長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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美智子皇后さま 皇室繚乱<皇后美智子さま>究極のドキュメンタリーブログ連載2

2016年03月20日 08時55分03秒 | 日記















五反田駅から十分ほどだろうか、ゆるい坂を上り詰めると眼下に落ち着いた邸宅街が拡がる。一帯は旧岡山藩主池田家の下屋敷があったことから池田山とも呼ばれているが、住所表記は東京都品川区五反田五丁目である。
その一画に新たに運営された区立「ねむの木の庭」公園がある。無機質な空間に草木を散在させただけの庭には、春の微光が射していた。入口にある石の門柱だけが風雪に耐えてきたおもむきを想起させ、この地に濃厚な歴史があったことを暗示している。
かつて、この石柱には正田秀三郎(しょうだ・ひでさぶろう)という表札が埋め込まれていた。
美智子皇后のご実家の門である。
平成十一(一九九九)年六月、秀三郎(日清製粉名誉会長相談役)が亡くなったときの遺産は三十三億円と算出された。皇后を含む四人のきょうだいに相続権が生じたが、皇后は権利を放棄され、残る三人は相続税の払いのために自宅を物納することとなった。
 かつての正田邸は取り壊され、品川区が所有する小公園にさまがわりして、今は一般公開されている。
<ねんねのねむ木 眠りの木 そっとゆすったその枝に 遠い昔の夜(よ)の調べ ねんねのねむの木 子守歌(作詩・美智子皇后)>
工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、9ページ参考文献引用

総理大臣岸信介議長から、
「皇太子殿下の婚約者を正田美智子さんと決定したいと存じますが、ご異議ございませんか」との発言があり、出席者全員の起立賛成を得て、皇太子(東宮)妃は正田美智子さんと決定された。皇太子は昭和八(一九三三)年十二月二十三年生まれ、美智子さんは翌年九年十月二十日生まれの二十四歳。
皇太子はこの十二月で二十五歳を迎えるので、ふたりは十か月違いだと会議出席者に配られた資料でも証明されている。
 直ちに宇佐美毅(うさみ・たけし)宮内庁長官から両陛下に報告がなされ、東宮御所(元・東伏見宮邸)で待機する皇太子にも戸田康英侍従から伝えられた。
工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎、11~12ページ参考文献引用
 この世紀の婚約に反対したのはNHK朝ドラ『花子とアン』の美人歌人・白蓮のモデルとなった柳原白蓮であった。当時73歳で会合で席の中央にデーンと座り、しきりに集音器をひねり回している白髪の老婆だった。
「皇太子さまともあろうものがたかが粉屋の娘にほれて騒ぐとは、外国に聞こえても恥ずかしい。皇后さまは皇后さまと崇められるようなお方でなければ私共は皇后さまとは戴けない!」
白蓮は華族の名門・柳原伯爵家の出身で、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門に嫁いで10年間の結婚生活を送ったが、7歳年下の帝大生・宮崎龍介と恋におちて駆け落ちした「白蓮事件」をおこした人物である。白蓮は平民になっていたが「旧華族」の代表のような立場だった。
“私共”とは華族や旧・皇族の連中の事で、当時は皇族は旧・皇族や旧・華族と結婚するのが一般的で、民間の正田美智子が皇太子と恋におち恋愛結婚…というのに反対していた。
美智子さまがカトリック教徒であることも問題視されていたという。
右翼思想家・荒原朴水(あらはら・ぼくすい)は反駁(はんばく)した。
「余人が話すなら色恋もきけるが白蓮がいうのは違う!」と一喝。「例え皇后さまが反対したとしても(してないが)、天皇陛下(昭和天皇)が東宮(明仁天皇・現・今上天皇)の思うとおりにすればいい、とおっしゃっているではないか!」と強く言った。
こうして会合は解散されたが、その後も白蓮などの罵詈雑言は続いたという。
小林よしのり『天皇論』小学館文庫引用

略歴[編集]
「ミッチー・ブーム」も参照
少女時代[編集]

