茶雅馬茶道教室 ~MIHO企画~

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一休 宗純

2008年11月21日 | Weblog
みなさんによくご存知のこの方の命日のようです。
びっくりしましたが、ちょっと調べました。
一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧である。説話のモデルとして知られる。
京都の生まれで後小松天皇の落胤という。
幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)など。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。
6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門·受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩「長門春草」、15歳の時に作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。
応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となる。『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。
応仁の乱後の文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。
塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。
1481年、88歳で酬恩庵に没した。臨終に際し、「死にとうない」と述べたと伝わる。酬恩庵は通称「一休寺」と言い、京都府京田辺市の薪地区にある。康正2年1456年に荒廃していた妙勝寺を一休が再興したものである。墓は酬恩庵にあり、「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓であるため、一般の立ち入り・参拝は不可能である。
自由奔放で、奇行が多かったと言われる。
男色はもとより、仏教の戒律で禁じられていた飲酒·肉食や女犯を行い、盲目の「森侍者」(しんじしゃ)という側女がいたり、「岐翁紹禎」という実子の弟子がいた。
朱鞘の木刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。
親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がりこみ、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如上人は『俺の商売道具に何をする』と言って、ふたりで大笑いしたという。
正月に、杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の高僧として知られる普化など唐代の禅者と通じるものがあり、教義の面では禅宗の風狂の精神の表れとされる。と同時に、こうした行動を通して、仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあった。彼の禅風は、直筆の法語として「七仏通誡偈」が残されていることからも伺える。
この戒律や形式にとらわれない人間臭い生き方は民衆の共感を呼び、江戸時代に彼をモデルとして一休咄に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。
一休が村田珠光の師であるという伝承があり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された。
秋風一夜百千年 ( 秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ。 )
子供のころに見た一休さんとはちょっと離れているようにおもえるが気持ちに素直かきのままか印象のよい坊様ですね。とくとくでしょうね?
私はどことなく惹かれます。