鮎の解禁が今日からだそうです。
今年も夏がもうすぐですね?はやいなぁ~。
先日「薪能」で改めてご本尊阿弥陀如来と自分、映し出されている己と向き合いました。
仏教という世界の足元で仕事をさせて戴いていますが是ほどまでにご本尊と向き合ったことはなかったのが正直感想です。
それは何かというと、雨天だったので大殿で椅子と座布団席でした。
「折角良い席なのだから座布団席がいいでしょう?前にすわったら?」とあるお坊さんにいわれ、座布団か~いやだな~と思いつつ座りました。
とてもよく見えました。
5時半法要スタート、能、狂言そして能、終了9時半。その間休憩15分。
酷でした。
足がしびれるのは通り越し、ひざと足がそれだけではなく股関節やもも・・・。
とにかく足が痛かった!
自慢でないけど正座は結構好きなんです。ただ、座布団に座ってしまうと、体がどっこいしょという感じ早くも足の痛みに耐えられません。親切のようで座布団て意地悪なんだよな~なんて思ったりもします。
いやいや、そんな話をするのではなくて、足の痛みと戦っていながらも演者さんの世界へいざ・・・!
と、同時に阿弥陀様と向き合っている自分を発見したんです。
足の痛さに耐えようとしながらも、嫌になる自分と頑張らなければいけないとむちを打っている自分を感じました。
邪気を払うまでも沢山の自分の嫌な部分が幾重にも自分に遅いかかってくるように感じ、どうにかなりそうな気分でした。
足の痛みという現実を実感しながら、過去の自分とこうするべきだろうとぶつかるすがたは本当にご本尊と「にらめっこ」!「貴方のここがいけないのよ!これはどうなの?あれはどうよ!自分はいかに考え進む道を考えいかに前進するか、本当に提示されながらも自問自答と時を過ごしました。
あんなにゆっくりと拝見したこともないかも!です。
ご本尊の生を感じた瞬間だったようにも思えました。
ある先生に神道を感じたことがありますか?と申し上げたら神は感じますと答えられました。どんなときにというと、次のような経験をもたれたことがおありとのことです。
中央アルプス駒ヶ岳の頂上小屋で50日を過ごした事です。
目の前に広がる大自然の偉大さを目の当たりにして、毎日毎晩過ごすのです。
台風の激しい嵐の中や、朝もやや雲海に埋め尽くされた谷を目にして、人間の小ささを実感しました。
正に大自然の力に圧倒されたのです。
山の上の岩に跨がり、落ち行く太陽を眺め、ご来光の光りを身体で受け止める。
正に、神と言う全てを超越したものを意識せざるを得ませんでした。
だから山には何度も登りました。
私がいかに傲慢に為って居るかを反省するために。
ほとんど全てが単独行でした。
真っ暗闇の中を、ライト一つの明かりであったり。月の明かりだけの中を登ったり。風の音に驚き、小枝の震えに怯えながら。
私は、私の存在の全てを自然界の中で否定されながら登ったりしたのです。
その時、神と共に居た気がします。
今でも。
先生はそうお答え下さいました。
私も仏像とにらめっこをしながら厚く太い光を感じ、パワーを戴いたように感じました。私は守られているというより、向き合っているという感じでした。
正座をして足の痛さを乗り越えて見つけたもの、みつけなければならなかったことそれを探して自分探しのたびに出かけたようでした。
良い機会に恵まれました。
神も仏も己の中にいるのでしょうね?きっと!
そして暖かく見守り、時には見つめ直す良い機会を与えてくれる。(叱咤激励?)
不思議と語りあいたく、居場所を探しています。
見つけられたとき、何を思うのだろうか?そんな疑問を持ちました。
おやすみなさい。
今年も夏がもうすぐですね?はやいなぁ~。
先日「薪能」で改めてご本尊阿弥陀如来と自分、映し出されている己と向き合いました。
仏教という世界の足元で仕事をさせて戴いていますが是ほどまでにご本尊と向き合ったことはなかったのが正直感想です。
それは何かというと、雨天だったので大殿で椅子と座布団席でした。
「折角良い席なのだから座布団席がいいでしょう?前にすわったら?」とあるお坊さんにいわれ、座布団か~いやだな~と思いつつ座りました。
とてもよく見えました。
5時半法要スタート、能、狂言そして能、終了9時半。その間休憩15分。
酷でした。
足がしびれるのは通り越し、ひざと足がそれだけではなく股関節やもも・・・。
とにかく足が痛かった!
自慢でないけど正座は結構好きなんです。ただ、座布団に座ってしまうと、体がどっこいしょという感じ早くも足の痛みに耐えられません。親切のようで座布団て意地悪なんだよな~なんて思ったりもします。
いやいや、そんな話をするのではなくて、足の痛みと戦っていながらも演者さんの世界へいざ・・・!
と、同時に阿弥陀様と向き合っている自分を発見したんです。
足の痛さに耐えようとしながらも、嫌になる自分と頑張らなければいけないとむちを打っている自分を感じました。
邪気を払うまでも沢山の自分の嫌な部分が幾重にも自分に遅いかかってくるように感じ、どうにかなりそうな気分でした。
足の痛みという現実を実感しながら、過去の自分とこうするべきだろうとぶつかるすがたは本当にご本尊と「にらめっこ」!「貴方のここがいけないのよ!これはどうなの?あれはどうよ!自分はいかに考え進む道を考えいかに前進するか、本当に提示されながらも自問自答と時を過ごしました。
あんなにゆっくりと拝見したこともないかも!です。
ご本尊の生を感じた瞬間だったようにも思えました。
ある先生に神道を感じたことがありますか?と申し上げたら神は感じますと答えられました。どんなときにというと、次のような経験をもたれたことがおありとのことです。
中央アルプス駒ヶ岳の頂上小屋で50日を過ごした事です。
目の前に広がる大自然の偉大さを目の当たりにして、毎日毎晩過ごすのです。
台風の激しい嵐の中や、朝もやや雲海に埋め尽くされた谷を目にして、人間の小ささを実感しました。
正に大自然の力に圧倒されたのです。
山の上の岩に跨がり、落ち行く太陽を眺め、ご来光の光りを身体で受け止める。
正に、神と言う全てを超越したものを意識せざるを得ませんでした。
だから山には何度も登りました。
私がいかに傲慢に為って居るかを反省するために。
ほとんど全てが単独行でした。
真っ暗闇の中を、ライト一つの明かりであったり。月の明かりだけの中を登ったり。風の音に驚き、小枝の震えに怯えながら。
私は、私の存在の全てを自然界の中で否定されながら登ったりしたのです。
その時、神と共に居た気がします。
今でも。
先生はそうお答え下さいました。
私も仏像とにらめっこをしながら厚く太い光を感じ、パワーを戴いたように感じました。私は守られているというより、向き合っているという感じでした。
正座をして足の痛さを乗り越えて見つけたもの、みつけなければならなかったことそれを探して自分探しのたびに出かけたようでした。
良い機会に恵まれました。
神も仏も己の中にいるのでしょうね?きっと!
そして暖かく見守り、時には見つめ直す良い機会を与えてくれる。(叱咤激励?)
不思議と語りあいたく、居場所を探しています。
見つけられたとき、何を思うのだろうか?そんな疑問を持ちました。
おやすみなさい。