友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

大学時代の同級生

2010年03月09日 22時08分29秒 | Weblog
 大学時代の同級生に会ってきた。40年ぶりだと思う。彼女は私の席の前の人で、かなりナイーブな女の子だった。最初に会ったのは大学の入学式で、私は田舎の高校を卒業した時だから、頭は丸坊主で学生服を着ていた。彼女は都会の優秀な高校の卒業生で、絵は抜群にうまかった。写実だけならうまい子はたくさんいたけれど、彼女の絵には歌があった。不思議な雰囲気が漂っていた。写実にこだわっていた私にはとても及ばないものを持っていた。席順が前後というだけではなく、ものの捉え方や考え方あるいは感性が似ていたのか、卒業するまで一緒にいることが多かったように思う。

 彼女の神経は細やかで鋭かったし、感情も激しいものがあった。私も、教育実習先の先輩から「まるでカミソリのような神経だ」と言われたことがあったから、互いの感性に賞賛と敬意と驚異を抱いていたのだと思う。私は芸術家になりたかったけれど、彼女のような才能はないと思っていた。きっと、彼女は絵描きとして達成していくのだろうと信じていた。卒業してもしばらくは年賀状のやり取りがあったが、そのうちに音信不通になってしまった。結婚したと聞いたけれど、彼女のことだから絵描きの道は諦めずに進んだのだろう。そう漠然と思っていた。

 それが先日、高校の同窓会があるからと出かけていったカミさんが、彼女が「展覧会をやっているのよ」と教えてくれた。彼女とカミさんは同じ高校の卒業生で、その時、彼女から展覧会の案内をもらってきたのだ。展覧会の会場に着いて、一目で分かった。「お互いにこの歳までよく生きてこられたね」と言う。顔は大学時代よりもふっくらして、髪は白く、昔のようにギラギラした感じは無くなり、普通のおばさん、いやもうおばあさんになっていた。老けた年寄りになったのはお互い様だった。

 「てっきり絵を描いていると思っていた」と私が言うと、「うつで、学校も休職していた時に、粘土でもやったらと言われて、触っているうちにこんなにたくさんの土鈴が出来たの。それで縁があってこうして展示することになったのよ」と言う。そうか、やはりいろんなことがあったのだね。「実は、まだ、何も話していないけれど、そろそろボクも絵を描こうかなと思っている。出来れば一緒に展覧会をやりたいね」。そんなことを思った。「若い頃は絵を描くことが苦痛だった」と彼女は言う。私も同様で、どうしても気負いがあった。いい絵を描いて驚かせたいと思っていたのだ。

 今、この歳になってみれば、もうどうだっていい。好きなものを好きなように描くことが出来るようになってきてもいいはずだと思う。そう開き直りながら、まだ裸になれない自分がいる。よし、小学校5年の時に、自分の性格を変えようと決意したように、もう一度、今度は裸の自分になろうと思う。それを何時からにしようか、来月の誕生日の66歳からか、もう少し延ばして70歳からか。馬鹿なことを真剣に考えている。
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世界最大の映画の祭典

2010年03月08日 22時41分26秒 | Weblog
 世界最大の映画の祭典、アカデミー賞が発表された。大方の予想を裏切って『ハート・ロッカー』が『アバター』を破って受賞した。『アバター』の監督と『ハート・ロッカー』の監督が夫婦だったというのも面白いし、『アバター』と『ハート・ロッカー』とでは制作費もその売り上げも大きな開きがある。それくらい、『アバター』は注目された作品であったのに、アメリカ人は時々面白いことをするなあと思った。

 私は映画を観ていないからテレビや書物での事前の紹介とか評判でしか知らないが、3Dなどには興味がないので扱っている内容に関心がいってしまう。どちらも反戦が底に流れているように言われているけれど、『アバター』は娯楽性が高く、『ハート・ロッカー』は時事問題性が高いそうなので、『ハート・ロッカー』の方により関心が向く。

