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英国王立獣医大学に保管されている歴史的に貴重な獣医学標本(※閲覧注意)

2015年04月29日 | 世界びっくりニュース
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 生物の体とは興味深いもので、皮膚を隔てたその下には、壊れやすい脆弱な美がある。カメラマンのマイケル・フランク氏は、動物における繊細で魅惑的な内部構造に興味を持ち、英ロンドンにある王立獣医大学で行われた歴史的解剖を記録した獣医学標本を撮影している。

 医学的解剖により、様々な疾患に対する新たなるアプローチが可能となる。これらの写真は解剖した動物たちの部位を特殊処理し、ホルマリンで保存したものである。

 「組織と脂肪を囲むもつれを取り除いた時、純粋で繊細な芸術的なものが残されます」。フランク氏は語る。王立獣医大学では、解剖学研究の為様々な動物のホルマリン標本が作られており、これらの標本を公開することで、学生や専門家のみならず、多くの人に獣医学に興味を持ってもらいたいと考えている。

 その一つ一つがまさに神秘的であり、学術的観点とはまた別のインテリジェンスなデザイン性を兼ねそろえている。

1.胎児の猿


2.双子の子豚


3.牛の肺
これは鋳形標本と呼ばれるもので、臓器内に埋没している脈管や気管支腔などに色のついた樹脂を注入したもの。


4.ヤギの胃


5.ワラビ-の子宮


6.ヤギの胃腔


 各標本はホルマリンのビンで保管されることによって、信じられないほど繊細で複雑な構造を維持している。これらのディテールを生かすよう、撮影は、全て黒い背景の上で行い、3台から4台のボウエンス・ストロボを使用した。彼が撮った馬の妊娠中の子宮の写真は最近、「ウェルカム・アウォード・イメージ 2015」を獲得した。

7.妊娠中の牛の子宮


 こういった解剖標本は人々に多くの異なる感情を呼び起こす。構造的の美しさと不気味さ、医学的興味とうしろめたさ、生命力の強さと脆さ。検体となった動物たちに対する感謝の気持ちと、悲しい気持ち。

 だが目をそらしてはいけない。我々は誰かの命と引き換えに生かされているのである。目を背けることなく、謙虚な気持ちで向き合っていかなければ動物たちも報われない。

8.羊膜に包まれた子犬の胎児


9.妊娠中のアカジカの子宮


10.ヤギの肺


11.妊娠早期の猫の子宮


12.牛の子宮


13.牛の脚(左)、馬の脚(中央)、ヤギの注射された精巣(右)


14.牛の心臓


via:dailymail

☆人間の医者より、獣医の方が大変やがな!

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いったいなぜ?世界10の未解決ミステリー

2015年04月27日 | 世界びっくりニュース
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 これまでも何度か特集してきた世界の謎に迫る、未解決ミステリー。今回はYOUTUBE動画で150万回を超えた人気の10のミステリーを見ていこう。既出のものもあるが、なんで?と思わずうなる事件めいたものも存在する。

1. 「ザ・シークレット:宝探し」の12の怪文章


 1982年にアメリカで発売された「ザ・シークレット:宝探し」という本には、12個の写真と12個の怪文章が描かれている。本によると、これはアメリカ合衆国に存在する12個の宝の在り処を示すという。

 この謎を解くには、まず12個の写真を12個の怪文章にそれぞれ関連付け、場所を特定し、その場所を物理的に掘る必要がある。本が発売になって33年経つが、発見されたのは2つだけである。一つ目はシカゴで1984年に発見され、二つ目はクルランドで2004年に発見された。残りの10個は未だに発見されておらず、アメリカのどこかで眠っている。

2. UFO


 こういったリストを作る上でかかせないのがUFOの存在だろう。現在記録されている中で最も有名な目撃情報はノルウェーでの「へスターレン発光現象」だ。この発光現象は同時刻、数百人によって目撃されており19世紀まで目撃情報が多発した。こういった物の説明にはイオン化ダスト、雷の異種、物質爆発等があるが、宇宙人によるものだという推測も勿論存在している。

3. ミシェル・ダイアナ・ミスキャベジ(シェリー・ミスキャベジ)


 シェリー・ミスキャベジは、”サイエントロジー”という新宗教のリーダー、デイビット・ミスキャベジの妻だ。過去数十年間、サイエントロジーのファーストレディーと言われていたシェリーはは、常にデイビットの横に居る所が撮られている。

