長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

<出版前一部公開>続・米沢燃ゆ 師弟の軍旗 上杉鷹山公と尊師・細井平洲先生2

2014年10月19日 15時26分40秒 | 日記




平洲の講釈が終わるのを待ちかねていた藁科松柏は、改めて挨拶し、是非とも今の話の先にあるものを聞かせていただきたいと懇願した。
快く承知した平洲は浜町の「嚶鳴館」まで松柏を同道すると、求められるままに自分の考えを語り聞かせた。それは辻講釈とは違って、直接経書に基づく高度なものであった。
松柏の身分を聞いた平洲は、特に国を治める指導者のあるべき姿について熱心に語った。それは経世済民(経済)であり、現実主義(リアリズム)であり、論語と算盤、でもあった。“上杉の義”等という理想論ではなく、“成果主義”でもあり、平洲は現実主義者(リアリスト)でもあった。平洲は拝金主義を嫌ったが、同時に綺麗ごとだけの主義も嫌った。平洲は「どんな綺麗事を並べ立てても銭がなければ一粒のコメさえ買えない。それが現実であり、銭は空からは降って来ないし、法令順守(コンプライアンス)を徹底し、論語と算盤で正しいやり方をして努力して善行を尽くせばほとんどの幸福は叶う」という。
平洲の話に時がたつのも忘れて傾倒し、感動を抑えきれず、その場で松柏は平洲に入門した。藁科松柏は本国の米沢にいるときには「菁莪(せいが)館」と名付けた書斎で多くの若者たちの教育にあたっていた。彼の教えを仰ぐ者の中には竹俣美作当綱(たけのまた・みまさく・まさつな)、莅戸(のぞき)九郎兵衛善政、木村丈八高広、神保容助綱忠らがいた。その頃の米沢藩は長年の貧窮に打ちひしがれ、息が詰まるほどの閉塞状態から脱出することも出来ないでいた。しかも、藩主上杉重定は寵臣(ちょうしん)森平右衛門利真(としざね)に籠絡(ろうらく)されて、自ら藩政を改革出来ないでいた。
竹俣当綱や莅戸らは密かに会合を持ち、後述するような森氏への謀殺を謀る訳だが、望みの期待の“改革派の頼りの綱”はわずか九歳の御世継の直丸(直丸→治憲→鷹山)だけであった。松柏は“大人物”細井平洲先生を一門に紹介し、積極的に御世継の教育にと便宜をはかった。「上からの論理ばかりでは“死角”ができる」、「諌言をさまたげ、甘言によっては“大きなツケ”ばかり残る」平洲の主張もごもっともであった。
竹俣も莅戸も木村も神保も平洲門下に列座する。「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」
竹俣は「細井先生はいいが、失礼ながら直丸殿はまだ九歳の童べであろう」とため息をついた。望みがわずか九歳の御世継・秋月直丸、養子縁組で上杉直丸、のちの治憲公、鷹山公で、ある。溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用17~25ページ>



