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パラドックスとはある前提に対して、全く違う(しかしどちらも誤りではない)方向性から、お互いに矛盾し合うが、どちらも正しく思える結論を導き出してしまう現象の事だ。
過去数十年にわたり、パラドックスは哲学の分野で大きく注目されている。ここでは世界的に有名な10のパラドックスを紹介しよう。
1.アキレスと亀(ゼノンのパラドックス)
「アキレスと亀」は紀元前5年の古代ギリシャの自然哲学者エレア派のゼノンによって提唱されたパラドックスだ。このパラドックスの物語はかの有名なアキレスがリクガメと徒競走を行う所からスタートする。
アキレスはレースが始まる前、リクガメとの競争を平等にするため、リクガメを500メートル程先の地点からスタートさせる事にした。もちろん人間であるアキレスはリクガメより足が速いので、直ぐにリクガメに追い付き始める。
ここでアキレスが500メートル地点に着いた頃、リクガメはたった50メートルしか進んでいないと仮定しよう。しかし、アキレスが更に50メートル進んで550メートル地点へと到達すると、今度はリクガメの方が5メートル先を行っている。次に555メートル地点に移動すると、リクガメとの距離は0.5メートル、その後は0.25メートル、0.125メートル・・・と、距離は縮まるが決して追いつけない。
ゼノンが提唱したかったのは「それらが導く結論はいかにも非現実的であるにもかかわらず、結論を導く論証過程自体は正しそうに見える点にある」。という物である。つまり論証の前提の正しさを受け入れる者にとって、論証の結論を拒否するためには論証過程のどこに誤りが潜んでいるかを指摘する必要があるが、それは容易ではない。結果として後に多くの哲学者がこの課題に挑戦した。
2. ブートストラップのパラドックス(自動実行のパラドックス)
ブートストラップのパラドックスとはタイムトラベルに関するパラドックスである。このパラドックスの内容はこうだ。 「未来にある”物”を過去に持ってきたとしたら、その”物”は存在する事が出来ない」
このパラドックスはとても有名で、過去に数々のSFドラマ・映画の脚本や小説等にも強い影響を与えた。例えばSF連続ドラマ「ドクター・フー」や映画「ビルとテッドの大冒険」等がその一部であるが、最も有名なのはマサチューセッツ大学デイビッド・トゥーミー教授の本「The New Time Travellers(ザ・ニュータイムトラベラーズ)」だろう。
例えば、タイムトラベラーが現代から「ハムレット」を本屋から購入したとしよう。そして彼は過去のロンドンへと時空旅行をし、そこでシェイクスピアにハムレットを渡し、「これは私の小説だ」とウソをつくとする。そして月日が流れ、ハムレットがまたしても現代の本屋に登場する。それをタイムトラベラーがまた購入し、シェイクスピアに届ける。なら「誰がハムレットを書いたのか?」という問題が残ってしまうのだ。
3. 男か?女か?のパラドックス
ある家族を想像してみてほしい。家族には2人の子供が居て、ひとりは男の子だ。さて、もうひとりの子供が男である確率は何%だろうか?
