風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

パリ同時多発テロ・続

2015-11-18 00:00:24 | 時事放談
 前回の続きで、最後の議論が舌足らずなのでちょっと補足する。
 今朝の日経によると、フランスは、パリ同時テロへの報復措置として、ISへの空襲を強化したようであり、オランド大統領は昨日の演説で「われわれは戦争状態にある」と強調し、断固とした決意でテロとの戦いに臨む姿勢を示したとも報じられている。勿論、フランス国民の間では新たなテロを心配する空気も強まっている、ともあるが、さすがに国としては覚悟が出来ているようだ。
 日本でも、勿論、今年、新年早々に湯川さんと後藤さんの二人の日本人の人質が殺害される痛ましい事件があり、当時の共同通信の世論調査では「テロに屈しない」と宣言した安倍政権の事件への対応を「評価する」と答えた日本人が6割以上に達したことは記憶に新しい。
 こうした事案を書き出すと、38年前に起こったダッカ日航機ハイジャック事件を思い出す(以下、Wikipediaより抜粋)。パリ=シャルル・ド・ゴール空港発、羽田行きの日本航空472便が、経由地のムンバイ空港を離陸直後、武装した日本赤軍グループによりハイジャックされ、一旦、コルカタ方面に向かった後、進路を変更してバングラデシュのダッカ国際空港に強行着陸したものだ。犯人グループは人質の身代金として600万ドル(当時の為替レートで実に16億円)と、日本で服役および勾留中の同士9名の釈放と日本赤軍への参加を要求し、これが拒否された場合または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した(この時、犯人グループから「アメリカ人の人質を先に殺害する」という条件が付けられ、この「条件」の影響を受けて、その後の日本政府の対応にアメリカへの外交的配慮があったとする見方もあるらしい)。これに対して当時の福田赳夫首相は「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金満額支払いと超法規的措置として獄中メンバーなどの引き渡しを決断し、決着した(但し3人は釈放および日本赤軍への参加を拒否)。
 当時、まだ子供だった私は、その時の雰囲気を肌で感じたものか、あるいは後に書籍等で批判的な言説を読んだものかは定かではないが、日本の弱腰が世の批判を浴びた苦い思いが微かに記憶に残っている。実際、Wikipediaは、一部諸外国から「日本は(諸外国への電化製品や自動車などの輸出が急増していたことを受けて)テロまで輸出するのか」などと非難を受けたことに触れている。
 しかし、Wikipediaは同時に、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常で、日本政府のみがテロに対して弱腰であったわけではないと論評している。これは意外だ。そして、こうしたテロリストの要求を受け入れる流れが変わるきっかけとなったのが、同じ年(1977年)に起こったルフトハンザ航空181便ハイジャック事件で、西ドイツ政府は、ミュンヘン・オリンピック事件を機に創設された特殊部隊GSG-9を航空機内に突入させ、犯人グループを制圧し、人質を救出したらしい。このGSG-9の成功例を参考に、同年、日本政府はハイジャック事件に対処する特殊部隊を警視庁と大阪府警察に創設し、アメリカは陸軍にデルタフォースを設立した、とある。因みに、日本の警察の特殊部隊は後に「SAT(Special Assault Team)」となり、また警察庁が設置し、中東・欧州・東南アジアなどで日本赤軍の捜査を行うようになった警備局公安第三課兼外事課「調査官室」は現在の「国際テロリズム対策課」へと繋がっているらしい。
 積極的平和主義を掲げ、普通の国になろうとしている日本は、これまで以上に、こうした難しい状況に置かれることも覚悟しなければならないのだろう。安保法制や集団的自衛権の是非の議論の中で、日本はアメリカの戦争に巻き込まれるのではないかといった、ちょっと無責任とも思える主体性のない懸念が広がったが、まさに日本は国益をもとに、テロや戦争などの有事に当たり、是々非々で判断して行かなければならない状況に置かれることもあるのだろう。そしてそれは時の政権やNSCだけの問題ではなく、私たち自身が考え、覚悟しなければならない問題でもある。実に重い課題だ。
コメント
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