友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

中原中也の詩「汚れちまつた悲しみに」

2017年12月02日 17時35分02秒 | Weblog

  朝から夕方4時までかかって、500球のチューリップを植え込んだ。やっと終わったという、使命を果たした気分でいる。自分のためにやっているのに、まるで義務になってしまった。植え終わって水撒きをしながら、球根は4月の末に取り出され、今日再び土に返される訳だが、思えば長い時間、暗室の中で過ごし、花を咲かせるまで今度は冷たい土の中にいることに気付いた。それが定めとはいえ、見てもらえるのはたった1週間しかない。

 球根を植えながら、中原中也の詩『汚れちまつた悲しみに』を思い出していた。高校の国語の教科書に載っていたと思う。文学青年を気取って、みんながこの詩を口にしていた。理由は分からないが、何故か自分たちにぴったりくる気がしてならなかった。おそらくこの詩が書かれたのは冬なのだろう。「汚れちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる」。

 高校生の時はこの詩を口ずさむことで満足していたが、「汚れちまつた悲しみ」って何だろう。それが具体的に何かは分からないし、分からなくてもいいように思う。とにかく彼は「悲しみ」のどん底にいたのだろう。「狐の革袋」は、恋人の物だったのかも知れない。そう思うと、好きでたまらなかった女性が立ち去り、絶望の淵にいたようにも思えてくる。

 きっとそうに違いない。「汚れちまつた悲しみは 倦怠のうちに死を夢む」。何もしたくなくて、ただ虚ろな気持ちで、ふと死んだ方がいいとさえ思えてくる。黙々とひたすら球根を植えていき、時々吹く冷たい風に、無くした恋を思い出した。別れはいつも悲しいものだ。「始まりがあれば終わりもあるのよ」と恋人が言ったことを噛み締め、今頃どうしているのかと思う。

 作業を終了し、ぼんやりしていると、西の空が赤くなってきた。「汚れちまつた悲しみに なすところなく日は暮れる」。


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