 しかし、2007年、突如彼女はデイビットの意に反し、自らサイエントロジーの名を使って幾つかの活動を行った。その年の8月、父親の葬式から帰って来たシェリーは忽然と姿を消した。

 サイエントロジーは公式に「彼女は現在でも健康に暮らしているが、表舞台に立つ事は無いだけである」と発表したが、実際彼女が現在どこにいるのかは公にはされておらず、サイエントロジーの重役しか知らない情報となっているようだ。

 記者たちがどんなに質問をしても誰も答えない。2013年に「尋ね人」として警察へも捜索申請が出されたが、直ぐにその捜索届は拒否された。シェリーの行方は8年もの間、謎のままである。

4. シベリアのクレーター(パトムスキーのクレーター)


 1949年、地質学者ヴァディム・コルパコフはシベリアへと研究に向かった。その際、彼は現在「パトムスキーのクレーター」と呼ばれる謎のクレーターを発見した。パトムスキーのクレーターは25階建ての高層ビルほどの高さがあり、当初は火山噴火によるものだと思われたが、その地域の噴火の痕跡は発見されず、過去数百年は噴火が無かったことが判明した。

 その後の研究により、クレーターはおよそ300年前に出来たことが証明された。しかし、そのクレーターが何故出来たのかは謎のままであり、ガスの噴出、隕石の衝突、宇宙船の衝突跡等の説が存在する。

5. ヴォイニッチ手稿


 およそ15世紀に作られたとされる手稿だが、歴史上の表舞台に登場したのは1912年の事となる。発見者はウィルフリッド・マイケル・ヴォイニッチという人物で、手稿の名前もそこからきている。手稿はおよそ240ページで、歴史上どこにも存在しない言語で綴られている。数多くの人々が解読を試みたが、現在もそこに何が書かれているかは謎のままである。

 手稿にはおよそ20から30個のアルファベットが存在しているが、不思議な事にアルファベット2個以下の文字や10個以上の文字が存在しないのである。また、手稿に登場する単語も不思議で、同じ文章の中で3回も同じ単語が登場する事もある。ここで注目しておきたいのが、特定のアルファベットが多用されている点である。こういった不可解さやヨーロッパの言語からあまりにかけ離れている為、この手稿自体が「無意味なのではないか」という説もある。しかし、そうだとした場合、何故この作者はわざわざ240ページもの無意味な文章を書いたのだろうか?そして何故これほどまでに複雑な絵をわざわざ描いたのだろうか?

6. 灯台で忽然と3人の男性が消える


 スコットランドの小さな島の住人はたったの3人だった。この地にある灯台を守るライトハウスキーパーたちである。3人の男性の名は、トーマス・マーシャル、ジェイムス・ダケット、ウィリアム・マッカーサー。

 1900年12月26日、クリスマスの翌日、食料などの物資を運んだ船が島へとやってきた。しかし、そこにいるはずの3人の男性の姿が見当たらない。船の乗員が船の汽笛を鳴らしたり、発光信号を出したがまったく反応は無かった。そこで船員たちは船を降り、島を探索する事にした。

 灯台に入り、らせん階段を上った時、船員たちはある事に気付いた。本来3つあるはずの防水ジャケットの内2つが無くなっているのだ。また、キッチンに行くと、置きっぱなしの料理の皿と倒れた椅子があった。それらの状況から、船員たちは、彼らは急きょ外出しなければならない用事があったのだろうと思った。

 更に探索を進めると、灯台の日誌に奇妙な記録が残されていた。12月12日、トーマス・マーシャルによる記録には、「強い風だ、20年間こんな強風を見たことが無い」、「ジェイムス・ダケット(灯台守リーダー)がとても静かだ・・・」、「ウィリアムが泣いている」。と書かれていた。

 ウィリアム・マッカーサーはスコットランドの元海兵隊で、最も屈強な男性の一人として知られていた男性である。そんな彼を、そこまで怯えさせる出来事とはなんだったのだろうか?

 12月13日の記録には強風が止んでいない事と、彼ら全員が祈っていた事が記されていた。しかし、彼らは新築の灯台で安全に暮らしていたはずだ。何故彼らはそこまで強風に怯えていたのだろうか?