 これはどこかのテレビでやっていたけれど、両監督は背が180センチ以上もあり、共に「強い人」が好きだと言われていた。『ハート・ロッカー』の女性監督は脚本を見て、これは凄いと思ったそうで、すぐに元夫に相談した。すると、元夫はこの作品はあなたが作るべきだと奨励した。そんなことも紹介していた。なかなか意気の合った夫婦ではないかと思うけれど、共に「強い人」が好きということが、生活できない原因だったのだろうか。そんな馬鹿げたことを想像しながらテレビニュースを見ていた。すると、アカデミー賞のドキュメンタリー部門で日本のイルカ漁を扱ったものが賞を得たと報じていた。イルカ漁を行なっている和歌山県の漁港では「日本の伝統」に対する無理解であると断じていた。

 南極での捕鯨で日本は非難を受けているけれど、イルカ漁も同じ根っこなのだろう。イルカやクジラをペットのような気持ちで可愛がっている人々には、捕まえて肉を食べてしまうことが残虐に映るのだろう。私は自分がクジラやイルカを食べないし、世界の全ての人々が反対しているとは思わないけれど、少なくとも反対している人が少数でもいるのだから、イルカやクジラを捕らえるのをやめればいいと思っている。やめたならば生活できないとか日本の国が成り立っていかないというほどのことではないだろう。「日本の伝統」ではあっても、それがよその国の人に不愉快であるなら、その伝統を破棄してもよいのではないだろうか。

 私は映画が好きだ。娯楽性の高いものに全く関心がないわけではないけれど、観たいというものはどちらか言えば物語に興味がある。たとえば、『抱擁のかけら』とか『シャネル&ストラヴィンスキー』『50歳の恋愛白書』を観たいと思うし、『サヨナライツカ』で中山美穂は何をどう演じるのだろうと思う。これらの映画は上映劇場が限られているし、上映期間も短いので見たいと思っていてもやっていないことが多い。昔ならば、名古屋で上映した後、さらに地方の映画館で上映していたので、新聞で探してどこかで見ることができた。

 名作といわれる映画を上映する映画館が少なくなった。
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中学最後の授業

2010年03月07日 14時20分00秒 | Weblog
 2日間もサボってしまった。確かに金曜日は忙しかったけれど、昨日などはそれほどでもなかったのに。パソコンの前に座っていれば出来るけれど、そういうゆとりと気持ちがない時は書けない。テーマがなかなか見つからないこともあるが、それよりも虚脱感の方が近い。家族で出かけることを楽しみにしている子どもが、その日は都合がつかないからダメと言われた時のような失望感だ。追い討ちをかけるように、ガミガミと声が降り注がれてきて、何もかもが虚しくなってしまった。

 アホクサ!そんな時に孫娘が最後の授業の様子を話してくれた。中学3年の孫娘の担任は体育大会の後、体調不良で学校へ来られない日々が続いた。代わり(?)が音楽の先生で、孫娘は「卒業生を送る会」で歌う歌の作曲に義理の父となった長女のダンナを推挙した。彼は本当にいい曲を創ったと思うけれど、実際に演奏された曲は彼の意図したものではなかった。間に入って、孫娘もかなり悩んだようで、これまでのピアノのコンテストでもこの音楽の先生からきつい言葉をかけられたこともあって、嫌っていた。

 そんないろんな経過があった3年生の1年だったが、その最後の日に、担任が最初に発した言葉は、「ごめん!」だった。「これから進路を決める一番大事な時に、みんなの相談にのれなかった。教師になって、初めて卒業生の担任になりながら、その務めが出来ず、ふがいない担任であった。本当に申し訳なかった」と言葉を詰まらせた。いつも悪ふざけをする男の子たちが、グッと涙をこらえて身体を震わせていた。女の子の中にはすすり泣く子もいた。音楽の先生も一緒に泣いた。見る見るうちにクラスが心一つになった。