単純に考えると50%なのは言うまでもない。「男性か?女性か?」の二択であり、男女が産まれてくる割合は50:50なので、どう考えても50%で間違いないと思ってしまうだろう。
しかし、ここで兄弟姉妹が産まれてくるパターンを考えてほしい。兄弟姉妹のパターンは以下の4つである
・両方男の子(男男)
・両方女の子(女女)
・年上の男の子に年下の女の子(男女)
・年上の女の子に年下の男の子(女男)
ここで質問に戻ると「ひとりは男の子」なので「両方女の子」の可能性は無くなる。そうすると、ここで残る選択肢は(男男)、(男女)、(女男)の三つとなる。つまり、もう一人の子供が男である確率は1/3、約33.33%なのだ。
4. カードのパラドックス(郵便はがきのパラドックス)
今、あなたの目の前の机の上にはポストカードがある。このポストカードの両面には文字が書かれており、あなたは置いてあるポストカードの片面しか見ることができない状態だ。
見えるほうの片面(文章A)には「裏面に書かれている内容は正しい」。と書いてある。さて、カードをひっくり返して裏面(文章B)を読んでみると、「このカードの裏側の文章(文章A)は誤りである」。
さて、どちらが正しいと思うだろう?文章Aが正しいとするならば、文章Bも正しいはずだが、文章Bが正しいなら、文章Aは誤ってなければならない。逆に文章Aが誤りだとするならば、文章Bも誤りであるはずだ。だが、そうすると今度は文章Aが正しくなければならない。
このパラドックスは1900年代初頭、イギリスの論理学者フィリップ・ジョーダンによって考案され、時に「嘘つきのパラドックス」とも呼ばれている。
5. ワニのパラドックス
ナイル川の河岸で、人食いワニが男の子をさらっていこうとした。男の子の母親はワニに対して「子供を返して」。と懇願した。するとワニは「自分がこれから何をしようとしているのかを当てたら子供を返してやろう、はずれたらこの子を食べる」。と答えた。
もしここで、母親が「あなたは私の子供を食べるでしょう」と言えばパラドックスが発生してしまう。もしそれが正解なら、ワニは子供を返さなければならないわけだが、同時に「子供を食べなければならない」というパラドックスが発生するのだ。
もし不正解なら、ワニは子供を食べても良いことになる。しかしそこで食べると、結果的に母親の予想は正しかった事になるため、矛盾にぶつかる。
この「ワニのパラドックス」は非常に古い自己言及のパラドックスの一つであり、人食いワニのジレンマとも言われている。
6. 二分法のパラドックス
あなたが今まさに階段を降りようとしている光景を思い浮かべてほしい。一番下まで降りるにはあなたは必ず階段を半分降りなければならない。そして同じようにあなたは階段を半分降りるには、同じように階段を1/4降りなければならない。そして、あなたは階段を1/4降りるには、1/8降りなければ・・・と無限に続いていく。
つまり、あなたは階段を降りるという単純な行動を行うのに無限大の行動を満たさなければならない。この「無限大の行動」は無限大なので論理的に考えると永遠に達成できないはずである。そして、最初の行動は有限数であるため必ずまた半分に割る事が出来る筈である。つまり此の世は「階段を降りる為の終わり無き無限の行動」か「初めから階段を降りない」という二択しか存在しないことになるのだ。
7. フレッチャーのパラドックス(飛んでいる矢は止まっているというパラドックス)
矢を作る職人が空に向かって矢を撃ったとしよう。矢が飛び続けるには、矢は常に動いていなければならず、数秒前と全く違う位置に存在しなければならない。しかし、フレッチャーはこう考える。
「例えば、矢を写真に撮ったとしよう。その瞬間矢は宙に止まっているように見え、前に進むことが出来ない。つまり、時間というのはこういった静止した瞬間の連続なのであるからして、矢は止まっているのだ」。と。現実問題としてはそうではないのだが、思考問題としては非常に面白い考え方である。
8. ガリレオ・ガリレイの無限大のパラドックス
ガリレオ・ガリレイが最後に執筆した「新科学対話(1638年)」には彼が考案した数学のパラドックスが存在する。まず世界には1,4,9,16,25,36といった平行数がある、と彼は言う。そして、その一方で2,3,4,6,7,8といった平方数ではない数字がある、と彼は言う。
「平方数」は「平方数と平方数でない数字」を足した数より少ない、というのが論理的に正しいはずだ。しかし、全ての数字は平方根・二乗根と成る事が出来る上に、そこから出来た平方根には必ず平方数が存在するはずである。つまり片方がもう片方より大きいという答えは導き出せないのだ。
何を言ってるのかさっぱりわからないわけだが、実はガリレオ・ガリレイ自身もこの問題の答えを出せず、彼は本の中で「何かがもう片方より多い・同じ・少ない、というのは有限の数字にしか適応されない」と締めくくっている。
9. ポテトのパラドックス
ある農夫がポテトを100キロ収穫した。調査の結果、ポテトに含まれる成分は99%が水分であることがわかった。そこでポテトを陽の下で一日干し、ポテトの水分を98%にするように調節した。水分を調節した後、100キロあったはずのポテトは理論上50キロになっていなければならない。それは、なぜだろう?