 更に不思議なのは、その地域で強風や台風があったという観測記録が存在しないのだ。むしろ当時の記録によると、12月は非常に穏やかな月であった事が判明している。

 記録は12月15日が最後だった。「嵐が止んだ、海は静かだ。神の恵みだ」と書かれている。だがその後、彼らの消息はまったくわかっていない。最も有力な説は、3人の男性が高波に飲まれて海の底へと沈んでいったと言うものだが、それも釈然としない。謎は深まるばかりである。

7. スパイと思われる謎の女性死体


 1970年、ノルウェー北部でハイカーらが女性の全裸死体を発見した。死体の周りには睡眠薬・アルコール・焼却されたパスポートが散在しており、彼女の指(指紋が確認できない程)はヤスリのようなものでそぎ落とされていた。その後、彼女の物と思われるスーツケースが電車の車内で発見されたが、身元が分かるようなものは完全に取り去されており、暗号化された日記だけが残っていた。

 暗号化された文章を解読したところ、彼女はヨーロッパ全土を幾つもの名前を使っていたという。目撃情報によると彼女はウィッグで変装をしたり、ホテルを渡り歩いたり、幾つもの言語で話していたそうだ。だが、今日にまで、彼女が誰であったかは一切分かっていない。唯一説得力のある説は、彼女がどこかの国のスパイであったか?という事だけである。

8. UVB-76 (ザ・ブザー)


 UVB-76もしくは「The buzzer(ザ・ブザー)」として知られる、ロシアの短波無線放送局のブザー音はおよそ毎分25トーンで同じ音波24時間延々と繰り返し発している。

 少なくともUVB-76は1982年から存在している事が判明しており、ごく稀にロシア語で人の声が聞こえる場合がある。その発信源もロシアである事は判明しているが、この乱数放送がいったい何の為に行われていたのかは謎のままである。

 最も有力な説はこの放送が何らかの軍事的有用性を持っているというものだ。何らかの装置や設備が正常に稼働していることを示すシグナルであるという説もある。ただし、24時間休むことなく延々と流し続けるには相当のエネルギーが必要だっただろう。2010年の6月に止まったそうだが、なぜ止まったのかもわかっていない。(コメント欄によると、この放送は移転後再開されたという)

9. 心肺蘇生法のダミー人形となった女性死体


 1880年、パリの川で謎の女性死体があがった。警察がすぐに引き上げ、検死官に渡し、身元を特定するため、検死官はその顔の石膏型を作った。この石膏型を見た人が何故かその顔を気に入ってしまい、石膏型職人に手渡され、大量生産された。ヨーロッパ全土へと広がった彼女の顔は数十年後、ある玩具メーカーの目に留まり、彼女の顔は心肺蘇生法に使われるダミー人形となり、さらに広まっていき現在へと至る

 もしヨーロッパで心肺蘇生法の授業を受けたことのある人は、130年前の彼女と接吻を交わしている事になるのだ。ちなみに、彼女は当時16歳だったと言われているが、彼女が「誰」だったのかは謎のままである。

10. Cicada 3301(シケイダ3301)


 2012年から毎年1月になると、”3301”と名乗る人たちによる、奇妙な暗号解読パズルゲームがオンライン上に登場する。彼らのシンボルはCicada(セミ)で、このパズルは、数学、文学、隠されたメッセージ、データセキュリティ、哲学などの要素を含む難解なものになっている。

 パズルゲームはネット上だけに留まらず、時にアメリカ合衆国・ポーランド・スペイン・オーストラリア・日本・韓国といった場所にそのヒントが「物理的」に隠されている事もある。3301によると高度な知能を持った人材を欲しているそうだが、その理由は明かされていない。

 CIAやNSAが人材を確保する為に仕掛けた知能テストだという説が有力だ。しかし、現在に至るまで全ての企業や国家機関がcicada 3301との関連性を否定している。更に大きな謎は、パズルを解いたとされる人は今まで一人もおらず、誰一人として名乗りをあげていないのだ。

 ちなみに2014年度のパズルは1月6日に始まっており、2015年度版も探せば見つかるかも知れない。2014年度からcicada 3301のスタートはツイッター上に存在するある文章である。

Top 10 Facts - Unsolved Mysteries [Part 1]


☆10番目は検索して見る価値ありじゃ!