1940年(昭和15年)頃の正田美智子
1934年(昭和9年)10月20日、日清製粉勤務の正田英三郎・冨美(1981年(昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の長女として東京府東京市本郷区(現:東京都文京区東部)・東京帝国大学医学部附属病院で誕生。
大和郷(やまとむら)幼稚園、雙葉学園雙葉小学校附属幼稚園を経て、1941年(昭和16年)に雙葉学園雙葉小学校に入学するが、1944年(昭和19年)、疎開のため、神奈川県の乃木高等女学校附属小学校(現・湘南白百合学園小学校)、群馬県の館林南国民学校(現在の館林市立第二小学校)、長野県の軽井沢東国民学校と転校を繰り返し、軽井沢にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の俵孝太郎旧居に、一時在住したこともある。
小学生時代の性格は、担任の回想では真面目な女の子・活発で勝ち気だった・神経質な性格だったとされていて、スポーツが得意な女の子だった。また、ピアノ・絵画・料理、香道も習っていた。
1947年(昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業するが、当時は五反田に在住しており通学に不便なことから聖心女子学院中等科へ入学する。1953年(昭和28年)3月、聖心女子学院高等科を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は米国の人気子役であったシャーリー・テンプルのような天然パーマだった事から「テンプルちゃん」や「ミッチ」「ミチ」と呼ばれていた。
1957年(昭和32年)聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)を首席で卒業。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた。卒業式では、総代として答辞を読んだ。美智子自身は大学院進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では合唱部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、関東学生ランキングの第4位にランクンインした。昭和29年度の成人の日記念の読売新聞社主催の感想文では2位に入選した。大学の卒業論文は『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』で大学卒業後にフランス語の勉強をしながら19世紀の児童文学の研究を続けていた。
同年8月、軽井沢会テニスコートで開催されたテニスのトーナメント大会にて当時皇太子だった明仁親王と出会う。テニスコートの誓いにちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は美智子の写真を「女ともだち」と題して宮内庁職員の文化祭に出品したが、皇太子妃には旧皇族・華族から選ばれるのが当然と考えられていた時代であり、誰も彼女をお妃候補とは思わなかったようである。
1958年(昭和33年)、ベルギーにて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、欧米各国に訪問旅行。
同年11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。同日記者会見にて、記者から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」と回答。これは流行語にもなった。また第一印象について「ご清潔な方」とした。清楚で知的な美貌を持った美智子の姿は絶大な人気を集め、明仁親王と美智子の巨大な写真がデパートに飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売される等のミッチー・ブームが起こる。テレビの受信台数も急増した。
皇太子妃時代[編集]

1959年(昭和34年)、朝見の儀に臨んだ昭和天皇、香淳皇后、皇太子夫妻

「皇太子殿下御成婚記念切手」

皇太子御成婚記念切手

1979年(昭和54年)10月、訪蘭時にベアトリクス女王夫妻と

1987年(昭和62年)10月、訪米時にレーガン大統領夫妻と
1959年(昭和34年)4月10日、皇太子明仁親王と結婚、明治以降初めての民間出身の皇太子妃となる。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まり、皇太子および同妃を熱烈に祝福した。
晴れがましいご成婚のパレード・民間での祝福ムードとは対照的に、貴賤結婚であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の“お嬢様”がいたことなどの理由から、一部の皇族・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからも一挙手一投足に至るまで非難され続けたが、一切の反論をしなかった。一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる、東久邇成子より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。またパレードの際にも暴漢が馬車を襲撃して取り押さえられる事件が起こるなどもあって苦難の日々が続いたが、皇太子および同妃は努めて献身的に公務をこなした。
このような状況にあって、皇太子明仁親王の弟宮にあたる常陸宮正仁親王は常に美智子妃を庇い、よき相談相手だった。そして、1960年(昭和35年)2月23日に第一男子浩宮徳仁親王が誕生した。出産後、昭和天皇、香淳皇后より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」とねぎらいの言葉をかけられた。また、浩宮徳仁の命名は昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年9月22日 - 10月7日、幕末より数えての日米修好百周年を記念し、アメリカ合衆国より招待され訪米。ホワイトハウスにも招待された。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。
1963年(昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同月中旬の美智子妃の生い立ちを書いた女性週刊誌連載の小説に絡む小説問題が起こった直後の3月22日に宮内庁病院に緊急入院、翌23日の午後に流産の処置手術が行われた。その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった。7月上旬から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京し、9月13日の山口国体から、段階的に公務に復帰した。なお、根拠のない中傷に対して一切非難することなく沈黙を守り、その気品ある態度に多くの国民が感銘を受け、週刊誌等の誹謗記事も終熄に向かった。
1965年(昭和40年)11月30日、第二男子礼宮文仁親王誕生。
1969年(昭和44年)4月18日、第一女子紀宮清子内親王誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。
これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止した。
1984年(昭和59年)、銀婚式となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点を付けるか」との問いに対し、皇太子が「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。
1986年(昭和61年)3月、子宮筋腫の手術を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪韓は中止になった。手術の際も皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断はぎりぎりまで下されなかった。退院の際、宮内庁病院玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。晩年の昭和天皇一家の写真にて、美智子妃が腰を悪くしていた香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。秩父宮妃とは共にマラソンを観戦した姿も目撃、報道された。また文仁親王・清子内親王は高松宮妃と関係が深く、孫のように可愛がられていたといわれる。
皇后時代[編集]