さて、ここで理解しなければならないのは「100キロのポテトの99%が水なら、100キロの内99キロは水で、内1キロは固体のポテトでなければならない」という事である。
ここで比率について考えるとある問題が生じるのである。当初1:99で「固体:水」の比率で分かれていたが、全てのポテトが干され、全体の98%が水となったのであれば、2:98で「固形:水」で分かれるはずである。しかし、現実問題ポテトの固体は蒸発する事が無く、当初の1キロは維持されなければならないので、比率は「1:49」となるのだ。つまり、ポテトの最終重量は50キロで、その内1キロが固体・49キロが水という事になるってことだそうだ。なるほどわからん。
10.ヘンペルのカラス(カラスのパラドックス)
1940年代中期、ドイツのカール・ヘンペルが提出したこのパラドックスはある一つの文章から始まる。それは 「全てのカラスは黒い」というものである。ここで対偶論法を用いると、「黒くない物はカラスではない」。という結論が導き出される。
ちなみに対偶論法というのは、「AならばBであるとすれば、BでないものはAではない」という理論で、これにより最初の命題の真意を確かめずとも、「BでないものはAではない」という事を証明出来れば、「AならばBである」という命題を証明する事が出来るのである。この問題の場合、Aが「カラス」でBが「黒い」である。
さて、我々は全てのカラスは黒いという事を知っているので(アルビノなどの例外を除く)、最初の命題は正しいという事になる。同じように「黒くないものはカラスではない」ので、世界中の「黒くなく、カラスでもない」物を見る事によって、世界中のカラスを調べずとも、「全てのカラスは黒い」という命題を対偶論法で正しいと導き出す事が出来るのである。
結果、我々はカラスを「一羽も見る事無く」、ただ「黒くもなく、カラスでもない」ものを見る事で「全てのカラスは黒い」という命題を「正しい」と証明できるのである。
via:mentalfloss
久々に思いっきり頭をフル回転させてみたが、考えれば考えるほどドツボにはまっていったわけで、日頃こんなことばかり考えている哲学者たちっていろいろ凄かったり、おかしかったりするんじゃないかと思うんだ。
というかこれに近い話を子どもの頃ドラえもんで読んだことがあるんだけど、のび太がジャイアンの分のアイスを買うんだけど、ジャイアンがパラドックス的なことをいって結局のび太が損をするわけなんだけど、どう考えてもジャイアンが正しいような気がしてわけわからんかった。誰かこの話覚えてる人いる?
☆ドラえもんの話は、確かにあったでぇ~!
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パラドックスとはある前提に対して、全く違う(しかしどちらも誤りではない)方向性から、お互いに矛盾し合うが、どちらも正しく思える結論を導き出してしまう現象の事だ。
過去数十年にわたり、パラドックスは哲学の分野で大きく注目されている。ここでは世界的に有名な10のパラドックスを紹介しよう。
1.アキレスと亀(ゼノンのパラドックス)
「アキレスと亀」は紀元前5年の古代ギリシャの自然哲学者エレア派のゼノンによって提唱されたパラドックスだ。このパラドックスの物語はかの有名なアキレスがリクガメと徒競走を行う所からスタートする。
アキレスはレースが始まる前、リクガメとの競争を平等にするため、リクガメを500メートル程先の地点からスタートさせる事にした。もちろん人間であるアキレスはリクガメより足が速いので、直ぐにリクガメに追い付き始める。
ここでアキレスが500メートル地点に着いた頃、リクガメはたった50メートルしか進んでいないと仮定しよう。しかし、アキレスが更に50メートル進んで550メートル地点へと到達すると、今度はリクガメの方が5メートル先を行っている。次に555メートル地点に移動すると、リクガメとの距離は0.5メートル、その後は0.25メートル、0.125メートル・・・と、距離は縮まるが決して追いつけない。
ゼノンが提唱したかったのは「それらが導く結論はいかにも非現実的であるにもかかわらず、結論を導く論証過程自体は正しそうに見える点にある」。という物である。つまり論証の前提の正しさを受け入れる者にとって、論証の結論を拒否するためには論証過程のどこに誤りが潜んでいるかを指摘する必要があるが、それは容易ではない。結果として後に多くの哲学者がこの課題に挑戦した。
2. ブートストラップのパラドックス(自動実行のパラドックス)
ブートストラップのパラドックスとはタイムトラベルに関するパラドックスである。このパラドックスの内容はこうだ。 「未来にある”物”を過去に持ってきたとしたら、その”物”は存在する事が出来ない」
このパラドックスはとても有名で、過去に数々のSFドラマ・映画の脚本や小説等にも強い影響を与えた。例えばSF連続ドラマ「ドクター・フー」や映画「ビルとテッドの大冒険」等がその一部であるが、最も有名なのはマサチューセッツ大学デイビッド・トゥーミー教授の本「The New Time Travellers(ザ・ニュータイムトラベラーズ)」だろう。
例えば、タイムトラベラーが現代から「ハムレット」を本屋から購入したとしよう。そして彼は過去のロンドンへと時空旅行をし、そこでシェイクスピアにハムレットを渡し、「これは私の小説だ」とウソをつくとする。そして月日が流れ、ハムレットがまたしても現代の本屋に登場する。それをタイムトラベラーがまた購入し、シェイクスピアに届ける。なら「誰がハムレットを書いたのか?」という問題が残ってしまうのだ。
3. 男か?女か?のパラドックス
ある家族を想像してみてほしい。家族には2人の子供が居て、ひとりは男の子だ。さて、もうひとりの子供が男である確率は何%だろうか?