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悪魔が書いた聖書。中世最大の写本「ギガス写本」

2015年04月24日 | 世界びっくりニュース
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 高さ92cm、幅50cm、厚さ22cm、重さ75kg。この巨大な写本は、「ギガス写本」と呼ばれており、現存する中世の写本としては最大のものである。

 13世紀初め、ボヘミア(現在のチェコ)のベネディクト会の修道院で作られたと見られているが、中には悪魔の大きなイラストがあり、その製作にまつわる伝説から「悪魔の聖書」 とも呼ばれている。

 中世期に伝えられていた話によると、この写本を書いたのは修道僧としての誓いを破り監禁された修道僧だという。そこでの厳しい刑罰に耐えるため、修道院を永遠に称え、全ての人類の知識を集めるべく、一晩で本を写本することを誓った。

 しかし真夜中ごろになって誓いを守れそうにないことがわかった。彼は神ではなく堕天使ルシファーに語りかけた。どうか自身の魂と引き換えにこの本を完成させてほしいと。この願いを受け、悪魔は写本を完成させた。修道僧は感謝の意を表すために悪魔の絵を追加したという。



 写本は全体が豪華に装飾されており、元々は320枚の紙が束ねられていたが、一部は後に除去されている。頁を誰がどんな目的で除去したのかは不明だが、それらの頁にはベネディクト会の禁欲的規則が書かれていたと見られている。現在は適度な品質の羊皮紙310枚が束ねられており、子牛の皮を使ったものと見られている。 

 この写本には、ヴルガータ版聖書を含み、他にも様々な歴史的文書が含まれていて、全てラテン語で書かれている。







 この写本は、フルティム近郊のポドラジツェのベネディクト会修道院で、修道僧へルマンが作ったと信じられてきた。その修道院は15世紀に破壊された。写本に記録されている最後の年号は1229年である。その後シトー会の修道院に渡ったが、ブジェヴノフのベネディクト会修道院が買い戻した。1477年から1593年までブロウモフの修道院の図書館に保管されていたが、1594年にプラハに持ち去られ、ルドルフ2世のコレクションの一部となった。

 三十年戦争末期の1648年、そのコレクション全体をスウェーデン軍が戦利品として確保。1649年から2007年までこの写本はストックホルムのスウェーデン王立図書館に保管されていた。ボドラジツェの隣町のフラストの博物館にある模型で、この写本が作られた場所に印がつけてある。







 この写本の完成までにかかった年月は、最近の科学的研究により、20年以上を要したのではと考えられるようになっている。

Codex Gigas - Devil's Bible


☆こんなん、ほんまにあったんや!

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数奇な運命をたどった9人の著名人の遺体の一部

2015年04月22日 | 世界びっくりニュース
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 有名人となってしまったが為に、死後、その遺体が数奇な運命をたどることがある。死んでしまえば何も感じることはないだろうと言ってしまえばそれまでだが、もし自分なら、死後、自分の遺体やその一部がこんな目にあうのはあまり心地よい思いはしないだろう。

 ここでは、本人の知らぬ間に遺体や遺体の一部が思いもよらぬ形で保存されていたり盗まれていたりする9つの例を見ていくことにしよう。

1. 夫の食卓に飾られていたエバ・ペロンの遺体


 エバ・ペロンは、貧しい人たちの生活を改善したり、女性の権利のために戦ったファーストレディとして、祖国アルゼンチンや世界中で有名だ。夫フアン・ペロンの2期目の政権を牽引する副大統領の地位を要請されていたが、健康上の理由から断った。

 1952年にペロンの2度目の大統領就任直後、ガンのため33歳の若さで亡くなった。エバの遺体はすぐにエンバーミングされたが、きちんと埋葬されたのは、その後20年もたってからだった。噂では自由の女神よりも大きな霊廟を建てるために遺体が整えられていた間、ペロン政権が軍のクーデターによって崩壊、フアンはスペインに亡命した。

 まるで蝋人形のようなエバの遺体は、軍によって保管されていたが、彼女が殉教者として崇められるのを恐れた軍は埋葬には慎重だった。エバの墓が巡礼地になってしまう可能性があったからだ。遺体は木製の棺に納められ、ブエノスアイレスじゅうを転々と移動させられた。

 結局、エバの遺体をアルゼンチン国内に置いておくことは危険だという判断が下り、ドイツのボンに運ばれて、そこで埋葬された。さらにイタリアに運ばれ、マリア・マギーという名前で埋葬された。

 1971年、アルゼンチンの新しい軍の指導者、アレハンドロ・ラヌッセ将軍が亡命したペロンと協定を結び、ペロンが軍事政権を承認する代わりにエバの遺体を返すことに決着がついた。ペロンと2度目の妻イザベルは、自宅にエバの棺を安置し、しばしば食卓にそなえたという。イザベルは毎日遺体の髪を梳かしてケアし、フアンの要請で、遺体のそばに身を横たえて、エバの政治手腕のパワーを吸収しようとした。

