友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

類は友を呼ぶ

2008年07月15日 20時11分41秒 | Weblog
 中学校が短縮授業に入ったのか、孫娘も早く帰ってくる。学活もクラブもないからと言うが、もともと水泳がやりたいために、早く帰ることの出来るものを選んでいる。彼女が属するのは生徒会と家庭クラブだが、家庭クラブの方はどこにもいけない子の溜まり場になっているようだ。

 今日も孫娘は早々と帰ってきた様子だが、向かいの家である我が家の方には珍しく顔を出さない。きっと、友だちと一緒なのだろう。しばらくすると、孫娘と他の女の子の声がして、いきなり「何かない?」と言って入ってきた。「あなたが朝飲んでいたジュースがあるし、桃もバナナもあるよ」と答えると、「ウーン」と言って冷蔵庫の中を物色していた。それから黙って隣の家に帰ろうとするから、「友だちもいるのなら、その子の分もちゃんと持っていきなさいよ」と叱る。手にしたものを見るとやはり二人分ある。

 自分だけ食べて、友だちにあげない子にはなって欲しくない。何でも分け合って食べる子であって欲しいのだ。特に彼女は一人っ子だから、人と分け合うことが身について欲しい。孫娘のところに遊びに来ている子は、父子家庭で、関ジャニのファンで、関ジャニがテレビに出るという理由で学校を休んでしまうほどの子だから、親なら大丈夫かと心配するのかもしれない。

 私が中学生の頃、先生たちが「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」とよく言っていた。よい友だちを選ぶことで人生は変わる。だから友だちを選ぶ時は注意しなさいということなのだろうが、そんな損得や功利を考えて、実際に友だちを選ぶだろうか。私の父も母もそうしたことで口を挟むことは全くなかった。むしろ母親は鷹揚な人で、頼ってくる人は一切かまわず受け入れていた。孫娘の母親である長女が小学生の時、友だちの子が家で食事が出来ないというので、よく我が家で食事をしていった。我が家の傾向は窓口が広いことだと思う。

 私自身のことで言えば、昨日のブログで悪童たちとエロ本やエロ写真に見入っていたと書いたけれど、中学3年生になって友だちが変わった。今も付き合いのある友だちにめぐり合い、宗教心と正義感の方が前に出た。確かに「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」ことは間違いない。親にしてみれば、子どもの友だちの存在は大きいから気になるところだが、友だちに影響を受ける前に親が子の友となって、何が大切なのかがわかる人に導くことだ。

 「子どものことを思い、レールを敷いてあげられる親がいるけれど、私には出来ない。私は未完でそんな力がないもの」とある母親は言う。私はそれでいいと思う。子どもにどんな可能性が潜んでいるのかわからないのに、親が自分の考えで子どもの将来を決めようなどというのは、親のエゴでしかない。子どもに人を見る力がつけば、自然によい友だちが出来てくる。人を見る力は、親の生き方や考え方から自然と子どもが学ぶものだと思う。
コメント
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