単純に考えると50%なのは言うまでもない。「男性か?女性か?」の二択であり、男女が産まれてくる割合は50:50なので、どう考えても50%で間違いないと思ってしまうだろう。
しかし、ここで兄弟姉妹が産まれてくるパターンを考えてほしい。兄弟姉妹のパターンは以下の4つである
・両方男の子(男男)
・両方女の子(女女)
・年上の男の子に年下の女の子(男女)
・年上の女の子に年下の男の子(女男)
ここで質問に戻ると「ひとりは男の子」なので「両方女の子」の可能性は無くなる。そうすると、ここで残る選択肢は(男男)、(男女)、(女男)の三つとなる。つまり、もう一人の子供が男である確率は1/3、約33.33%なのだ。
4. カードのパラドックス(郵便はがきのパラドックス)
今、あなたの目の前の机の上にはポストカードがある。このポストカードの両面には文字が書かれており、あなたは置いてあるポストカードの片面しか見ることができない状態だ。
見えるほうの片面(文章A)には「裏面に書かれている内容は正しい」。と書いてある。さて、カードをひっくり返して裏面(文章B)を読んでみると、「このカードの裏側の文章(文章A)は誤りである」。
さて、どちらが正しいと思うだろう?文章Aが正しいとするならば、文章Bも正しいはずだが、文章Bが正しいなら、文章Aは誤ってなければならない。逆に文章Aが誤りだとするならば、文章Bも誤りであるはずだ。だが、そうすると今度は文章Aが正しくなければならない。
このパラドックスは1900年代初頭、イギリスの論理学者フィリップ・ジョーダンによって考案され、時に「嘘つきのパラドックス」とも呼ばれている。
5. ワニのパラドックス
ナイル川の河岸で、人食いワニが男の子をさらっていこうとした。男の子の母親はワニに対して「子供を返して」。と懇願した。するとワニは「自分がこれから何をしようとしているのかを当てたら子供を返してやろう、はずれたらこの子を食べる」。と答えた。
もしここで、母親が「あなたは私の子供を食べるでしょう」と言えばパラドックスが発生してしまう。もしそれが正解なら、ワニは子供を返さなければならないわけだが、同時に「子供を食べなければならない」というパラドックスが発生するのだ。
もし不正解なら、ワニは子供を食べても良いことになる。しかしそこで食べると、結果的に母親の予想は正しかった事になるため、矛盾にぶつかる。
この「ワニのパラドックス」は非常に古い自己言及のパラドックスの一つであり、人食いワニのジレンマとも言われている。
6. 二分法のパラドックス
あなたが今まさに階段を降りようとしている光景を思い浮かべてほしい。一番下まで降りるにはあなたは必ず階段を半分降りなければならない。そして同じようにあなたは階段を半分降りるには、同じように階段を1/4降りなければならない。そして、あなたは階段を1/4降りるには、1/8降りなければ・・・と無限に続いていく。
つまり、あなたは階段を降りるという単純な行動を行うのに無限大の行動を満たさなければならない。この「無限大の行動」は無限大なので論理的に考えると永遠に達成できないはずである。そして、最初の行動は有限数であるため必ずまた半分に割る事が出来る筈である。つまり此の世は「階段を降りる為の終わり無き無限の行動」か「初めから階段を降りない」という二択しか存在しないことになるのだ。
7. フレッチャーのパラドックス(飛んでいる矢は止まっているというパラドックス)
矢を作る職人が空に向かって矢を撃ったとしよう。矢が飛び続けるには、矢は常に動いていなければならず、数秒前と全く違う位置に存在しなければならない。しかし、フレッチャーはこう考える。
「例えば、矢を写真に撮ったとしよう。その瞬間矢は宙に止まっているように見え、前に進むことが出来ない。つまり、時間というのはこういった静止した瞬間の連続なのであるからして、矢は止まっているのだ」。と。現実問題としてはそうではないのだが、思考問題としては非常に面白い考え方である。
