長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

プロローグ大前研一艸風伝(そうふうでん)連載文献のプロローグ緑川鷲羽より

2014年03月31日 17時02分30秒 | 日記





大前先生は「私がアメリカに留学していなければ、現在のような政権批判などしてなかったであろう。多分、大学の「名物教授」くらいにはなっていたろう。が、政府や官僚の批判などせず、ただただ頭を低くして行政機関から仕事や予算をもらうだけだったろう」
と回顧する。なるほどそうかも知れない。大学の教授にしろ、「なんとか総研」のチーフ・エコノミストにしろ、予算や仕事の受注のためには官僚や政治家の悪口や批判などしていたらおまんまの食い上げ、である。まあ、わかりやすく考えれば大前先生は日本という藩から「脱藩」したようなものだ。大前先生が平成の勝海舟なら留学したのは「勝海舟が咸臨丸で米国にいった」ようなものだ。私緑川鷲羽が平成の坂本竜馬なら、米沢NECのプログラマを辞めて、フリーランスのジャーナリストとして二十代で業界に飛び込んだ「脱藩」に似ている。社畜時代やノマド・ワーカーには絶対に理解できない心境である。
 大前研一氏は日立製作所でくすぶっていたとき、日本の行政・立法府・政府・外交・経済などに疑問をもったというがそれも「神のみえざる手」ではなかったのではなかろうか。
私緑川鷲羽は、神などいない、と思っている程度の『無神論者』だが、少なくとも「神の見えざる手」くらいの運命くらいはあるだろうとは思っている。
そして祖国・日本の問題点を悶々と考えるうちに天才が開花したのではないだろうか?
そんな気がする。
そしてそういう天才だからこそ、世界的な経済紙が「世界の影響のある100人」の中に、数少ない日本人としてリストアップされるに至るのである。
 ちなみに大前研一先生の人脈はほんとうに幅広い。故・松下幸之助氏、故・本田宗一郎氏、故・盛田昭夫氏、稲森和夫氏、石原慎太郎氏、橋下徹氏、孫正義氏、安倍晋三氏、小泉純一郎氏、マハティール・モハマド氏、リー・クアンユー氏、故・マーガレット・サッチャー氏………と驚くほど広い。しかも、松下政経塾のアイデアは大前先生による献策であったというからさすがである。マハティール時代のマレーシアの「国の経営コンサルタント」までこなし現在はBBTで後進の育成にあたられている。
 そこには人間としての一本の芯があるが如し、である。
<「目からうろこが落ちました」と言う人が多いが、何もやらない人が大半だと思う。うろこが落ちただけでは不十分だ。スケジュールを作り、アクションを起こし、その効果が出てきたかどうかを評価する。個人がコントロールできる唯一のものは時間配分だ。その時間配分を変えない限り、人生は変わらない。30代の頃、松下幸之助さんと同じだけ生きたとすると、あと何回夕飯が食べられるのかと計算したら、1万8000食という答えが出たんです。有限だと思い知ったその時から、いいかげんに夕飯を食べないようになりました。>(「日経ビジネスアソシエ」(2010年12月21日))
 ちなみにこの書『大前研一艸風伝』の艸とは「そう」と読み『草』の意味であり『艸風伝』と書いて「そうふうでん」と読む。つまり、大前研一氏の草原にふくおおきく影響力のある風の如くの伝記、な訳である。昔、大前研一氏をCIAのエージェント、スパイ、ユダヤ人の手先………等といって騒いでいた阿呆がいたがそんな輩と一緒にされたくない。
大前氏の言動は正しいし、間違っていない。私から見れば『正義のひと』である。
     <戦われなかった決闘
「みんなの期待に背けぬ」という張りつめた気分も手伝ってか、私は並みのアメリカ人学生より遥かに堅物だったと思う。あいにくルームメイトのアルバートは、万事が私とは対照的な人物だった。アルバートは平日、週末を問わずに近くの女子大生のガールフレンドを私たちの部屋に連れ込んでは、夕方から夜にかけて遊ぶのであった。椅子にかけて話し合うというのではない。第一、そんな上品なものではなかった。上半身丸裸。女とベットに寝そべって愉(たの)しそうに社会心理学の話に耽っている。私はどうしていいかわからないから、つい本とノートを持って図書館に出かける。憤懣(ふんまん)やるかたない思いで真夜中の零時ごろ、テクテク帰室する。内側からカギがかかる日もあった。(中略)ある日、思い切って詰問してみた。