上杉鷹山公は公人、つまり公(おおやけ)のひと、である。
 何故、鷹山公は私心を捨てて、公人となったのか?やはりそこには江戸の学者であり、師匠でもある細井平洲先生による教育のたまものなのである。
 米沢市立図書館は私がよく執筆する際の資料の為に利用する。その米沢市立図書館は二十年くらい前に「上杉鷹山公の伝記漫画」の資料と調査研究をしてマンガ本を刊行したという。(資料を提供して無名の漫画家さんがコミックを描いた)
 当時の図書館員は「鷹山公に関する資料等を調査研究していくと、その人間像が浮き彫りにされ、あたかも私たちの目の前で鷹山公が「為せば成る。米沢の未来のため頑張りなさい。」と優しく励ましてくれるような錯覚におちいる。さらに、現代の私たちに近い、赤裸々な人間「鷹山公」を捜し求めたが、「公は」その姿を現してくれなかった。その分だけ、この漫画は面白味に欠けているかもしれない。鷹山公は「真心の人」であった。自分の信じるところに従って行動し、勇気を持ってあらゆる困難とよく闘った政治家。そして、郷土と民衆を心から愛した世界に誇る代表的日本人である。鷹山公の遺徳とその精神は、私たち米沢人の心の光かも知れない。それは、何時の時代にも消えることなく、我々の生きる道を照らしてくれるものだと信じたい。(「上杉鷹山公物語・監修 横山昭男 作画・小川あつむ」149ページ参照)」と記している。
 当時の米沢市立図書館員たちには「上杉鷹山公」は「現代の私たちに近い「赤裸々な人間像」」を現してくれなかったのかもしれない。まあ、時代だろう。
 二十年前はわからなかったことでも現在ならわかることもある。
 鷹山公が少年期に、利発で天才的な才覚を見せている姿からは普段想像も出来ないくらい涙もろかったり(藁科松伯から米沢藩の惨状を聞き「それは米沢人が憐れである」と涙をはらはら流したり)、幼少期に寝しょうべんがなかなか直らず布団に毎朝「日本地図」を描いていたり……私にはこれでもかこれでもかと「公は」「赤裸々な人間像」を見せてくれる。
 まあ、時代だろう。調べが甘い。野郎自大も甚だしい。
 宝暦九年(1757年)、三月、秋月直丸は米沢藩主重定の養子に内定している。
 (注・鷹山公の母親・実母・春姫は宝暦七年(1757年)六月九日に三十五歳で病死しているが、この物語では話の流れでまだ生存していることになっている)
 (注・上杉鷹山公の生まれは宝暦元年(1751年)七月二十日、秋月家二男として生まれている。つまり、鷹山公はわずか七歳で実母を亡くしている訳だ)
 実際問題として、上杉重定の放蕩は目を伏せたくなるほどである。
 このひとは馬鹿ではないか?とおもうほど能や贅沢三昧の生活をする。
 でも、まあ、鷹山公や藩士にしたら「反面教師」だ。(注・「反面教師」という諺は中国の毛沢東(マオ・ツートン)の唱えた諺であるからこの時代の人々にはなじみのない諺かも知れない)
 借金まみれの米沢藩で「贅沢三昧」とはこれまた馬鹿野郎だが、まだのちに「七家騒動」をおこすことになる須田満主(みつぬし)ら老中もこの世の春を謳歌し、重定とともに財政悪化の元凶・贅沢三昧な大老・森平右衛門もこの世の春を謳歌していた時代である。
 上杉家の養子になった治憲公(直丸公)は秋月家家老三好善太夫(みよし・ぜんだゆう)に、
「わたしのような小藩からの養子の身分の者が……謙信公からの名門・上杉家の米沢藩をひとりで動かせるだろうか?」
 と不安な心境を吐露したという。
 すると秋月家庭園で、木刀で稽古をつけて、一服していた三好は平伏して
「確かにおひとりでは無理にござりまする」という。
「……やはりそうか」
「されどにござりまする、若。どんな大事業もたったひとりの力では無理なのです。米沢藩上杉家中は名門ゆえ優秀な人材も多いことでしょう。家臣の者たちとともに粉骨砕身なされませ」
 三好善太夫は鷹山公の傅役である。
 彼は少年の鷹山いや治憲に「奉贐書(はなむけたてまつるのしょ)」を送った。三好は鷹山が上杉家に養子に行く前に「殿さまとして守るべきことをしたためた「上言集」と「奉贐書」」を送り、宝暦十年(1760年)十月十九日に治憲が江戸の秋月家一本松邸より上杉家桜田邸へ移りおわったのを見届けたのち十一月二日、五十七歳の生涯を終える。
 鷹山はこの三好からの書状を一生の指針として、善太夫の死に涙をはらはら流したともいう。
 鷹山公は涙もろいのかも知れない。
 江戸から遠い米沢藩の田舎ではのちの竹俣当綱(たけのまた・まさつな)が江戸家老になり、莅戸善政(のぞき・よしまさ)が奉行に、藁科松伯(わらしな・しょうはく)らが米沢藩士としての志を新たにするのだった。
 時代は混沌としていた。改革前夜であり、米沢藩は深い闇の中、にあった。


