友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

思い込みや思い違い

2008年07月17日 22時16分17秒 | Weblog
 最近、思い込みや思い違いがよくある。自分が大切に思っている人が言ったことなのだから、たいていのことは覚えているように思っていた。それが「なんて言ったっけ?」と聞かれても答えられなかったり、確かにその話題は以前聞いたことがあるのに、中身までよく覚えていないことがある。いよいよ私もボケかと思うけれど、それは思い込みや思い違いが原因ということだってある。

 関心がどこにあるかでもそうしたすれ違いは生まれてくる。私は、男は元来、助平なものと思っていた。助平というのは性的な関心が強いものという意味だ。ところがアメリカの性白書では、性的な欲望は女にもあるとあった。中学の同級生の女性にそれを尋ねると、「当たり前じゃない。女にも性的な欲望がなければ、男はみんな強姦罪になっちゃうわよ」と言う。そうか、女も男も性的な欲望が備わっているのかと納得した。

 80歳や90歳になっても、介護を受けるような男の人でも、「どうせお風呂に入るなら、若い女がいい」などと冗談で言うけれど、それは本音でもある。ほとんど身体が麻痺しているような女性でも、気に入った男の人に手を握っていれば満足した表情になる。性的な関心と欲望は、人間が死ぬまで存在すると思う。

 夏である。都会に出てみれば一目瞭然であるけれど、最近の若い女性たちはナマ足を惜しげもなく見せつけてくる。女子高校生がミニスカートであるように、若い女性たちは競ってナマ足の美を競演してくれる。若い女性たちの挑発姿に関心を示したところ、「あなたは助平ジジイと一緒じゃない」とカミさんが怒り出す。彼女の潔癖症は充分承知しているつもりだけれど、そんな風に拒否反応を起こすとは思っていなかった。「あのさ、人間はそもそもそういう動物なんだから、まずそれを認めた方がいいのじゃないか」などと言おうものなら、「そんな欲望しかないヒトとは!」と言い出しかねない。

 私は自分自身を振り返ってみても、男と女である限り、たとえ還暦を過ぎ70歳や80歳になったとしても、性的な関心は変わらないように思う。それをまるで犬畜生のように言うのは、人は動物とは違う高貴なあるいは崇高な存在と思い込んでいるからだ。もちろん人間は学習によって、動物たちから進歩したけれど、潔癖症の人たちが思い込もうとするほど潔癖な存在ではないと思う。まず、それを認めることから始めた方が、人の本質を捕らえられるのではないだろうか。

 男たちはどこまでも女たちの肌を恋しく思うものだ。それをいやらしいと否定してしまったなら、男たちは生きていくことも出来ないだろう。潔癖症の女たちは男たちをどんな風に考えているのだろう。
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