長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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本田宗一郎 世界のHONDA本田技研を創った男連載小説2

2011年09月26日 04時15分44秒 | 日記
         2 起業と学生と






  天才とはいつの時代も孤独で、羨望と嫉妬の対象になるものである。
 本田宗一郎もそうだった。
 宗一郎の勤める『アート商会』では、そうした目が厳しく、ついに宗一郎はのれんわけという形で、『アート商会浜松支店』を設立せざる得なくなる。
 昭和二年(一九二七)に退社し、翌年支店を起業したのである。
 本田宗一郎が戦後はじめて最初に建てた工場は、ガラスもボロボロで、庭には焼夷弾の   ようなものがゴロゴロしていたという。また、家の裏には畑と肥え溜めがあって、お客がよく落ちてこまっていたという。
 そんな頃、宗一郎は「オートバイ」という目標とT・Tレース優勝と世界進出を目指した。一方、東京通信工業(のちのソニー)の工場も床も屋根も穴だらけで雨漏りした。
 故・井深大はいう。
「本田流ものづくりというのは、全部が全部ではないんですけど、目標をたてるんです。このエンジンのシリンダーの容量の馬力をうんとあげようとか初めから決めちゃう。実際にやったらうまくいかないから、技術があってもなくてもつくっていくのが本田流。私もその点では似てるかな。人より技術がわかっているふりしてるけど、技術のすべてを知っている訳じゃない。すべて知っているわけでないから乱暴なことがやれるんですよ」
 本田宗一郎は働くときは楽しく働けといっていたという。
 ではどうすれば楽しく働けるのか?
「人間というものは”得手に帆をあげ”ということばがある。ばかだばかだといっても、得手になるとかなり高い水準までやるね。
 だからみんな得手なことで働いてほしいと思うんですよ。得手だと、どんな苦労もひとはいとわないんだなぁ。人からみると馬鹿だなぁと思うことでも、得手だと本人は認められるんだ。
”脳ある鷹は爪かくす”ということばは大嫌いなんだ。
 ぼくがタカならタカで、スズメならスズメで、オレはカラスならカラスだぞって、俺はそれでいいと思うんだな。
 それを隠して得手でない仕事についたってうまくいかないな」
  本田宗一郎は妹のコトさんを「コトくん」と呼んでいたという。
 そのコトくんとダットサンにのって見合い相手の物色をする。妹がトイレを借りたり、修理道具を借りたりして、その家の”お嬢さん”の下見をするのだ。
 宗一郎のお眼鏡にかなったのが、色白で背の高いさち夫人だったという。
 本田宗一郎とさちさんは昭和十年(一九三五)に結婚した。
 夫人は「夫はやさしいひとだった」という。
 しかし夫の父つまり義父は「いつも正座して寡黙なひとだった」といっている。
 よくあんな厳格な父からあんなやわらかな息子が生まれものだわ……
 そんな冗談をいっていたという。
 本田宗一郎は家では怒ることが多かったともいう。
 どんなに忙しくとも、夕食は家で食べる。夫人は食事にふきんをかけ、温かくしておいておく。(電子レンジのない時代)しかし、冷めた飯を出すと「おひつ」を投げつけたりもした。夫人は泣きながらかたずけた。
 しかし、ついに限界がきて夫人が
「なんなら自分ひとりでやんなさい!」と激昴すると、本田宗一郎は涙を流しながらもくもくと飯をひとりで食べたという。
 そんな一面も人間らしくてほんわりする。

