッポン)は、この30年間で、すっかり老いてしまったという感慨を抱かざるを得なくて、寂しい。
今月初めに、日本人のノーベル物理学賞受賞に沸いた。しかし正確には日本人ではなくアメリカに帰化された日系アメリカ人の受賞だった。中国で「千人計画」という、規模が小さければ許容されるところ余りにも大胆に大規模に(実数はその8~10倍と言われる)、しかも軍民融合の悪意を以て進められる悪魔の計画(!)に応じる日本人学者が少なからずいて話題になった(これは言わば公表されることを覚悟した“表”の政策であって、むしろ“裏”で行われているサイバー攻撃やスパイを使った技術窃取の方がより問題だと思うのだが)。前者は文化の問題として仕方ないにしても、後者は生活に関わり、学術領域における日本政府の支援が足りず、ポスドク問題に見られるように、日本にいては棲み辛く不遇を託つからに他ならず、深刻である。結果として、いずれノーベル賞受賞は先細りになると不安視されるのは、今に始まった話ではない。
少子高齢化で、年々、社会保障費の負担が大きくなり、三大基礎投資(研究開発、設備、人材)が減っていると、デービッド・アトキンソン氏が東洋経済への寄稿で、賃金が上昇しない日本の問題として指摘されている(10/20付「『プライマリーバランス黒字化』凍結すべき深い理由」)。確かに競争環境の中で投資が減れば、対抗し得る体力を維持できず、次の投資を呼び込む余力がなくなる悪循環に陥り、静かに縮小均衡に(最後は穏やかな死に)向かうのを留めることは出来ない(というのは、私がかつて属した業界の衰退を見るようである)。
「日本」と「ニッポン」とを書き分けてみたのは、日本人一般の関心は明らかに「日本」にしかなく、「ニッポン」のことを気にする人は僅かでしかないと思うからだ。江戸時代のように、この日本列島で仲良く穏やかに暮らしている限り、それなりに幸せであろうが、日本の外では欲望が渦巻き、その刃は日本にも向かっており、鎖国(という言葉は最近は不適切なようだが)でもしない限り、その外圧から逃れることは出来ない。それなのに、日本人は競争的な国際環境・・・それは科学技術やビジネスにおいてもそうだし、安全保障においてもそうだ・・・にあることを意識しなさ過ぎではないだろうか。
パンデミックで明らかなように、国際社会は、国際連合をはじめとする国際機関のもとで国際的な共同体を形成し、隣近所とも仲良くやって行ける・・・と日本が思いたがるような代物ではない。むしろ、2500年前の古代ギリシアの時代から、切った張ったの仁義なきパワーポリティクスの世界が繰り広げられる殺伐とした世界だというのが実像である。だからこそ、中国は、そこでの優越的地位を得ようとして、国際機関の長のポスト獲得を目指す。
ニッポンの凋落は見るに忍びない。少子高齢化と、成長する新興国とのせめぎ合いの中で、相対的に地盤沈下するのは仕方ないにしても、かつて世界第二の経済規模を誇った大国の成れの果てとして、国際社会の中で「名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)のは自然な感情だろう。そのためには、パンデミックという緊急事態下ではあるが、ただのバラマキではない、将来に繋がる「投資」と「成長」の視点が必要であり、それは「分配なくして成長なし」ではなく、分配しても昨年の給付金の7割方は貯蓄に回されたと言われるように、「成長なくして分配なし」を基本とすべきだろうと思う。また、緊張の度合いを増す米中対立の下で、軍事及び経済安全保障も、待ってはくれない喫緊の課題である。これらを含む国家戦略が垣間見えるかどうかという観点から(実は余り期待できないと半ば諦めてもいるのだが)衆院選を見て行きたいと思う。
こうしてあらためて日本の将来をまがりなりにもぼんやり考える機会に接すると、日本と言うよりニッポン(実体としての日本と言うより、国際競争力の観点から捉えたニッポン)は、この30年間で、すっかり老いてしまったという感慨を抱かざるを得なくて、寂しい。
今月初めに、日本人のノーベル物理学賞受賞に沸いた。しかし正確には日本人ではなくアメリカに帰化された日系アメリカ人の受賞だった。中国で「千人計画」という、規模が小さければ許容されるところ余りにも大胆に大規模に(実数はその8~10倍と言われる)、しかも軍民融合の悪意を以て進められる悪魔の計画(!)に応じる日本人学者が少なからずいて話題になった(これは言わば公表されることを覚悟した“表”の政策であって、むしろ“裏”で行われているサイバー攻撃やスパイを使った技術窃取の方がより問題だと思うのだが)。前者は文化の問題として仕方ないにしても、後者は生活に関わり、学術領域における日本政府の支援が足りず、ポスドク問題に見られるように、日本にいては棲み辛く不遇を託つからに他ならず、深刻である。結果として、いずれノーベル賞受賞は先細りになると不安視されるのは、今に始まった話ではない。
少子高齢化で、年々、社会保障費の負担が大きくなり、三大基礎投資(研究開発、設備、人材)が減っていると、デービッド・アトキンソン氏が東洋経済への寄稿で、賃金が上昇しない日本の問題として指摘されている(10/20付「『プライマリーバランス黒字化』凍結すべき深い理由」)。確かに競争環境の中で投資が減れば、対抗し得る体力を維持できず、次の投資を呼び込む余力がなくなる悪循環に陥り、静かに縮小均衡に(最後は穏やかな死に)向かうのを留めることは出来ない(というのは、私がかつて属した業界の衰退を見るようである)。
「日本」と「ニッポン」とを書き分けてみたのは、日本人一般の関心は明らかに「日本」にしかなく、「ニッポン」のことを気にする人は僅かでしかないと思うからだ。江戸時代のように、この日本列島で仲良く穏やかに暮らしている限り、それなりに幸せであろうが、日本の外では欲望が渦巻き、その刃は日本にも向かっており、鎖国(という言葉は最近は不適切なようだが)でもしない限り、その外圧から逃れることは出来ない。それなのに、日本人は競争的な国際環境・・・それは科学技術やビジネスにおいてもそうだし、安全保障においてもそうだ・・・にあることを意識しなさ過ぎではないだろうか。
パンデミックで明らかなように、国際社会は、国際連合をはじめとする国際機関のもとで国際的な共同体を形成し、隣近所とも仲良くやって行ける・・・と日本が思いたがるような代物ではない。むしろ、2500年前の古代ギリシアの時代から、切った張ったの仁義なきパワーポリティクスの世界が繰り広げられる殺伐とした世界だというのが実像である。だからこそ、中国は、そこでの優越的地位を得ようとして、国際機関の長のポスト獲得を目指す。
ニッポンの凋落は見るに忍びない。少子高齢化と、成長する新興国とのせめぎ合いの中で、相対的に地盤沈下するのは仕方ないにしても、かつて世界第二の経済規模を誇った大国の成れの果てとして、国際社会の中で「名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)のは自然な感情だろう。そのためには、パンデミックという緊急事態下ではあるが、ただのバラマキではない、将来に繋がる「投資」と「成長」の視点が必要であり、それは「分配なくして成長なし」ではなく、分配しても昨年の給付金の7割方は貯蓄に回されたと言われるように、「成長なくして分配なし」を基本とすべきだろうと思う。また、緊張の度合いを増す米中対立の下で、軍事及び経済安全保障も、待ってはくれない喫緊の課題である。これらを含む国家戦略が垣間見えるかどうかという観点から(実は余り期待できないと半ば諦めてもいるのだが)衆院選を見て行きたいと思う。