2002年(平成14年)1月、米国ブッシュ大統領夫妻と会談

2009年(平成21年)7月、カナダ訪問

2014年(平成26年)4月24日、皇居にて
1989年(昭和64年)1月7日、明仁親王の即位に伴い皇后になる。即位後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、ヴィオラを聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。
1993年(平成5年)10月20日、満59歳の誕生日に赤坂御所にて倒れる。この時期は週刊誌等により、皇后への根拠のないバッシング・中傷報道がまた復活し、精神的な苦痛から失声症となった。声が出ない間は、清子内親王が皇后の言葉を代弁したりと、常に寄り添っていた。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している。また回復時の第一声は「もう大丈夫、私はピュリファイ(浄化)されました」であり、周囲を気遣う節度と威厳ある態度に、病状回復後の国民の支持は不動のものとなった。
1994年(平成6年)10月20日、還暦を迎える。
1995年(平成7年)1月31日、天皇と共に阪神・淡路大震災後の神戸を見舞い、神戸市長田区の菅原市場にその日皇居から自ら切って持参した黄色と白の水仙を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市布引ハーブ園内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者を労る様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。
1998年(平成10年)、インドで開催された「国際児童図書評議会 (IBBY)」に際してビデオによる講演を行い、日本武尊の妃弟橘比売の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。2002年(平成14年)、スイスで開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY名誉総裁として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。
2002年(平成14年)10月20日、皇后の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で次のように北朝鮮による拉致問題についてコメントした。「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います」。
2005年(平成17年)10月20日、清子内親王降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、徳仁親王が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、文仁親王が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという。
2007年(平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。ストレス性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに欧州訪問の途についている。8月8日には須崎御用邸での静養を中止し、天皇とともに新潟県中越沖地震の被災地を訪問。
国民に開かれた皇室の想起者という評価もされるが、一方で数々の発言・行動に見られるように伝統を守ることも大切にしている。また訪問相手・周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、慈悲深い姿は多くの人々に感銘を与えている。
しかしながら、2008年(平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討されている。特に膝を痛めることが多く、2009年(平成21年)春の園遊会では、本来ならば洋装のところ和服を着用し、足を隠した。
2011年(平成23年)3月30日、 天皇とともに、東日本大震災の被災者約290人が避難している東京武道館(東京・足立区)を訪問し、膝をつきながら、一人一人を親しく激励した。



皇子女[編集]

天皇一家と諸王
皇后美智子との間に3子がいる。
浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと、1960年(昭和35年) - ) - 皇太子
礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと、1965年(昭和40年) - ) - 秋篠宮
紀宮清子内親王(のりのみや さやこ、1969年(昭和44年) - ) - 黒田慶樹夫人
逸話[編集]
誕生[編集]
第5子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、東京市内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「皇太子さまお生れなつた」(作詞:北原白秋 / 作曲:中山晋平)との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などの中には、前述の歌を未だに記憶しており、すらすらと歌うことができる者もいる(たとえば女優の森光子は2009年(平成21年)の秋の園遊会で、「天皇さまの誕生のときをいまもはっきり覚えている」といい、天皇本人の前で「皇太子さまお生れなつた」のさわりを歌ってみせた)。北原白秋は他にも幼少時代の親王を称える歌「継宮さま」を作詞している。
誕生に際して「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。
少年時代[編集]

1938年(昭和13年)、三輪車に乗る明仁親王
幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。
学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。
戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
敗戦時の玉音放送の際にはホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けるとすぐに悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。
一方で戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。
学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。
学習院時代には馬術部に所属し、高校2年生の秋以降は主将として活躍した。1951年(昭和26年)1月には、第1回関東高校トーナメントにて優勝している。
皇太子時代[編集]

皇太子時代のMGM撮影所見学、1953年(昭和28年)
1952年(昭和27年)、18歳で立太子の礼を挙行。立太子礼に際しては記念切手が発行され、その図案には明仁親王の肖像が選ばれる予定であったが、宮内庁の反対によって実現しなかった。
1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。この前年に、日本は主権を回復しており、明仁親王の訪欧は国際社会への復帰の第一歩と期待された。
出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったと言う。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した。特にNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。
大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船には、三島由紀夫も2年前に乗船し渡米するなど、多くの日本人旅行者とも縁の深い船であった。日本人向け遊具で碁盤と碁石も積まれていた。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はウィルソン号乗船中は乗り合わせた董慶稀(曹汝霖の娘)が幹事を務める一等船客対抗麻雀大会に参加し日本式のみならず中国式の麻雀も楽しんだ。クイーン・エリザベス号に乗り換えてのアメリカからイギリスへの旅路では朝海浩一郎公使や報道陣と公使持参の牌でサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。
欧州到着後は西ドイツ・ニュルブルクリンクで1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。つまり、明仁親王は日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物ということになる。平成初期のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、女王との対面まで長時間待たされた。また女王は、握手は交わしたが視線は交わさなかった。
長期にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁ウェブサイトに拠る)としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣し文部大臣の認証を受けている。
1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている。
結婚・独立後も週に一度から数度は参内し、父である昭和天皇と食事を共にすることも多かった。こうした場を通じて帝王学の教授を受けたと言われる。
諸事の決定については独立後も昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。
「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。
昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。
1960年(昭和35年)にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思っての事であったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている。
即位後[編集]
ファイル:Emperor of Japan - Tenno - New Years 2010.ogv
国民へ向かって新年の挨拶。(2010年)