  昭和十一年(一九三六)、本田宗一郎は新婚ほやほやだった。しかし、夢中になったのは夫人よりもオートバイで、東京多摩川べりで開催されたレースに出場した。
 もちろん自分でつくったオートバイにまたがってオフロードを走るのだ。
 馬力もいい。
 天気もよくて壮快だった。
 宗一郎は得意満面にバイクをあやつる。しかし、そう長くは幸運は続かない。
 タイヤがスピンして、彼はバイクからふっ飛ばされた。
 大怪我を負った。
 骨折もしたし、痣もできた。
 だが、さすがは英雄である。死んだりはしなかった。
  昭和十二年(一九三七)には、宗一郎は復活し、精力的に動きはじめた。
 まず、アート商会浜松支店を発展させ、東海精機重工業株式会社を設立させた。事業を拡大した訳だ。そしてその会社の取締社長に就任した。
 戦後の本田宗一郎は従業員二〇〇〇人をかかえる『東海精機』という工場(静岡県浜松市。戦後すぐ売却)の経営者だった。
 いっぽう、ソニーをつくったひと、井深大も『日本測量器』(東京五反田)という従業員三〇〇人の経営者だった。まだふたりとも(両者とも故人)若い。
 例えば本田は、社員との雑談でおもしろいことをいっている。
「みんな会社のためにがまんして働くっていうけど、みんな自分のためじゃないか。そんな卑怯なこといわないで、自分の生活と家族の生活を守るためだってハッキリいやぁぃいんだ。ドイツ人はハッキリとパンを買うために働くっていいきってるじゃねぇか」
「なかなかそういうふうにはわりきれないのですが…」
「自分のルールを守って働く。それが会社のためになる。会社に入るときは、月給のこと金のことを考えて働く。もっと自分に正直で、素直になってほしい」
 まさしく至言である。
 きれいごとだけで世間を渡っていけるなら、そんな楽な生活はない。世の中すべてが金で買える訳ではないが、金がなければひときれのパンさえ買えないのだ。
 それが現実だ。
 聖人ぶって金などいらぬ……
 などといってみたところで、金がなければ飯も食べれない。飢え死にするしかない。
 金欲しさに売春したり、偽札つくるのは只の馬鹿だが、会社員や工員は常に月給のことを考えなければならない。
 サービス残業などさせる会社経営者は無能なのだ。そんな会社みきりをつけてスキル・アップして、ちゃんとしたまともな会社に就職すべきだ。
 大学でてればいいってもんじゃないが、日本企業の求める人材が『四年生大学卒業者』とあるなら馬鹿らしいとは思っても大学にいかなければならない。
 でなければ、学歴の関係ない分野(例えば私こと著者のような)に進出すべきだろう。 今の日本企業は大手以下中小零細にしても「大卒、大卒」と馬鹿のひとつ覚えのように崇拝している。
 どうやら彼等は大卒は優秀で、即戦力になると勘違いしているようだ。
 今の大学生が「憂える」も読めず、分数の計算もできないことなど知ったこっちゃないのだ。まず『四年生大学卒業者』であれば何でもいいのだ。
 例え専門学生や高卒の人材にすごい人間がいても、現在の腐った農協みたいな組織は大卒を求める。地方の本屋でさえ「大学生のアルバイト募集」などと腐りきった公募をするほどこの国は腐りきっている。
 こんな国に未来はない。
 現在のホンダはそうでないと祈りたい。高卒専卒は工場やガソリン・スタンドか……? こんな国に明るい未来などない。
 大卒、大卒、などと考えている限り、会社には天才や秀才は入社できない。くるのは暗記だけの陰気な拝金主義の大卒だけだ。それか馬鹿のお嬢さん事務職員……
 こんな国にしてしまった団塊の世代や日本政府を呪うしかない。
 大卒であれば優秀だなどといったい誰が決めたのだろう?
 あの松下幸之助は小卒だし、田中角栄だって小卒だ。
 そして、この本の主人公・本田宗一郎でさえ高卒なのである。
 宗一郎はピストリングの製造に取り組むいっぽう、浜松高等工業高校の聴講生として通いはじめた。学校では他の無駄なことは習わず、エンジンや旋盤、ピストンの勉強ばかりやっていたという。
 それだけ本田宗一郎も努力した訳だ。
 著者も彼の気持ちがよくわかる。著者も工業高校出身であるからだ。
  本田宗一郎は部下と一緒に油まみれになりながら、エンジンやピストンの製造開発に取り組んでいた。学校で得た知識を生かし、会社をなんとかいいようにもっていこうとしていた。

「人生で何回感動できるか」

 これがいつしか本田宗一郎の口癖になっていった。
 学歴などとは無縁の男である。
 夜はさすがに眠い。
 しかし、宗一郎は睡魔に悩ませられながらも勉強した。
 ときおり、鉛筆で掌や手の甲を差した。
 すると、少し睡魔から解放される。
 そして、油まみれの手はいつしか鉛筆の芯の跡だらけとなった。
 宗一郎は学歴がない。
 そのぶん努力した。
 努力はひとを裏切らない。本田宗一郎は努力して社長までなった。それまで「小卒、小卒」と馬鹿にされ続けた。しかし、そんなものどこふく風である。
「とにかく、俺は世界にでるんだ!」
 宗一郎の目標は大きかった。
 目標が大きければ大きいだけ努力も大きくなければならない。
 本田宗一郎は、未来への扉を自分の手で、ゆっくりと押し開いて、いった。     

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