  こうして竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政、木村高広の四名は、高鍋藩江戸屋敷に徒歩で向かった。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いている。武家も商人も、女子供にも…人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はまた、ふいに思った。
 その日は快晴で、雲ひとつなく空には青が広がっていた。すべてがしんと輝いていくかのようにも思えた。きらきらとしんと。すべて光るような。
 高鍋藩邸宅は米沢のそれと同じで、殺風景でぼろくて今にも倒れそうだった。高鍋藩も財政危機で、修繕代が払えないのだ。
 ………貧乏藩は米沢十五万石だけではないのだな。
 竹俣当綱がそう不遜に思っていると、藁科松伯は低い垣根から、邸内を熱心に覗いていた。彼の横顔は笑顔だった。
「…いましたぞ、ご家老」
 と藁科。
 木村も覗き「あの若君が直丸殿ですか?」と竹俣に尋ねた。
 莅戸は「拙者にも見せてください」といった。
 竹俣当綱も垣根から邸内を覗き見て、「…おぉ。あれじゃ、あの方が直丸殿じゃ」と笑顔になった。「本当に賢そうな若じゃ」…邸内の庭では、秋月直丸という若君が剣術に励んでいた。一生懸命に木刀を何度も降り下ろす運動のためか、若君は額に汗をかいていた。直丸は八歳。すらりと細い手足に痩せたしかし、がっちりとした体。ハンサムで美貌の少年である。唯一、瞳だけがきらきら輝いている。
 この、秋月直丸こそが養子となり名を「上杉直丸」と変え、さらに元服後「上杉治憲」と名をかえた、のちの名君・上杉鷹山公そのひとであった。
「……いい顔をしている」
 四人は微笑んで、呟いた。



「……どちら様でしたか?」
 ふいに藁科ら四人に声をかける女がいた。…それが直丸の生母・春だった。(注・歴史的にはこの時期に鷹山公の実母・春は病死しているが、話の流れの為に存命していることにしている)
 確かに、春は美人であった。背も低くて、華奢であったが、三十五歳の着物姿は魅力的なものであった。
「あ、私は藁科松伯と申します。こちらが江戸家老の竹俣殿、こちらは莅戸殿に…木村殿です」
「はぁ」春はそういい、続けて「どちらの国の方です? 江戸の方ではないように思いますけど」
「わかりますか」竹俣は笑って「拙者たちは出羽米沢藩十五万石の上杉家家臣のものです。今日は、藩主・重定公の名代として参りました」
 と丁寧にいった。そして、一行は頭を深々と下げた。
「まぁ!」春は思い出して、「養子の話しですね?直丸の……。こんな外ではお寒いでしょうから、中にお入りくださいまし」と恐縮して一行を屋敷に招いた。