 いろんなことがあったようだ。うるさくてまとまりがないと言われ続けたクラスだったけれど、最後に心が一つになれてよかったと孫娘は言う。聞いている私の方に涙が溢れてきた。副級長は小学校から一緒の男の子で、背は私よりも高いし、体重も私より重いであろう大柄な野球部の選手だが、その子が孫娘に「いろいろあったな。高校に行っても活躍しろよ」と声をかけてくれたそうだ。「いいじゃん。やっぱり、パパちゃんはあいつが好きだな。大人になったらお嫁さんにしてもらったら」とまた、言ってしまった。孫娘には彼のようなおっとりとした包容力のあるタイプがいいと、さかんにけしかけているのだが、未だに恋は実らない。

 孫娘は「卒業したらすぐに、クラス会を開くんだって。ちょっと早くない?」と聞く。そういえば、私たちも中学卒業したすぐの4月にクラス会を開いた。あれから50年か、半世紀も経っている。今年は中学校もそして小学校もクラス会の開催年だ。昨日、カミさんは高校の同窓会に参加した話を盛んに話してくれた。やはり第一の話題は、ノーベル賞を受賞した同級生を誇りに思うということのようだ。自分のことではないのに、なんとなく鼻が高い気がするのもよくわかる。

 「あなたのこと、どうしているって聞かれたわよ」とカミさんは言う。高校が違うのに、私のことを知っているという女性は誰なのだろう。大学で一緒だった友人が個展を開いていることも分かったから、早速行ってみたいと思った。昔を懐かしむのはやはり年老いた証拠か。
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選挙で私が出来ることは

2010年03月04日 22時10分02秒 | Weblog
 「あなたは甘い!」。そう何度言われたことか。これまでの自分の人生で、一番よく私に投げかけられた言葉だと思う。私は、組織もなく、金もなく、社会的な地位もなく、選挙をしてきた。集まってくれた人たちも少数で自然発生的が常だったので、組織図のような系統だったものはなかった。みんなでワイワイガヤガヤやっているうちに、選挙は終わってしまった。それでイヤになった人もいたと思う。

 今日も「もっと、危機感を持ってやって欲しい。のんびり構えすぎている」と言われてしまった。どうも私がやってきた選挙とは違うなと思う。私は応援してくれる人にあれをして、これをしてと強制したことがない。だんだんとそのうちに応援してくれる人たちが増え、それぞれが自分のできることをやっていく、そうした自然発生的な運動しかしてこなかった。「だから、勝てなかったんでしょう」と、痛烈な言葉が返ってきたけれど、確かにその通りだろう。もっと、組織立って、強引なくらい応援者に指示し、何が何でも勝たなければならないという気迫が必要なんだろうとは思う。

 けれども、私はそれが出来ない。私の選挙に協力してくれた人の中にも、もっと強力な指示が欲しかったと思っている人も大勢いたのかもしれない。生ぬるいと言われたこともあるから、きっとそうなのだろう。協力してくれた人々がそれこそ自然発生的にいろいろな戦術を考え、実行していってくれたので、私はそれでヨシとしてきた。候補者である自分が誰よりも汗を流し、血を流す以外には選挙は勝てないと思ってきた。候補者を支え、盛り上げてくれるのが応援者であり、そういう人たちの熱い気持ちがなければ、運動になっていかない。

 応援者の自然発生的な取り組みが次第に大きくなってくれば勝利するし、そうならなければ勝てない。なるか、ならないかは運動の持っていき方であるが、根本は候補者の人柄だろう。この人のためには何が何でもやってあげたいという気持ちになれるか否かだ。だから選挙は難しいし、人の関係がややこやしくなる。「本気になってやっていない」「いや、やっている」などと言い合っても、気分こそ悪くなるだけで、決して前に進まないだろう。