 1973年、フアンはアルゼンチンの大統領に返り咲いたが、わずか1年後に亡くなり、イザベルが政権を引き継いだ。その後、エバはブエノスアイレスのレコレッタ墓地にやっと安住の地を見い出した。エンバーミングされた彼女の遺体は、核爆弾にも耐えられる鋼鉄の保管庫に安置されているという。

2. 博物館に展示されているラスプーチンの巨大な男性器


 かつてロシアのロマノフ家を陰で操り、皇帝の妻の愛人でもあった、グレゴリー・ラスプーチンはかなり大きなペニスをもつ好色漢だったらしい。

 1916年のラスプーチンの死後、どのようにして彼の男性器が切り取られたのかについてはふたつの説がある。ラスプーチンが暗殺者たちに殺された後、現場を掃除したメイドが切り取られた男根を見つけ、保管していたという説。もうひとつは、ラスプーチンの女友だちのひとりが解剖の後で記念品として持ち帰ったという説だ。

 後にわかったことだが、ラスプーチンの男性器は、本体を離れて以来、波乱万丈の運命をたどった。初めて歴史の舞台に現れたのは1920年代のパリ。女性たちの集団が彼の生殖能力の象徴である男性器を崇めていたと言われている。同じ頃、ラスプーチンの娘マリーがペニスを返すよう求めている。ロシアのエロチカミュージアム(2004年サンクトペテルスブルグでオープン)が、この問題の男性器獲得に声を上げていた。館長のイゴール・クンヤズキンによると、フランス人アンティーク蒐集家から8000ドルで購入したとのことだが、実際にラスプーチン本人のものであるかは確認されていない。

 博物館に展示されている男性器は長さ28センチだが、マリーによると父親のペニスは33センチ(!)だったとのこと。専門家は博物館のものは馬かウシのものではないかと考えている。

3. ブランデーで保存されたホレーショ・ネルソン提督の遺体


 イギリスで国民的英雄のひとりとして崇拝されているホレーショ・ネルソン提督の死からは、人体組織の保全について重要な教訓が見えてくる。ネルソン提督は、ナポレオン戦争中のトラファルガーの海戦で、1805年10月21日、銃撃を受けて最期を迎えた。この愛すべき司令官の国葬が行われることが予想されたため、ネルソンの船に乗船していた軍医のウィリアム・ベイティは、ネルソンの遺体を通例のように水葬にせず、イギリス本国に戻るまで保存しておくことに決めた。

 ネルソンは戦闘で死ぬ覚悟を決めていたため、彼の旗艦船ヴィクトリー号には、ナイルの戦いでフランス艦船を破ったときのマストで作った棺が用意されていた。そして、イギリスまでの長旅の間、ネルソンの遺体を保存するためにフランスのブランデーに漬けた(ラム酒だったという説もある)。さらに、ジブラルタル海峡で、さらにブランデーを満たしたもっと大きな棺桶に棺ごとつけた。

 ネルソンの遺体がロンドンに着いたとき、棺桶を開けるとブランデーは一滴も残っていなかったという。ブランデー漬けの遺体を取り除いて調べると、棺の底に穴が開いていて、船員たちによってブランデーが飲み干されていたことがわかった。この一件が、ブランデーのことをさすのにネルソンの血という言葉の語源になった(ほかの有名人の遺体説、その他さまざまな説あり)。公式な記録では詳しいことはふれていない。盛大な国葬が行われ、ネルソンはセント・ポール大聖堂の中央にあるグレイトドームの真下に埋葬されている。

4. モーツァルトの頭骸骨に関するミステリー


 1902年、オーストリアのザルツブルグにあるモーツァルトテウム財団は、下顎が失われているモーツァルトの頭蓋骨なるものを手に入れた。1791年に35歳で死んだモーツァルトはウィーンの共同墓地に葬られ、墓堀人だったヨゼフ・ロスマイヤーがその頭蓋骨を引き取ったと1801年の記録にはある。

 モーツァルトは貧困者用の共同墓地に投げ込まれたと言われているが、当時としては平均的な中級クラスの扱いだった4~5人用の墓に埋葬されていた。言い伝えによれば、墓堀人は頭蓋骨にワイヤをつけて、どの遺体がモーツァルトのものかわかるようにしておいて、10年待って頭蓋骨を回収したと言うが、信憑性は薄い。