  秋月家江戸邸宅は質素そのものだった。
 …春は、恐縮しながら「申し訳ござりません。今、殿は外出しておりまして…」と言った。…竹俣や藁科らが座敷に案内されて座ると、「……粗末な食べ物ですが。御腹の足しによろしかったらどうぞ」
 と、そばがゆが運ばれた。
「いや! 奥方様、われらなどに気をつかわなくても…」と竹俣。莅戸は食べて「おいしいです」といった。「馬鹿者。……少しは遠慮せぬか」竹俣当綱は彼の耳元で囁くように注意した。秋月の奥方様(春)は笑った。すると藁科と木村も笑った。
「米沢は今どうですの?」                
 春は竹俣に尋ねた。すると竹俣は「政のことでござろうか?」と逆質問した。
「いいえ」春は首をふって笑顔になり、
「気候や風土のことをききましたの」
 といった。
「……それなら、今、米沢は雪景色です。毎日、家臣たちは雪かきに追われて…くたびっちゃくたびっちゃ(疲れた疲れた)といってます」
 竹俣は笑った。
「どうして直丸を上杉家の養子にすることになったのですか? 他にも若君はいっぱいおりますでしょうに」春が言った。すると藁科が、
「いえ。直丸殿ではなければダメなのです。拙者はよく巷で直丸殿の噂を耳にしました」「……どのような?」
「秋月家の次男坊は大変賢く、心優しい方で、学問や剣術に熱心だとか…」
「直丸が? ですか?」
「はい」藁科はにこりと頷いて、続けて「直丸殿のような傑出した若君が…どうしても米沢では必要なのです。ご存じの通り米沢藩の財政は火の車、殿には姫しかなく、この危機を乗り越えるためには傑出した名君が必要なのです」といった。
「…直丸が、名君に?まだ八歳の童子ですのに?」
 春は少し訝し気な顔になった。
「歳は関係ありませんよ、奥方様」莅戸がいうと、続けて藁科松伯が「直丸殿はきっと米沢の名君におなりになります。拙者にはわかります。直丸殿は臥竜なのです」
「……臥竜? まぁ」春はびっくりした。そんな時、直丸の父親・秋月佐渡守種美が屋敷に戻ってきた。春は「少し失礼します。ゆっくりしていてくださいまし」というと、座敷から出て夫を出迎えた。そして「…殿。いかがでしたか?」と夫に尋ねた。
「だめだ。どの商人も金を貸してはくれぬ。日向高鍋藩もここまでか……。疲れた」
 秋月佐渡守は、深く溜め息をつくと、座敷へと向かった。
 そして、座敷に座る「みすぼらしい服を着た四人の侍」を発見し、後退りして障子の陰に隠れてから、「…なんの客だ?ずいぶんガラが悪そうではないか」と春にボソボソと尋ねた。春は「出羽米沢十五万石の家臣の方のようです」と答えた。
「あぁ。そういえば養子の話しか…」
 種美は頷いた。春は「出羽米沢は十五万石。殿の日向高鍋は三万石……養子なんていい話しですこと」と微笑んだ。
「う~む」種美はそう唸ってから、「……とにかく話しをきこう」といい座敷内に入った。「わしは日向高鍋藩藩主、秋月佐渡守種美である。そちらは…?」
 藁科らは平伏してから、自己紹介をした。そして、「直丸殿に是非、拝謁したい次第で参上つかまつった」といった。
「よかろう」秋月佐渡守は満足そうに頷いて「直丸をこっちへ」と家臣に命じた。
 まもなく、八歳の直丸がやってきた。
「…秋月直丸にございます。以後お見知りおきを」
 彼は正座して頭を下げて竹俣らに言葉をかけた。その賢さ、礼儀正しさ、謙虚さは、藁科たちを喜ばせるのに十分だった。……これなら名君になれる。

