
「横田めぐみ」「北朝鮮拉致問題」ウィキペディア参照
北朝鮮による日本人拉致問題
北朝鮮による日本人拉致事件(きたちょうせんによるにほんじんらちじけん)とは、1970年代から1980年代にかけて、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員や土台人、よど号グループなどにより、多数の日本人が、日本から極秘裏に、北朝鮮に拉致された国際犯罪事件である。
日本国政府の認識
日本では、主権の侵害と国民の生命と安全に対して、大きな脅威をもたらすテロリズムである。北朝鮮は、長年拉致事件への関与を否定してきたが、2002年(平成14年)、平壌で行われた日朝首脳会談で、金正日が日本人の拉致を認め謝罪し、再発の防止を約束した。しかし、このことに対する賠償などは、未だに行われてていない。
日本国政府が認定した拉致事案は12件、拉致被害者は17人。
日本政府は「対話と圧力」という姿勢を継続し、「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」としている。
北朝鮮政府側は、このうち13人(男性6人、女性7人)について、日本人拉致を公式に認めており、5人が日本に帰国しているが、残り12人については「8人死亡、4人は入境せず」と主張している。日本国政府は「全員が生存しているとの前提で対処する」との立場をとっている。
また、日本国政府認定の拉致被害者の他に、北朝鮮から拉致された疑いが拭えない「特定失踪者」の解決も、日本国政府は取り組むと明言している。
北朝鮮の活動概要
北朝鮮は、国家樹立当初から武力行使を辞さぬ形で、朝鮮半島を統一することを標榜してきた(詳細は朝鮮統一問題を参照)。この点においては、大韓民国(韓国)も同じ態度のまま(李承晩の北進統一論)であったが、1950年(昭和25年)、北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争に突入した。だが北朝鮮側の事前の予期に反して国連軍が韓国防衛のために派兵し、中国人民解放軍が北朝鮮を支援(介入)したことで、国土の荒廃と南北分断の固定化を招いた。
その後の北朝鮮は、朝鮮戦争からの復興事業を一段落させた後、1960年代に入ると、大韓民国に対する諜報活動を活発化させた。時には、直接の破壊工作も行ったと言われている。その工作活動は、少なくとも1980年代まで続けられていたことが確認されている。これらについては北朝鮮側からの反論もなされている。
1970年代から1980年代にかけ、日本国内において、不自然な形で行方不明となる者が出ていた。警察による捜査や、亡命北朝鮮工作員や逮捕された土台人の証言などから、北朝鮮工作員による、日本人拉致の疑いが濃厚であることが明らかになった。
それまで主として、韓国国内で活動してきた北朝鮮のスパイ(工作員)らが、この時期以降、韓国当局の手によって数多く摘発されるなど、韓国当局による北朝鮮工作員への警戒が非常に厳しくなったことで、在日韓国・朝鮮人らを抱き込んで、韓国に入国させる形での対韓国工作活動の遂行が困難になってきた。そのため、北朝鮮当局は日本人に成り済まして、工作員を韓国に入国させる手口が有効であると考え、韓国のみならず、世界各国の出入国に便利な日本人のパスポート(旅券)を奪取するため、また同時に、工作員を日本人にしたてるための教育係としての利用、あるいは日本国内での工作活動の利便性を向上させる目的で、複数の日本人を拉致したとの指摘がある。
一方で、特定失踪者問題調査会の調査結果によると、拉致されたもしくは拉致された疑いが濃厚な者(俗に言う1000番台リスト)が失踪前に従事していた職業を詳細に調べた結果「印刷工」「医師」「看護師」「機械技術者」といった、北朝鮮が国際的に立ち遅れている分野を担う職業に集中していることが判明していること、また、これらの特殊技能を持った拉致被害者に、日本人の配偶者を与え、家族を人質とすることにより、脱北させないようにするために、日本人を拉致した例も、多数あるのではないかとの指摘もある。北朝鮮には、1970年代にはよど号ハイジャック事件で北朝鮮に「亡命」した日本人男性が少なからずおり、「国家の賓客」として扱われていた。