 その後、頭蓋骨はさまざまな人物の手に渡った。教会の用務係、解剖学者ヒルトルの骨相学コレクション(モーツァルトの頭蓋骨を除いて、のちにムター博物館の頭骸骨コレクションの一部になった)、果ては1902年にモーツァルトテウム財団の所有するところとなった。

 2006年、頭蓋骨を入手してから104年後、モーツァルトテウム財団は頭蓋骨を調べ、本当に天才作曲家のものなのかを証明しようと計画した。モーツァルトの血縁者である母方の祖母と姪のものだといわれている大腿骨からDNAをとって比較してみたのだが、結果はモーツァルトの血縁者と頭蓋骨はなんの関係もないことがわかっただけだった。

 しかし、祖母と姪と言われていた遺体も互いに関係がないことがわかり、否定も肯定もできずに決着のつかない結論となった。だが、この頭蓋骨は強力な証拠で、これが本当にモーツァルトのものか否かについて活発な議論のきっかけになり、彼の晩年の頭痛や早すぎる死の説明になるかもしれない。今は結局、憶測でしかなく、モーツァルトの頭蓋骨の謎は当分の間は未解決のままだろう。

5. 葬儀のために偽装されたヴォルテールの遺体


 「わたしはあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」。フランスの新共和党派の輝く知性であるヴォルテールは、とても論争好きだったため、18世紀に教会を非難した人物として、自分が死んだ後、遺骨がゴミのように捨てられてしまう可能性を恐れていた。

 ヴォルテールが病に倒れたとき、密かに計画が練られた。死後は、立派な服を着せて体をまっすぐに支え、まるで生きているように見せかけて、スイス国境近くの家族の地所まで誰にも邪魔されずに、星をちりばめた馬車で遺体を運ぶというものだ。しかし、この計画はヴォルテールの甥によって変更された。彼はヴォルテールの遺体を裸にして解剖にかけ、心臓と脳を取り出して、フランスの修道院に送ったのだ。

 ヴォルテールの遺体がパリに戻ってきて、パンテオンに安置されたのは何年もたってからのことだった。今日もヴォルテールはまだそこに安置されていると信じられているが、王党派がパンテオンに忍び込んで、彼の骨をゴミとして捨てたという噂もある。こうした噂話に決着をつけるために、1897年に墓があばかれ、遺体はほとんど損なわれていないことが確認された。

6. 互いに向き合った格好でミュージアムに展示されているシャム双生児


 有名な一卵性双生児のチャン&エン・ブンカー兄弟は、胸の部分が小さな軟骨で結合している。今日の技術ならば、簡単に分離することができるが、19世紀の医学ではそのようなことは不可能だった。

 見世物として世界中を旅したのち、チャンとエンは普通の生活を求めた。アメリカ国籍を取得し、北カリフォルニアの農園に落ち着ついて奴隷を買い、1840年代初頭にそれぞれ姉妹と結婚した。チャンは10人、エンは11人の父親になった。

 1874年1月、チャンが肺炎に苦しんだあげく、睡眠中に急死し、その3時間後にエンも亡くなった。医者は最初、エンは突然のことでショック死したのかと思ったが、よくよく調べたところ、ふたりは動脈と血管を共有していたことがわかった。エンは血流が失われたために死んだのかもしれない。

 ふたりの死が確認できると、遺体はフィラデルフィアの医師のところに送られ、解剖にかけられ、念入りに調べられて写真を撮られた。その結果、ふたりは肝臓も共有していたことがわかった。現在、ふたりの体は互いに向き合う格好で、医学標本としてフィラデルフィアのムター博物館に展示されている。伝説的なチャンとエンは、シャム双生児の語源ともなったのだ。

7. 処刑を命じた夫によって保存されていたアン・ブーリンの心臓


 ヘンリー八世は、最初の妻を離婚して、聡明で洗練されたアン・ブーリンと結婚するために、イングランドをカトリックから決別させた。しかし、どうしても男の跡継ぎが欲しかったヘンリーは、アンが女児しか産まず、何度も流産を重ねたため、この結婚は呪われていると考えるようになった。挙句の果ては、アンを姦通罪のかどで逮捕したのだ。

 1536年、アンはロンドン塔で首をはねられ処刑された。伝説では、処刑の命を下したヘンリーがアンの心臓を取り出し、ハート型の容器におさめてサフォークの教会の小部屋に隠したという。1836年に再び発見され、教会のオルガンの下に埋葬された。