  竹俣や藁科らは、秋月佐渡守とその次男坊の直丸とわきあいあいと話しをした。時間は刻々と過ぎていく。そろそろ夕方で辺りが暗くなってきたので、藁科が立ち上がり、
「今日は遅いので…これで。さぁ、みんな帰りますぞ」と言った。
「いや、せめて夕食だけでも食べていかれよ」
 佐渡守がとめたが、四人は、せっかくですが、と断った。
 そして、藁科は袋に詰めていた分厚い本を取りだして「これは儒教の書。これは『大学』こちらは孔子の書です。どうぞ」と直丸に手渡した。
 直丸は微笑んで礼をいった。
 藁科らは、黙々と秋月家屋敷を後にした。
 しかし、希望を見つけだした。あの若君は必ず名君になる。米沢を救ってくださる…四人はそう考えていた。…あの若君が米沢の希望だ。
 ………直丸は、さっそく本をめくり、熱心ににこにこ微笑みながら読み始めた。
 父・種美に尋ねられると、
「父上のような名君に、それがしもなりとうございます」
 と、のちの鷹山となる直丸は夢を語ったという。この当時、のちの鷹山公となる少年は「源義経の伝記「義経記」」「織田信長の伝記「信長公記」」「上杉謙信の伝記「越後軍記」」「天才軍師・諸葛孔明の活躍する「三国志記」」に熱中していた。
 なかでも上杉謙信公は養子先の藩祖でもあり治憲は憧れた。「上杉の義」とゆうのに憧れて、よくふざけて「上杉の義なりや!」「これぞ上杉の義なるぞ!」と歌舞伎役者のようにいったという。
 諸葛亮孔明は劉備への「忠義なところ」「軍略に優れたところ」がお気に入りであったという。
 私は諸葛亮孔明のように(米沢・上杉藩に)三顧の礼をもって迎えられるのかなあと無邪気にほほ笑んだりもしている。だが、そう思うと背筋がしゃきんと伸びもする。皆の期待を裏切る訳にはいかない!
 ちなみにのちに上杉鷹山として知られることになる秋月(上杉)直丸(治憲)は、宝暦元年7月20日(1751年9月9日)に誕生している。名を直松、直丸、勝興、治憲、鷹山……と変えた。が、後世では『上杉鷹山』として知られている。





 鷹山公の実母・春は病床の身となる。ごほごほと咳をすることが多くなる。やがて、喀血して本人も驚いたことだろう。
 春はまだ幼き息子・直丸(のちの鷹山公)に「秋になると木々が紅葉で真っ赤や黄色に色づくのは何故か知っていますか?直丸」と聞く。
「わかりません」正直な答えであった。
「木々の紅葉は御屋形である木を守る為、真っ赤や黄色くなってまで御屋形の木を守る為に身代わりになって散っていくのです。お前もそういう君主にならねばなりませぬよ。夢夢「自分は誰よりも偉い」等と天狗になってはなりませぬよ」
「はい!わたくしは母上に誓いまする、きっと立派な殿さまに、紅葉のような絢爛な殿さまになりまする!」
 若き鷹山公(直丸公・治憲公)の志であった。
 のちの鷹山公の実母・春が、三十五歳の花のような生涯を病死という形で果てたのは、この頃である。
 のちの上杉鷹山となる直丸は、幼少期から学問と武道を学んでいる。秋月家も上杉家も文武両道方針で質素倹約の家系である。
 直丸は細井平洲(ほそい・へいしゅう)先生や米沢藩奥医師・藁科松伯らに学び学殖を得た。ここで直丸は猛勉強する訳だが、直丸にはある癖があった。
 彼は何かに集中し過ぎると先生や誰かが声を掛けても耳から聞こえない程に熱中することだ。熱中するものがあると一直線に行動する為に成功を遂げる事も多いが、どこか「過ぎる」ところがあって、間違えたと分かるまで一直線に行動し、自分の正義を曲げない。
 そうしてある創作や政策をひらめかせる。まあ、今でいうならアイデアマンであり、アインシュタインやエジソンのような偉人な訳である。この時期、上杉家・米沢藩主・重定の子供が相次いで病死したり夭折(ようせつ・幼くして死亡)している。
 のちに上杉治憲(のちの鷹山)の正室となる幸姫(よしひめ)が誕生している。
 ちなみにこの頃の竹俣当綱の存在意義は大きい。やがて失脚してしまう運命の竹俣当綱だが、先祖は上杉二十五将のひとりでもある。
 かなり恵まれた環境で育った当綱だが、実母が若くして死んでしまう。当綱の父親は若い娘を後妻に迎え、祝言の席となった。当綱は酒豪でぐいぐい飲んでいた。しかし、同僚で親友の莅戸善政は下戸である。
「まあ、莅戸よ一杯くらいどうじゃ?」
「いいえ。私は下戸ゆえ」
「そうか。だが、舐めるくらいはよかろう?」
「はあ」莅戸は杯に酒を注がれ、舐めるだけ酒を飲んだ。たちまち顔が真っ赤になる。「竹俣殿、わしはやはり……酒は……苦手じゃ」  
 そのまま莅戸はぐったりとなった。病気ではない。舐めた酒に酔った訳だ(笑)
 一同は笑った。
 この頃、米沢藩士改革派として台頭してきたのが、この莅戸善政と竹俣当綱、木村高広、藁科松伯、佐藤文四郎、水沢七兵衛ら、である。
 宝暦五年(1755年)米沢藩は大飢饉に襲われた。
 多くの餓死者を結果として出してしまう。が、前述の米沢藩士改革派の活躍と藩の「御救い米」等により最低限の死者の数で済んだのである。
 鷹山公の学問の栄達は細井平洲先生と藁科松伯にかかっているといっても言い過ぎではなかった。
 しかし、藁科の寿命は「風前の灯」であった。
 ここ最近咳き込む事が多くなり、医者として自分の病状は「風邪の羅看」と思って江戸の名医に診てもらった。そして、咳き込み喀血して、自分でも驚いたという。
「労咳(ろうがい・肺結核)ですな」いわずもがな、である。
 当時は肺結核は不治の病である。しかも、余命半年だという。
 そうか。わたしは直丸殿、治憲殿の改革を…米沢の藩政改革の一翼ともならず、死んでしまうのか。
 それは絶望ではなかった。改革に自分が参加できないであろう悔しさ、であった。