 さてさて、どうするか。私がやってきたような選挙のやり方はここでは通用しないけれど、だからと言って応援者にどれほどの強制が出来るのか、私には見当もつかない。私が出来る範囲での協力が出来ても、人になぜ出来ないのだと問い詰めることは出来ない。「よろしくお願いします」と頭は下げるけれど、あれをして、これをやってとは言えない。何をしたらよいかと求められれば、ぜひやって欲しいことをお願いする、そういう選挙しか私には出来そうにない。

 候補者が考えている政策を市民に伝えることが第1にやることで、候補者の中から選んでもらえるようにすることが第2にやることだと思っている。それを効率よく実現するためには応援者の働きが不可欠ではあるが‥。
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『卒業生を送る会』での合唱

2010年03月03日 23時04分33秒 | Weblog
 次女夫婦がバンコクから帰国した。昨夜は、長女夫婦も呼んで、我が家で帰国のお祝いを行なった。そして孫娘の卒業に当たり、『卒業生を送る会』で長女のダンナが作曲し、孫娘がピアノ伴奏を行なった合唱をみんなで聴くことにした。次女のダンナは長いタイ暮らしですっかり、日焼けしていた。もちろん、次女も同様に日焼けしており、昔の白豚さんとは似ても似つかないほどだが、ダンナの日焼け具合は数倍それを上回っていた。

 その理由がまた彼らしくていいなと思った。せっかくタイに赴任していたのに中途半端では誰も注目しない、ここは相手の度肝を抜くほどにやらなくては意味がないというのである。なるほどなと思ったけれど、さらにオチがあって、東京の居酒屋で友だちと飲んでいたところ、ヤンマーの人が「あなたはタイのどこから来たのか?」と尋ねてきたそうだ。そこで彼はタイ語で「私は日本人だ」と答えたと言う。ユーモアのセンスも面白いが、間違えるのも無理も思った。

 ところで、『卒業生を送る会』だが、先生方による寸劇も行なわれ、ビデオで見る私たちにはちょっとピーンと来なかったけれど、子どもたちには大爆笑で迎えられていた。先生たちの寸劇は高校生になるとはどんなことか、面白おかしく描いたもののようだった。それにしても、忙しい合間を縫ってよくまあ、演劇まで見せてくれたものだと思う。きっと、子どもたちはそのことを忘れないであろう。

 それで合唱の方はどうだったのか、私はとても気になった。長女のダンナに出かける前に、「しっかりビデオを撮ってきてね」と頼んだが、その時、彼は「自分の曲ではないような仕上がりで、ガッカリしています」と話してくれたけれど、その時点ではまだ、「ちょっと手直しされてしまって」という程度くらいにしか、思っていなかった。ところが、実際の合唱を聞いて耳を疑った。全然違うではないか!これでは彼が怒るのは無理もない。私なら、「バカにするな」と怒鳴り込んで行きたい気分だ。

 確かに彼の作った曲はラップ調だから、今の学校教育の中では受け入れられないかもしれないなとは危惧していた。次女は学校で働いていたから、「無理だろう」ことは重々承知し、理解できるので、何とか彼を慰めようとしていた。私もそれはわかる。けれども、こんな理不尽なことは絶対に許されない。「なんと馬鹿な校長か」と校長の名を呼び捨てにして怒りまくっていたら、「そういうパパこそ見っとも無い。子どもの前で、校長の名を呼び捨てにするなんて最低!」と次女に非難されてしまった。

 確かに、余りにも頭に来ることだとしても品がなかった。それでも、長女のダンナの無念を思うと思いっきり悪態を尽きたい気持ちだ。そうでもしなければ、彼がやりきれないだろう。みんなが寄ってたかって常識的なことを言って慰めたとしても、彼の傷ついた心を癒すことにはならないはずだ。実際、公募しておきながら、応募者の意図を踏みにじるようなことがどうして許されるのか。音楽の担当者が編曲するとしても、これほどの編曲は編曲とは言えないだろう。それならば、せっかく応募していただいたのに採用できませんと謝罪をすべきではないか。校長ならそれくらい責任を果すべきだろう。
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こんばんは