8. 医者のオフィスに保管されていたアインシュタインの脳


 1955年4月17日、偉大な天才科学者であるアルベルト・アインシュタインは、胸の痛みを訴え、プリンストン病院で検査を受けたが、翌朝、腹部大動脈瘤破裂で帰らぬ人となった。享年76歳。しかし、とんでもないことが起こった。世界一の知性の源であるアインシュタインの脳が盗まれたのだ。

 4月18日の早朝、プリンストン病院の病理学者トーマス・シュトルツ・ハーベイ医師が、アインシュタインの臨終に付き添っていた。本人は許可を得たと言っているが、勝手に解剖を始め、死因を特定してから、アインシュタインの脳を切除して測定したり、重さを測ったりした。だが、今日に至るまで、解剖を許可した書類や記録は残っていない。

 ハーベイは脳をホルマリンのビンに入れ、さらにアインシュタインの目も摘出して、眼科担当医だったヘンリー・アダムズに送った(眼球はニューヨークシティのどこかの貸金庫の中に保管されているという噂がある)。そして残った遺体を返して火葬にしたという。脳と目の摘出は、アインシュタインの遺言に反している。彼は全身を火葬にして、崇拝者が騒がないよう、灰を秘密裏にまいてもらうことを希望していた。故人の意に反した解剖をしただけでなく、ハーベイには法的にも医学的にも脳を保存しておく権利はなかった。

 最終的に、アインシュタインの心臓を科学の研究のために慎重に活用することと、発見したことを正統な科学雑誌で発表することを条件に、ハーベイはアインシュタインの息子ハンス・アルベルトから脳の所有の許可を与えられた。4月20日にニューヨークタイムズにアインシュタインの訃報が出たとき、息子から許可を得てドクター・ハーベイが解剖を行ったとあったが、後から許可が出たことにはふれていない。

 ハーベイは、プリンストン病院を解雇されるまで、脳をビンに入れて自分のオフィスに保管していた。その後、彼は脳とともにペンシルバニア大学へ移り、脳組織を多数のスライスやブロックに切り刻んで、サンプルとしてあちこちに配った。自分ではホルマリン漬けのビン2つだけをとっておいたという。

 ハーベイは2007年に死んだが、亡くなる前にアインシュタインの脳を、50年以上前に事件の発端となったプリンストン病院に寄贈している。再び世間の関心が集まり、脳のスライスを受け取っていた研究者たちは、プリンストン病院やペンシルバニア大学にそれを返した。今日、ハーベイの手書きのメモなどと一緒に、アインシュタインの脳の数片を見ることができるのは、フィラデルフィアにあるムター博物館だけだ。

9. 300年後に再びお目見えしたガリレオの盗まれた指


 2009年、イタリアの天文学者ガリレオの指2本が、最後に確認されてから300年ぶりに発見された。オークションで個人によって落札されたものだが、いったいこれはなんなのか、疑問を抱いた当人がフィレンツェの科学史博物館に持ち込んだことがきっかけだった。

 ガリレオの遺体が一時的な墓から、最終的な墓地へと移されたときに、3本の指が切り取られたのが1737年3月。下顎に残っていたラスト1本の歯も取り除かれ、2本の指とともにガラスビンの中に封印されたが、1905年以降、行方がわからなくなっていた。オークションにかけられたビンの特徴は、そのガラスビンと細かいところまで一致していたが、中身を示したラベルはなくなっていたため、売り手も競売人もこれがそれほど重要なものとは気がつかなかった。

 3本目の指については、科学史博物館が1927年から所有していたため、初めて3本の指がそろったことになる。切り取られた指はいつもガリレオがペンを持っていた指だったという。

via:oddee

☆ご冥福を、お祈りいたします!

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「そんな生物いるわけない」。かつて存在自体が否定された7つの生物

2015年04月20日 | 世界びっくりニュース
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 科学の進歩の歴史の裏には必ず嘘とデタラメが存在していた。時に人々は空想上の生物を作り上げて、科学界を翻弄させることもあった。しかし、こういった「ウソだ」と思われていた生命体が「実は存在していた」という出来事がごくまれに存在するのだ。

