朝、6時半に起きてルーフバルコニーに出て、植木鉢の花たちを見て回る。咲き終わったサルビアや日日草を花の茎から取り除いていく。枯れた葉が次の葉の成長を妨げないように、黄色くなった葉を取り除く。そうすることで新しい花が咲き、新しい葉が育つ。草花の成長は手をかければかけただけ応えてくれる。
「役に立たないものは見直したらどうか」と文部科学省は考えているようで、全国の国立大学に人文系学部の廃止や見直しを検討するように通知を出した。先回も全国の国立大学の学長を集め、式典で日の丸の掲揚と君が代の斉唱を要請している。「国立大学なら当然」ということらしいが、安保関連法案といい、安倍内閣の政策はどれも実利を求めキナ臭い。
国益が強く言われる時は、いつも危険な国家が生まれる。反対に、「役に立たないもの」が蔓延った時は、平和な時代で文化が育つ。「役に立たないもの」の対極にあるのは「役に立つもの」で、科学や物理や医学で、その基礎は数学かも知れない。中学までの数学は、分かっている答を計算することだったが、高校で「数学は論理学だ」と教えられ、目からウロコだった。
芸術、たとえば音楽は人の心を癒す働きがある。舞台や小説もいろいろと考える材料になる。考えること、人生についてあるいは恋愛について、本当に何の役にも立たないのかと言えば、私はそう思わない。文部科学省が「企業で即戦力となる人材を養成する」ことが教育の目的と考えているとしたら、そこには「効率」という価値観しかない。
先日、カミさんの妹が「いろんなことがあって回り道もしたけど、幸せな人生だったと思う」とポツリと言った。まっしぐらに幸せな道だけを歩く人はいない。紆余曲折があり、どん底を見た人もいるだろう。それでも平和だからこそ、「幸せな人生」と言える。戦争体験が新聞に掲載されているけれど、戦争になれば「役に立つもの」は尊重され、「役に立たないもの」は切り捨てられる。役立たない人生を送ってきた私は実利には縁がないが幸せだった。