8. ガリレオ・ガリレイの無限大のパラドックス
ガリレオ・ガリレイが最後に執筆した「新科学対話(1638年)」には彼が考案した数学のパラドックスが存在する。まず世界には1,4,9,16,25,36といった平行数がある、と彼は言う。そして、その一方で2,3,4,6,7,8といった平方数ではない数字がある、と彼は言う。
「平方数」は「平方数と平方数でない数字」を足した数より少ない、というのが論理的に正しいはずだ。しかし、全ての数字は平方根・二乗根と成る事が出来る上に、そこから出来た平方根には必ず平方数が存在するはずである。つまり片方がもう片方より大きいという答えは導き出せないのだ。
何を言ってるのかさっぱりわからないわけだが、実はガリレオ・ガリレイ自身もこの問題の答えを出せず、彼は本の中で「何かがもう片方より多い・同じ・少ない、というのは有限の数字にしか適応されない」と締めくくっている。
9. ポテトのパラドックス
ある農夫がポテトを100キロ収穫した。調査の結果、ポテトに含まれる成分は99%が水分であることがわかった。そこでポテトを陽の下で一日干し、ポテトの水分を98%にするように調節した。水分を調節した後、100キロあったはずのポテトは理論上50キロになっていなければならない。それは、なぜだろう?
さて、ここで理解しなければならないのは「100キロのポテトの99%が水なら、100キロの内99キロは水で、内1キロは固体のポテトでなければならない」という事である。
ここで比率について考えるとある問題が生じるのである。当初1:99で「固体:水」の比率で分かれていたが、全てのポテトが干され、全体の98%が水となったのであれば、2:98で「固形:水」で分かれるはずである。しかし、現実問題ポテトの固体は蒸発する事が無く、当初の1キロは維持されなければならないので、比率は「1:49」となるのだ。つまり、ポテトの最終重量は50キロで、その内1キロが固体・49キロが水という事になるってことだそうだ。なるほどわからん。
10.ヘンペルのカラス(カラスのパラドックス)
1940年代中期、ドイツのカール・ヘンペルが提出したこのパラドックスはある一つの文章から始まる。それは 「全てのカラスは黒い」というものである。ここで対偶論法を用いると、「黒くない物はカラスではない」。という結論が導き出される。
ちなみに対偶論法というのは、「AならばBであるとすれば、BでないものはAではない」という理論で、これにより最初の命題の真意を確かめずとも、「BでないものはAではない」という事を証明出来れば、「AならばBである」という命題を証明する事が出来るのである。この問題の場合、Aが「カラス」でBが「黒い」である。
さて、我々は全てのカラスは黒いという事を知っているので(アルビノなどの例外を除く)、最初の命題は正しいという事になる。同じように「黒くないものはカラスではない」ので、世界中の「黒くなく、カラスでもない」物を見る事によって、世界中のカラスを調べずとも、「全てのカラスは黒い」という命題を対偶論法で正しいと導き出す事が出来るのである。
結果、我々はカラスを「一羽も見る事無く」、ただ「黒くもなく、カラスでもない」ものを見る事で「全てのカラスは黒い」という命題を「正しい」と証明できるのである。
via:mentalfloss
久々に思いっきり頭をフル回転させてみたが、考えれば考えるほどドツボにはまっていったわけで、日頃こんなことばかり考えている哲学者たちっていろいろ凄かったり、おかしかったりするんじゃないかと思うんだ。
というかこれに近い話を子どもの頃ドラえもんで読んだことがあるんだけど、のび太がジャイアンの分のアイスを買うんだけど、ジャイアンがパラドックス的なことをいって結局のび太が損をするわけなんだけど、どう考えてもジャイアンが正しいような気がしてわけわからんかった。誰かこの話覚えてる人いる?
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