拉致の手口
拉致の実行については、以下のような手口が報じられている。
福井県や新潟県など日本海沿岸、鹿児島県など東シナ海沿岸に工作員を密かに上陸させ、付近を偶然通りがかった若者を暴力も辞さない方法を用いて拉致する。
日本国内に潜入している工作員や土台人が目ぼしいターゲットを決めて接近し、言葉巧みに誘い出し、誘拐する。
日本国外に在留、居留する日本人に「仕事の紹介をする」として、北朝鮮に誘拐する。ただし入国までは本人の同意を取り付けていると考えられる。
工作員が日本沿岸での工作活動中に目撃されたと思い、目撃者を強引に拉致する。
工作員の侵入地点と拉致現場が離れているケースもあり、輸送手段としての自動車の調達、潜伏先や監禁場所の手配などの共犯行為には、現地に土地勘のある在日朝鮮人の土台人が関わった可能性を指摘する声もある。
拉致実行の指令
平壌放送(AM657kHz)内の乱数放送で指令があったとの説が有力。(音声による乱数放送(A-3放送)は2000年に廃止)
また、平壌放送以外でも北朝鮮の国営放送、朝鮮中央放送内で、選曲の順番などで工作員に指令を送ったりもしていたと考えられる。
(参考として、日本側への重要な工作指令は万景峰号船内にて直接、口頭にて指令が伝達される)
拉致被害者の境遇
一部の拉致被害者は、特殊工作機関の常時監視のもと、上述の特殊技能を活かした任務や日本語文献の翻訳などに従事させられるなど、非常に不自由な生活を強いられていたとの指摘がある。脱北者によれば、拉致された日本人ひいては拉致問題の存在は北朝鮮の住民には知られていないという。餓死する子供が多発している北朝鮮の一般庶民の現状に比べると拉致被害者たちは優遇された生活を送っていたと言われているが、実際は非常に厳しい生活状況であったことが、曽我ひとみの夫のチャールズ・ジェンキンスが執筆した『告白』(角川書店 2005年)などからは伺うことができる。
拉致が日朝間で政治問題化した、1990年代後半以降は、一定地域内に各戸別に隔離された生活だったという。北朝鮮一般市民との接触は、継続的に特殊工作機関による厳重な監視下に置かれ、この時期に限らず常に遮断された状態であった。北朝鮮側は、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議で「死亡」とされた8人の死亡診断書等の資料が捏造であったことを認めた。また、横田めぐみのものとして提供された「遺骨」を鑑定した結果、日本政府は別人のものと判断し、未帰還の多くの拉致被害者は生存していると見ている。拉致被害者はこの他にも多数おり、特定失踪者問題調査会では数百人に及ぶ日本人が拉致されていることを示唆している。
その一方で、生存情報の多くを頼っていた安明進・元北朝鮮工作員が韓国で麻薬密輸・使用で有罪判決を受け、その後姿を見せていないことから、推測や憶測が混じったこれまでの情報の再検証が真相解明の為に不可欠となっている。
北朝鮮側の対応
この一連の拉致事件は長い間謎とされて来た。冷戦末期の1987年に発生した大韓航空機爆破事件の際の工作員金賢姫の証言から疑惑が浮上したが、国会においては1997年までは国交正常化等の議題になった際に懸案として出る程度であった。
1991年(平成3年)以来、日本政府は北朝鮮に対し拉致事件を提起していたが、北朝鮮側は否定し続けた。
日本では1977年に拉致された中学生横田めぐみ等に関する実名報道があってから、国会で取り上げられるなど、報道の頻度が爆発的に増えた。1997年には拉致被害者の救出を求める議員連盟が発足し、政府が7件10人の拉致被害者を認めた。北朝鮮側は「拉致は捏造」と主張し、北朝鮮系の在日朝鮮人の団体である朝鮮総連なども同様の主張をしていた。
2002年(平成14年)9月17日、内閣総理大臣小泉純一郎(当時)らが訪朝し、日朝首脳会談を行った際に、当時の北朝鮮の最高指導者(国防委員長であり、朝鮮労働党中央委員会総書記)である金正日は、北朝鮮の一部の特殊機関の者たちが、「現地請負業者」(土台人とみられる)と共謀して、日本人を拉致した事実を認め、口頭で謝罪した。これにより、5人の拉致被害者が日本に一時帰国し、間もなく本人たちの意思で日本に残ることとなった。