2010年03月02日 21時49分50秒 | Weblog
次女夫婦がバンコクから帰国しました。それで、今日はお休みします。
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バンクーバーの思い出

2010年03月01日 21時12分22秒 | Weblog
 早いですね。もう、3月になってしまった。それに暖かい日が続いています。以前は、ひな祭りの頃はまだまだ寒いと思っていたが、今年は2月下旬から4月か5月並みの陽気となってしまい、このままどうなってしまうのかと心配にさえなります。テレビではバンクーバー・オリンピックの閉会式を放映していた。バンクーバーも今年は雪不足だったようです。50歳の時に、友人家族と一緒にバンクーバーで何泊かしたことがあるが、緯度の割には本当に暖かなところでした。摩天楼から眺めた街の様子が思い出されます。

 魚市場で魚介類を買い求め、それを部屋に持ち帰って、大学の先生である友人が料理してくれました。大きな蟹もあったし、生の牡蠣にレモンをかけたものなど、本当に美味しかった。もちろん白ワインもうまかった。会社が借りている部屋に泊まったけれど、全面ガラス張りで、眼下にバンクーバーの町並みが見えた。水族館ではシャチのショーも見た。私たちが出かけたのは12月だったけれど、雪は全く見なかった。とてもきれいな街という印象が強い。

 バンクーバーで寿司屋へ連れて行ってもらった。ここの店の寿司は絶品だった。ネタは新鮮だったし、寿司飯はカリフォルニア米でこれはうまかった。働いていたのは日本人の女子大生のようだったので、「あなたは日本の人?」と聞いてみたけれど、全て英語で答えが返ってきた。後で聞くところでは、お客と話す時は英語しかダメと言われているようだ。とにかく、バンクーバーには東洋人が多い。中でも中国人が一番多いのではないだろうか。私たちが空港に着いた時も、たくさんの中国人と一緒だった。

 テレビと言えば、年越し村の村長で名を上げた湯浅誠さんの取り組みがNHKで放映されていた。内閣府参与を与えられ、失業者の救済に駆けずり回ったけれど、権力を使っても解決できないジレンマを映し出していた。正確に言えば、権力を使って何が何でもやってしまえば出来ないことはないのかもしれない。今は絶対的な権力は存在しないし、それを私は良いことだと思っている。思うようにならなければさらに強い力で押さえ込もうとすれば解決できるのかも知れないが、それでは本当に解決できたとは言えないだろう。

 湯浅さんがどんなに駈けずり回っても、役人たちはこれまでのやり方で接してくる。なかなか役人がこぞって湯浅さんを受け入れるところには至らない。民主党政権の危うさでもあるけれど、同時に人はすぐには変わらないことの象徴でもあるように見えた。失業者を救済しなければならないという点では一致できても、具体的にどうするかということになると、出来れば自分のところに面倒はゴメンだという意識が働いてしまう。役所はどこも一緒だなあと思う企画だった。

 根本的には失業者が出なければよいわけだが、おそらく今日の社会構造が続く限り失業する人は出るだろう。湯浅さんも言っていたけれど、「次に働く場所が見つかれば、人は希望を抱いて生きていける。けれども、働く場所もなく、身体を休める場所もない、こんなことが続けばもう働く気力さえ失っていく。それは重大なことだ」と。昔のように、農業で生活していけば、最低限の暮らしは保障できるのではないだろうか。確かに今日のように、社会が複雑になってきて、働き方も色々になると、働くことからこぼれてしまう人が生まれてしまうのも確かなのだろう。

 バンクーバーにもホームレスはいた。人はどうしてこんなにうまくいかないのだろう。
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