2005年(平成17年)12月23日、天皇誕生日一般参賀にて

2009年(平成21年)7月15日、ハワイ州ホノルル市にて

2011年4月17日、アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントン(左)と
昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている。
1992年(平成4年)に、アメリカ合衆国第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで大統領とマイケル・アマコスト在日本アメリカ合衆国大使のペアとテニスのダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北をジョークにするなどして話題を呼んだ。
全国各地で発生した自然災害に対して、ともに悲しみ、被災者をいたわる姿勢を見せている。
1991年(平成3年)、雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を床に膝を着いて見舞った。この膝を着いて災害被災者と直に話をする天皇のスタイルはその後も続いており、皇后や皇族も被災地慰問の際にはこれに倣っている。
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生から2週間後の同年1月31日に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。この姿は日本のみならず、日本国外の新聞にも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。帰り際には、マイクロバスの窓から手を振って被災者を励ます写真も残されている。
2000年(平成12年)に噴火した三宅島へ、島民の帰島が叶った2006年(平成18年)には、火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず、三宅島を慰問。島民を励ました。
2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件に際してハワード・ベーカー駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。
2004年(平成16年)の新潟県中越地震の際には、自衛隊のヘリコプターで被災地を見舞った。2007年(平成19年)の新潟県中越沖地震に際しては、現地に赴いて被災者を見舞い、また被災者を思う心情から夏の静養を取り止めた。2008年(平成20年)9月8日、新潟県行幸の折り、被害の大きかった旧山古志村(現長岡市)を視察。その後被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ。
2005年(平成17年)の台風14号で大きな害を被った宮崎県・鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。
2007年(平成19年)の能登半島地震に際しては慰問は実現されていないが、「元気になってください」との言葉を寄せた。
2007年(平成19年)10月29日から31日まで、福岡県西方沖地震被災地を見舞うため福岡に行幸した。29日には被災者の暮らす仮設住宅を慰問、当日福岡市内は天皇の宿泊したホテルニューオータニのある中央区を中心として、朝から交通規制が敷かれ、夕方まで渋滞した。しかし警備はホテル敷地内にSPが立ち、柳橋方面に少数の制服警官が配置されるなど最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の訪問を奉祝した。翌30日には同地震により最大の被害を受けた玄界島も慰問した。
2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行ない、故人を偲んだ。会見においても、その人柄を回想していた。
2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の訪問予定に含まれていなかった韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)に皇后を連れて立ち寄った。これは天皇の意向だったとされている。
2007年(平成19年)の佐賀県行幸の際、到着した天皇を出迎えた市民の一部が自然発生的に『君が代』を歌い始めた際には、その場に足を止め、皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この訪問に際しては、提灯行列も出るなどの歓迎を受けた。
2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、慶應義塾大学創立150周年記念式典に皇后と共に臨席し「おことば」を述べた。
2009年(平成21年)10月11日には、東京海洋大学品川キャンパスで日本魚類学会の年会に参加し、東京海洋大客員准教授を務めるさかなクンと歓談した。さかなクンは懇談中も脱帽せず、そのキャラクターを特徴付けるハコフグの帽子を被ったままであったが、これを非礼とすることはなかった。
2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように異例のビデオメッセージを送ったほか、各地の避難所を皇后とともに歴訪している。
2013年(平成25年)4月15日、1泊2日の私的旅行に出掛けた。行き先は長野県で、千曲市にある「あんずの里」を散策した。定例の静養や公的行事の出席ではなく、自ら場所と時期を選んで出掛けた即位後初の私的宿泊旅行である。
人物に関するもの[編集]

1949年(昭和24年)、祖母皇太后節子(後の貞明皇后)とともに

1950年(昭和25年)、妹・貴子内親王とともに

1952年(昭和27年)、父・昭和天皇とともに

1952年(昭和27年)、弟・正仁親王とともに乗馬を楽しむ明仁親王(手前)

1954年(昭和29年)、妹・清宮貴子内親王(右)と、皇太子のプリンス・セダンの前にて

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