 ここで紹介するのはそういった「ウソ」だと思われていたが、後に存在が証明された」7つの生物である。

1. カモノハシ


 1798年にオーストラリアから英国へとカモノハシが送られた時、多くの科学者がこれを剥製師による加工品であると信じて疑わなかった。その時、カモノハシの毛皮や剥製は、鴨の口ばしとビーバーの身体を合わせた物だと思っていたのだ。ロバート・ノックス医師はこの偽物の正体を暴こうとして、持って来られたカモノハシの毛皮を丁寧に切り、縫い目等を探したが、そういった証拠は一切見つからなかった。その後多くのカモノハシのが皮を剥がれ、解剖されることにより、カモノハシの存在は立証される事となった。

2. フキナガシフウチョウ


 その美しさから存在そのものが疑われた生物である。ニューギニア島で発見されたフキナガシフウチョウが初めて歴史上の表舞台に登場したのは19世紀、とあるヨーロッパの博物館である。

 「ドレスデン・ミュージアム」の館長がイギリスの鳥類学者リチャード・ボウデル・シャープに訊ねたところ、シャープは「このような鳥が自然界に存在するなどあり得ない」と断言した。カモノハシの件と同様に、彼もまたフキナガシフウチョウは名のある剥製師による偽装だと思っていたようである。しかし、その後しっかりとしたフキナガシフウチョウの生きたサンプルが彼の下に届けられ、自然界が作り出す美しさが証明されたのである。

3. オカピ


 ヨーロッパやアメリカの自然学者にとってオカピの存在はあり得ない物で、時として幻獣として扱われていた。しかし19世紀の段階でヘンリー・モートン・スタンリーにより「ロバのようで、シマウマのような模様を持つ生物」の情報がヨーロッパの人々に届けられたのだ。

 20世紀、ロンドン動物学会の会長であるP.L.スクレーター博士は2つの動物の皮を紹介した。この皮は兵士によってはぎ取られたもので、キリンやシマウマに近い動物である事はわかっていたが、断定には至らなかった。

 しかしこのような珍しい動物が人目を逃れ続ける事は出来ない。その翌年、直ぐにオカピが発見され、ハリー・ジョンソンがロンドンに向けてオカピの完全な死体を送り届けることとなる。

4. ペリカン


 分類学の父「カール・フォン・リンネ」は自身が執筆した「自然の体系」において、ある動物についてとても懐疑的であった。それはペリカンである。

 リンネがペリカンについて懐疑的だったのは、その姿を目撃したという航海士の話が非常にウソ臭く感じたからである。航海士が言うには「ペリカンの親は、子供に自らの血を飲ませる為、自傷行為を行う」というのだ。勿論これは大嘘で、恐らく噂話に尾ひれがついて出来上がってしまったものだろう。しかしながら、この目撃情報のあやふやさのせいでペリカンは今でも「自然の体系」の中の「動物のパラドクス」の項に属しているのだ。

5. 微生物


 顕微鏡のない17世紀以前、微生物は存在自体がありえなかった。1676年、微生物学の父として知られている「アントニ・ファン・レーウェンフック」が「アニマルキュル」という顕微鏡でしか見る事の出来ない生命体の存在を提唱した時、ロンドン王立協会はまったくこれを信じていなかった。その為、ロンドン王立協会はこの微生物をより多くの人に検証して貰う為、アントニ・ファン・レーウェンフックに「より多くの目撃証言を持ってくるよう」求めた。最終的に微生物の存在は認められ、現在に至るのである。

6. ハエトリグサ


 自然主義者のシー・モントゴメリーは著書の中で「18世紀中期、ハエトリグサが初めてヨーロッパで発表された時、多くの人間が偽物だと疑った」と語っている。ハエトリグサのような「植物」が、虫の動きを感知し、それを食べてしまう等というのは当時あり得ないと考えられていたのだ。

 ハエトリグサが詳しい文章で初めて説明された文献は、1759年、ノースカロライナ州知事アーサー・ドプスによるものだ。

7. マリー・アニングのプレシオサウルスのスケッチ


 1823年、古生物学者マリー・アニングは、完全なプレシオサウルスの化石を発見した。しかし当時、その存在を疑う者が非常に多かった。解剖学者であり、古生物学者でもあるジョルジュ・キュビエはマリー・アニングを偉大な古生物学者であると尊敬の意を送った上で、「プレシオサウルスの首の長さと全体の比率があり得ない」と発見を否定し、首は「いくつもの動物の骨を組み合わせて作られた物なのではないか?」と懐疑的であった。

 古生物学者のウィリアム・バックランド、マリー・モーランド、ウィリアム・コニーベー等との話し合いの下、キュビエはプレシオサウルスの存在を認め、マリー・アニングの発見が真実であるとお墨付きを送った。

via:io9

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