「アル。きみがそのように部屋を使うのはいっこうに差し支えないが、それにしてもほどほどにしてくれないか」
「僕も彼女も、君がこの部屋にいたってちっとも気にしないよ。どうぞ自分の机で勉強してくれたまえ」
 アルは平然と言ったものだ。(中略)夜更けに帰室してみたが、まだドアが開かないのだ(数か月後のこと)。血が頭に一挙に駆け上がった。私はドアを乱打した。
「ジャスト・ア・モーメント………」
 ドア越しにバタバタ走り回る足音がした。さらに激しくノックした。
「アイ・セッド・ジャスト・ア・モーメント!」
 威嚇的なアルの声が怒鳴った。怒りが背筋を走り、頭のてっぺんを突き抜けた。私は拳を水平に突出し、厚さ一センチのドアを打ち砕いた。
 思えば長い間使っていなかった。中学時代から訓練を積んだおかげか、これくらいの板などわけもなかったのである。しかし、次に見た光景とその後に続く事件は、生涯忘れられない思い出になった。
 男はパンツに靴下ばき。女はシーツに身をくるみ、ベットで震えていた。アルは必死にドアの前に立ちはだかった。その目は瞋恚(しんい)の炎に燃えていた。(中略)
「決闘しよう!」
「オーケー、今すぐやろうぜ」
「いや、今は女がいるからまずい」
(しかし、アルは決闘場所に指定した時刻に来なかった)(中略)
事件の二日後、私は学生係のスピアー教授に呼び出された。アルバートが駆け込み訴えをやったのだ。
「図書館であまりに長いこと寝暮らしていたもので、ついカーッとなって………」
(中略)
「今回の件は、多分クラス(身分階層)の違いから起きたんじゃないかな」
「アメリカにクラスがないように、日本にだって今時そんなものは存在しませんよ」
(中略)
「日本人の持つつつましさというものがアメリカ人には欠けている。しかしなあ、ケン。きみもきみだよ。閉めだしを食ってよくもまあ我慢していたもんだ。なぜもっと早いうちに相手に不満をブチまけなかったのかね。もっとも、そんな態度が、日本人らしいのかも知れないがね。伝統あるきみの国の人間なら、喋らなくても通ずる何か(以心伝心)があるかもしれん。しかしだ、アルが育ったようなアメリカ人の階層では、それは通用せんのだよ」
「伝統?」
と、問いかけて私は口をつぐんでしまった。二百年と二千年との相違という、単純な年代数からではない。民族的異文化の異質面を、教授は指して言っているのだろう、と直感したからである。「郷に入れば郷に従え」という。もとより百も承知の上だった。(中略)日本人的な「以心伝心」は「仲間同士」や「身内のもの」との会話において顕著に表れる。また「言わずもがな」だの「一言多い」だのという場合もある。そんな「以心伝心」は日本人たちでしか通用しないのだと思い知った。>(『悪魔のサイクル』大前研一著作30~35ページ新潮文庫)
 また20年くらい前の話だそうだが、大前研一先生が松下電器産業(現・パナソニック)の松下幸之助さんと昵懇(じっこん)な仲であるとき、米国のハーバード大学に講演に行った。後で学生をつかまえて「松下幸之助さんを知っていますか?」と訊くが、答えられない。たまに「ええ、知っていますよ」という学生がいるがそのあとに「ソニーのひとでしょう?」という。これはいかん、と思って米国に日本学や日本の会社の学問所をつくり、松下政経塾も幸之助さんの私費で、(大前研一先生献策の元)創設されるのに至るので、ある。松下政経塾は幕末の吉田松陰の松下村塾みたいなものだ。大前氏のBBTもそうだが、これは松下村塾というよりは「幕府の海軍操練所」の類であろう。
「日本維新の会・大阪維新の会」は奇兵隊、橋下徹氏は高杉晋作というところか。


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