北朝鮮が弾道ミサイルを打ち上げた。この国を「正義」などとは誰も思っていないだろう。50余年前は「同じ凶器でも、誰が持っているかが問題なのだ」と平気で言っていた人たちがいた。今でもアメリカでは、「銃を持つのは防衛のためだ」と多くの人が思っている。防衛のためにミサイルが必要なら、「どこの国も自国を守る権利がある」のだから、ミサイルを持っても当然なのに、「オレはいいが、オマエはダメ」と言われて納得するバカはいない。
誰が持つかが大事なことではない。凶器は誰が持っても相手を殺傷する。「オレは理性があるが、理性のないヤツはダメ」と言うのは横暴でしかない。凶器を無くし、みんなが安心して暮らせる世界を築く論理ではない。50余年前、高校の同級生が私に会いに来た。「共産党こそが正義」と彼は言う。高校では新聞部や生徒会で、学校に批判的だった私を見込んでオルグに来たのだ。アメリカ軍のベトナム空爆は許せないが、ハンガリーへのソ連軍進攻も許せない。私はキリストに傾倒していたが教徒にはなれなかった。そして殺し合うことは許せなかった。
「革命が成功したらお前は死刑だ」と捨て台詞を残して彼は去った。「科学は善だが、悪用するヤツがいる。共産党は悪用させない」。どうしてこうも単純なのかと理解に苦しんだ。科学は道具で、善でも悪でもない。原発は悪だが、天気予報は善と言えるのか。天気予報という科学も軍事に利用されて急速に発展したし、宇宙開発もパソコンも軍事目的で伸びてきた。科学は常に軍事と結びついている。
防衛省が大学の研究に資金援助するのを拒否するだけでなく、科学が得たものを見張ることも大事なことだ。科学者には研究に没頭し、それがどうなるのかを考えない人もいる。科学は人に役立つが、人を破壊することもある。善と悪は裏表である。人はどちらにもなる困った存在だ。そう思わなければ、一方的な「善」の押し売りになってしまう。