         公の教育と立志



               
  上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。
 もちろん、上杉家の祖、藩祖・上杉謙信公も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山公、鷹山公といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉の甘煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。
 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。
のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種美の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。
 血筋は争えない。
 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。
 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか? ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!
 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。
 では、鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?
 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれているくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。
 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。
 上杉重定はのちにこう言っている。
「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」
話しを戻す。
 米沢藩の藩校・興譲館に出勤して藁科は家学を論じた。次第に松伯は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。莅戸らにとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという師匠・藁科松伯の存在は誇らしいものであったらしい。松伯は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」若き松伯は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松伯は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松伯はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松伯は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松伯は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松伯は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い藁科松伯でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松伯は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松伯の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松伯は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松伯は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松伯は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松伯は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松伯の名声は世に知られるようになっていく。松伯はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない。だから労咳になどに罹ったのだ」



  明和四年(1764年)十二月、米沢藩江戸屋敷…。
 その日は11月というのに暖かく、また天気のいい日よりだった。太陽は遠くのほうにあったが、きらきらとした朝日が屋敷や庭に差し込んでいた。
 どこまでも透明なような雲が浮かんでいて、いい天気だった。しんと輝くような晴天である。             
 そんな中、上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生のもとに歩いていった。
 細井平洲は江戸でもなうてのエリートで、教育者で、教育のスペシャリストだった。そして、難しい学問を身につけていてもそれを気取らず、それどころか難しいことをわかり易くひとに教えるような人物だった。平洲は当時、四十代。不精髭を生やしていたが細身で、学者肌のインテリで、がっちりとした首や肩が印象的な人物であった。どこかクールな印象を受けるが、頭がいいだけでなく性格もよかった。
 人柄もよく、ちょうどよい中年で、とても優しいひとだったという。
 それゆえ、上杉重定は細井平洲先生をたいへん気に入り、養子である直丸の教育係に抜擢したのだった。
 上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生の待つ部屋に足を踏み入れた。そして、畳に手をつき頭を下げて、
「……上杉直丸でございます」
 とハッキリとした口調で言った。
「細井平洲と申します。藩主・重定公から直丸殿の教育をまかされました」と言った。そして続けて、
「…直丸殿はやがて米沢十五万石の藩主となられるお方です。習うのは王公の学です。学問は世の中の役に立たなければなんにもなりません。幕府の守る朱子学も学問のための学問になっています。賢き藩主は民の父母……という諺があります。どういう意味か「大学」にしたがって勉強してみましょう」と優しい口調で言った。
「はい」
 直丸は答えた。そして、台にのった本をひろげて、
「民の望むことを望み、民とともに生きること。賢き藩主は民の父母……」と読み始めた。それは上杉直丸(のちの鷹山)の立志の始まりでもあった。
 あるとき、直丸は木登りから落ちて怪我をしたことがある、そのときの右肘の傷は晩年まで痕になって残る程であった。
 だが、命が危ない程の怪我ではなかった。藁科松伯のほうが棺桶に右足が一歩入っている状態である。なのに藁科松伯は、病気をおして正装してまで江戸藩邸に出向き、直丸を労わっている。
「われのことなどよい。それより藁科松伯先生の病のほうがよほど深刻では?」
 直丸が訊くのももっともである。
 藁科松伯は「拙者如きは只の風邪にござる」と嘘をいった。直丸は叱った。真実が耳に入っていたからだ。
「藁科松伯先生、無理をなさるな。養生なされよ」
 すると藁科松伯は涙を流し、「かたじけありません、直丸公……拙者如きが……そのような温かいお言葉…」
 ふたりははらはらと涙を流し、号泣した。
 そして藁科松伯は志を公に託した。こののち直丸から上杉治憲と名を変えた鷹山公が、米沢藩に初入部する頃、藁科松伯の寿命は尽きている。
 ちなみに佐藤文四朗には好きな女子がこの頃より出来た。
 奥女中で米沢藩江戸屋敷の春猪(はるい・仮名)という若い女性である。だが、一目ぼれの片思いであった。
 何度か話すうちにお互い惹かれあうようになるのだ。だが、それはもう少し時間が必要、であった。


