友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

親の前で悪口を言ってはならない

2014年03月25日 17時48分28秒 | Weblog

 

 この2日間、暖かな毎日だったので我が家の鉢植えの花にも異変があった。今年は遅いと思っていた水仙が咲いた。白いサザンカはすっかり咲き終えたが、昨年より遅くピンクの椿が咲き始めた。ところが椿の隣りのツツジがもう開花した。次女のダンナの両親が我が家にみえた時は、風が強くてルーフバルコニーに出てもらうことも出来なかったので、今日のような陽気なら咲き出した花たちを楽しんでもらえたのにとちょっと悔しい気持ちになる。

 3・4月は、子どもを持つ親たちには何かと忙しい時期だ。私の姉は病院から介護施設へ移る。「介護師さんの言うことは聞くのに、私の言うことはちっとも聞かないのよ」と姪っ子は嘆く。感情をぶつけてしまうのは甘えの表現で、親子だからできることでもあるが、姪っ子にとっては理不尽なことだろう。姉を見ていると、まるっきり穢れのない素直な時もあれば、険しい顔付きで拒否する時もあるが、兄弟よりも娘には顕著だ。

 ツイッターで悪口を言われたからという理由で、言った相手を殺してしまう。そんなツイッターなど見なければよいのにと思うけれど、しかしそれにしても、なぜそんな短絡的行動に走るのだろう。殺人は絶対に許されないが、悪口を言う人もどうかしている。それでも、注意してみれば、人は簡単に悪口を言っている。相手のことを思って言う言葉は、受け取る人にはとても辛いことが多い。

 「本当にだらしない」「根っからの愚図」「時間の感覚がまるっきりない」「自分のことしか考えていない」「協調性が全くない」「自分勝手」「先のことを考えない」「ゴミの出し方ひとつ知らない」「自分では起きられない」「気持ち悪くなるまで飲まなければいい」「また、時間がない」‥‥。気をつけて聞けば、まだまだあるだろう。

 相手のことを気遣って、直したらいい、止めたらいい、そんな想いから発せられる言葉だけれど、痛いところを突かれるのは辛い。ましてや、1対1なら聞き流せるが、友人や知人の前で言われるのは辛い。もっと悲しいのは、親や兄弟の前で指摘されることだ。親や兄弟にとっては自分に言われているような気持ちになる。「親の前で悪口を言ってはならない」と、昔の人はよく言った。

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