15夜お月さんは台風のために見られなかったけれど、昨夜の16夜の月は見事だった。さすがに秋の夜空になっていて、月の光は輝きを増していた。西洋でも、太陽神は男・アポロだけれど、月はそのアポロの双子の妹・ディアナである。中世にはキリストの母を描いた宗教画が見られるが、この聖母像は三日月に乗っている。月は女性の貞節や処女性を象徴するものとして描かれているのだ。満ち欠けするのに、なぜ月に清純なイメージを抱くのだろうか。
夜は暗闇の世界だけれど、月の明かりで充分にものは見える。そればかりか、太陽のように暑くなくて、むしろ清々しい気持ちを与えてくれる。月光は神秘的で、厳かな雰囲気を持っている。それに月光は冷たく感じるけれど、女性の肌のように美しい。そんなことから月に女性を、太陽に男性を、対にして考えたのだろう。
西洋では、月の呼び名が何通りあるのか私は知らないが、日本では形はどれも満月であるのに、「じゅうごや、いざよい、まつよい、もちづき」などの呼び名がある。満月に前のものを「じゅうさんや」と呼ぶのも実に情緒てきであるし、月が太陽と同じ方向にあって、暗い半面を地球に向けるために、月を見ることが出来ない状態を「朔(さく)」と呼ぶのも面白い。『月に吠える』を書いた萩原朔太郎の「朔」は、一のことで長子を意味している。
16夜をなぜ「いざよい」と呼ぶのだろう。「いざよふ」を古語辞典で調べてみると、「ぐずぐずしてはやく進まない。ためらう」とある。16夜が現れるのは15夜よりもかなり遅れるからだが、なかなか味のあるネーミングだ。日本語にはこのような表現が多く見られるのは、やはり自然への観察が行き届いていたからだろう。この歳になって、日本語の深さに感心させられている。
今になって、勉強不足だったことを悔やんでいるが、数学が論理学だと分かったのは高校生になってからで、それから数学に取り組むには時間が無かった。たとえば、これはどこかの問題であったと思うが、「偶数と奇数を足すと奇数になるのはなぜか」という問にどう答えるだろう。偶数と偶数を足せば偶数しかない。奇数と奇数を足しても偶数である。それでは偶数とは何かを見ればいい。偶数は「奇数+1」で表すことができる。そこで偶数(奇数+1)+奇数は常に1が残るので、奇数になることがわかる。
物事を情緒的に考えてしまう私とは違って、論理的に考えるカミさんは上記のように答えを引き出してくれた。おそらく人間の歴史に貫くものも論理的なのだろうけれど、人間の情緒性が論理的なものを押しやってしまう時が歴史にはあるようだ。第3次野田内閣が発足したけれど、野田さんはいつも「的確に」とか「決断する政治を進めることが国民の負託に応える唯一の道」と言う。しかし、論理的を装った情緒的な演説でしかないのは残念だ。