翌明和二年(一七六五年)、当綱は国家老に昇格して米沢へ戻った。
そして次の年、直丸は元服して治憲(はるのり)と名乗る。さらに翌四年四月、藩主重定は家督を譲って引退し、上杉治憲が藩主となる。時に十七歳であった。
なお、上杉家では藩祖である謙信を初代としているが、米沢藩主としては次の景勝(かげかつ・上杉謙信の姉・仙桃院からの養子)が最初になるので、こらから数えて治憲は九代目藩主(上杉家では十代目)ということになる。
爽やかな風が頬を撫でていく春の江戸桜田の上杉藩邸で、治憲は空を見上げて、志を確かにするのだった。松柏や美作から上杉家米沢藩の窮状は聞かされていた。そこで改革をするのは自分しかいないではないか!と思ったのだ。家督を継いだ以上は、何が何でも再建しなければならない。今日こそがその第一歩の、戦国時代で言えば初陣である。
若い藩主は重い使命感に武者震いを覚えた。その興奮を鎮めるように机に向かうと彼は自ら筆をとり、墨痕鮮やかに「民の父母」と大書した。
そして、その下に小さく「受け次て国の つかさの身となれば 忘るまじきは」と三行に分けて書き上げた。君主たる者は民の父母にならなければならない、これは『大学』にも説かれている為政者の基本姿勢である。
慶応元年(一八六五年)米沢市の林泉寺(りんせんじ・米沢市南西部・直江兼続の菩提寺)の学寮から出火したことがある。このとき隣の春日神社にも類焼の危機が迫った。急を知った住職が貴重品を運び出そうとしたが、その中から治憲の人知れず奉納していた誓詩が発見された。
そこにも自ら「民の父母」となることを第一と自覚し、文武の道に励むこと、礼儀正しくすること、賞罰に不公平のないことなど、自分自身への戒めが五か条にわたって記され、末尾には署名したうえに血判が捺されていた。
もし、林泉寺に火事がなければ、この誓詞は発見されなかった。治憲は翌九月、やはり国元の白子神社に藩政の再建の宣言した誓詞を奉納しているが、これも明治二十四年(一八九一年)になって初めて発見されている。この虚心誠実な治憲の前にこれからも呆れるほどの艱難辛苦が襲いかかってくる。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用32~40ページ>
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL... | トップ | <出版前一部公開>続・米沢... »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事