友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『笑っていいとも』が終ってよかった

2014年03月30日 17時45分07秒 | Weblog

 『笑っていいとも』が、明日で終るのでホッとしている。この番組に出た芸能人はこぞって司会者のタモリを称え、「出られたことを誇りに思う」と言う。32年間も続いてきた昼の番組だから、先日、出演した安倍首相が言うように「国民的な番組」であることは確かだろう。働いていた頃は見ることはまずなかったけれど、毎日が日曜日のような今はでは、昼になるとスイッチを入れてしまう。

 番組を見ていて、私が一番嫌なのは身体的な特徴や動作の特徴などを笑いのタネにすることだ。それが1対1から1対残りの全員に広がる。たとえば、大きな顔だとか、ゴリラの生まれ変わりかとか、チビでデブだからチビデブとか、動作がのろいとか荒っぽいとか、真剣さがないとか、タモリが指摘すると周りのみんなが追従する。バカにされてむきになると、さらに追い討ちをかけるように囃し立てる。

 これはどう見ても「いじめ」の構図だと思う。だから、子どもたちは面白がって、『笑っていいとも』と同じことをしている。時々、大人たちもこうした身体的な特徴や、一生懸命にしているのにやってしまう失敗を笑いのネタにして、みんなで大笑いすることがある。大人は一緒に笑って誤魔化せるけれど、子どもは真剣に傷つくことがある。人を小馬鹿にしてはならないのに、それが笑いなら済んでしまう風潮がある。

 『笑っていいとも』の中ではタモリが標的になることはない。大方はお笑いの新人である。これは人間社会の縮図だ。子どもたちの世界でも力の強い子は標的にはならない。弱くて反抗しそうになく比較的調子のよい子が狙われる。大人の社会でも、年下の立場の弱い者がいじめられる。言葉の暴力も肉体的な暴力も同じことで、相手を見下せることが快感になるのだ。これは連鎖を生み出す。暴力を受けた者が大きくなると下の者に暴力を振るうようになる。

 『笑っていいとも』が国民的な番組とは、恐ろしい国ということでもある。番組が終了してよかったと思っているのは私だけなのだろうか。それも恐い気がする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする