茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

茶と文化そして美
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七五三の由来

2008年11月14日 | Weblog
「七五三」の祝いは、天和元年(1681年)11月15日に、徳川幕府第5代征夷大将軍徳川綱吉の長男、徳川 徳松(とくがわ とくまつ、延宝7年5月6日(1679年6月14日)- 天和3年閏5月28日(1683年7月22日))の健康を願ったのが始まりだとされる。母は小谷正元の娘瑞春院。
徳松は、上野国館林藩主。官位はなし。綱吉の跡継ぎに望まれたが1683年僅か
5歳で急逝した。法名は浄徳院殿霊岳崇心大童子。 墓所は東京都港区の増上寺。
七五三は、11月15日に、成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事。
旧暦の15日はかつて二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされた。
また、旧暦の11月は収獲を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになった。明治改暦以降は新暦の11月15日に行われるようになった。
3歳は髪を伸ばす「髪置(かみおき)」、5歳は初めて袴をつける「袴着(はかまぎ)」、7歳は、それまでの紐付きの着物に代わって、本仕立ての着物と丸帯という大人の装いをする「帯解(おびとき)・紐落(ひもおとし)」の名残りである。
三歳=言葉、五歳=知恵、七歳=歯を神から授かる事を感謝とする地方や、七五三を
一種の厄祓としている地方もある。千歳飴は、江戸時代の元禄・宝永の頃、浅草の飴売り・七兵衛が売り出したのが始まりとされている。

増上寺だけでなくしちごさん姿は本当にほのぼのです。
お子様方の成長はいつの時代も願ってこられたのかと思いました。
ひとしおですよね、この時期!

白水阿弥陀堂

2008年11月13日 | Weblog
白水阿弥陀堂 国宝にも指定されている白水阿弥陀堂。
1160年、国主岩城則道の妻徳尼が夫の供養のために平泉の
金色堂にならって建立したとされ、 平安後期に流行した
阿弥陀堂建築の代表作でもあります。お堂の優雅さ、浄土式庭園の美しさにも定評があり、庭園の雰囲気は平泉の毛越寺とよく似て います。
「白水」の名も平泉の「泉」を二字に分解したという説が伝えられています。
建物内部には、寄木造漆箔の本尊阿弥陀如来をはじめ、観世音菩薩立像、勢至菩薩立像、持国天王立像、 多聞天王立像が祭られ、国の重要文化財に指定されています。
四季を通してたいへん美しい場所です。

私の先生お勧めの場所でした。
その日は中に入れませんでしたがとっても落ち着きのあるところでした。
極楽浄土願ってのつくりと改めて美しさを実感しました。

磐神社

2008年11月12日 | Weblog
喜式内奥州一百社の内で胆沢七社の一とされ、古代より崇敬された神である。
この神社は男石大明神とも称し、松山寺境内の女石神社と合せた陰陽の二神で日本武尊、稲葉姫命をまつるとされ、二社に分れるが当社が本社となっている。ご神体は東西一〇・二m、南北八・八m、高さ四・二mの自然石で古来社殿は設けないならわしであったが、明治三〇年頃、近郷の氏子の強い要望による寄付金で拝殿が建築された。
 なお、当社のすぐ右前方には安倍館があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威を振う拠点をこの地に形成したと伝えられる
ここは山奥にありますが、どことなくひとを誘う力があります。
ぜひ見つけてお参り下さい。
神様が貴方様のお越しをお待ちになっているでしょう?
なんちゃって!気持ちのよい場所です。ドライブにどうぞ!

11月9日

2008年11月09日 | Weblog
去年の11月9日に「十日夜の宴」を開催いたしました。
あれから1年が本当に過ぎたんだと実感しています。
毎月の月例貞恭庵で追われているようにも思います今日この頃ですが、
一年前と比べて少しでも前進していればなぁと思っています。
次の日曜日にはその月例です。
しっかりとした気持ちで皆様をお迎えしたく考えています。
テーマは・・・。
お楽しみに!

今日から立冬

2008年11月07日 | Weblog
立冬(りっとう)は、二十四節気の1つ。11月7日ごろ。および、この日から小雪までの期間。
太陽黄経が225度のときで、初めて冬の気配が現われてくる日。十月節。『暦便覧』では、「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」と説明している。
秋分と冬至の中間にあたり、昼夜の長短を基準に季節を区分すると、この日から立春の前日までが冬となる。


長い長い寒い寒い冬がはじまります

旧暦の今日征夷大将軍に!

2008年11月04日 | Weblog
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の武官である。
名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。
死後従二位を贈られた。
中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。
弟麻呂の後任としてになって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を討って降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、また戦前までは、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。
父は坂上苅田麻呂で、坂上氏は田村麻呂の祖父の犬養、と苅田麻呂ともに武をもって知られた。妻は三善清継の娘高子。
子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。
春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。
滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。
田村麻呂は、天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男(「坂上氏系図」)または三男(「田邑麻呂伝記」)として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤務した。
田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(791年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、延暦12年(793年)に軍を進発させた。
この戦役については『類聚国史』に「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とだけあり、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人ながら中心的な役割を果たしたらしい。
延暦15年(796年)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。

なんだか長くなってしまったが、ここから桓武平氏が生まれていったのだと思いました。
そしてまた、阿弖流為族の敗北によって姿を消した神々も出てきたのかた思うと
なかなか面白い陸奥の國だと感じました。
源融もこの陸奥で暮らしていたといわれます。
ちょっとさぐってみたくなりました。

霜月って!

2008年11月03日 | Weblog
日本では、旧暦11月を霜月(しもつき)と呼び、現在では新暦11月の別名としても用いる。「霜月」は文字通り霜が降る月の意味である。
他に、「食物月(おしものづき)」の略であるとする説や、「凋む月(しぼむつき)」「末つ月(すえつつき)」が訛ったものとする説もある。また、「神楽月(かぐらづき)」、「子月(ねづき)」の別名もある。
十日夜「とおかんや」というお祭りにちなんででしょうか?
実りに感謝する意味合いがある別名にも感じられます。
11月は、冬支度の前に豊作に感謝することがはじめのようです。
もうすぐ冬です。


神話から『古事記』へ―國學院大學学びへの誘い―

2008年11月02日 | Weblog
漸くやる気が出てきました。
まずは大學のご案内からです。
面白いと思います。ぜひ宜しかったら!

神話から『古事記』へ―國學院大學学びへの誘い―
國學院大學が所有する学術資産の内から、古典籍を中心に展示会を開催し、開催地域との文化的な融合が図れればと開催するものです。

学ぶことは大学生のみならず、社会の誰もが生涯を通して行う行為です。

学びへの切り口を変えることにより、様々なものが見えてきます。

これが「学びへの誘い」です。

今回は、「神話から『古事記』へ」のテーマで、日本の古い神話の世界から『古事記』が出来上がるまでと、中世から近世へとどのように『古事記』が語り伝えられてきたかを、そして未来へ向けての『古事記』を考えてみます。