2004年(平成16年)5月22日、小泉純一郎の2度目の平壌訪問により、先に帰国していた拉致被害者の夫や、子供が日本への帰国を果たした。
しかし、2002年9月17日、小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮を訪問して実現した日朝首脳会談の席で、金正日国防委員会委員長は「部下が勝手にやったことだ」と北朝鮮が日本人13人を拉致したことを初めて認め謝罪したものの、すでに拉致実行組織を解体、拉致を指揮した者を処分したと伝えたが、拉致の実行犯が現在でも英雄扱いされているなど、実際に処分等は行われていない。北朝鮮は2002年9月17日の日朝首脳会談において、日本人拉致事件は解決していると主張している。
北朝鮮は「日本が解決済みの拉致問題を意図的に歪曲し誇張するのは、日本軍が過去に朝鮮人民に働いた犯罪を覆い隠す為の政略的目的に悪用する為だ」と主張している。一方で「日本が誠意を示せば、何人かは帰す」とも主張している。
北朝鮮は、日本国政府が認定した拉致被害者17人のうち、残り12人について「死亡」あるいは「入境せず」として、「拉致問題は解決済み」と説明し、その後の協力を拒んでいるが、日本政府は「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針により、解決を目指して交渉を続けている。
「北朝鮮による日本人拉致事件」については、マスメディア・更に日本国政府内でも、すべて「拉致」と総称しているが、刑法学上はすべて「拐取(海外移送目的拐取)」である。北朝鮮による日本人拉致においては、刑法上の「略取」に当たる事案(加害者による暴力行為を手段として、強制力により被害者の身体を拘束の上で移送した事案)と、「誘拐」に当たる事案(偽計を手段として被害者を騙す等によりその同意を得つつ、身柄を加害者の実力的支配内に置いた上で移送した事案)、国外移送時の状況が不明な事案に分けられる。少女拉致事案・アベック拉致事案・母娘拉致事案・鳥取女性拉致容疑事案は「略取」であり、欧州における日本人男女拉致容疑事案は「誘拐」である。宇出津事件・李恩恵拉致事案・辛光洙事件・元飲食店店員拉致容疑事案など土台人を介したものと見られる拉致事案については「誘拐」の可能性が高いが、国外移送から北朝鮮入国に至る状況の詳細は不明である。
政府認定拉致被害者
日本政府が認定した拉致被害者は次の17人、久米裕、横田めぐみ、田口八重子、濱本富貴惠、地村保志、蓮池薫、奥土祐木子、市川修一、増元るみ子、曽我ひとみ、曽我ミヨシ、松木薫、石岡亨、有本恵子、原敕晁、田中実、松本京子(肩書・年齢は当時、敬称略、被害者家族の決断により実名報道されている) 。この内5名は日本に帰国。2007年(平成19年)4月12日、警察庁はこれに加え北朝鮮工作員と結婚した日本人女性の子供2人(当時長女が6歳と長男が3歳)が1974年(昭和49年)6月中旬に行方不明になった事案について、複数の工作員関係者からの証言などから「北朝鮮による拉致被害者と断定した」と正式発表した(2児拉致事件)。よって同事案は政府認定拉致被害者にかかる拉致事件と同様に政府認定の拉致事件であるが、被害者たる子供2人が朝鮮籍であり、日本国民であることを要件とする拉致被害者支援法の認定基準には該当しないため、子供2人は拉致被害者としては認定されていない(2007年10月30日現在)。
宇出津(うしつ)事件
1977年(昭和52年)9月19日拉致東京都三鷹市役所勤務警備員男性、久米裕(1925年(大正14年)2月17日 - 当時52歳)石川県宇出津海岸付近にて失踪北朝鮮側は久米の入国を完全否認しているが、北朝鮮工作員に包摂され土台人にされた在日朝鮮人・李秋吉が「45歳から50歳位の日本人独身男性を探せ」との指示を受け、かねてから知り合いであった久米を海岸に連れ出し、不審船(工作船)で迎えに来た別の北朝鮮工作員に同人を引き渡した事実が判明している。この1件だけで、「拉致したのは13人だけ」との北朝鮮の主張は嘘であることが分かると指摘されている。警視庁公安部と石川県警察は主犯格の金世鎬(キム・セホ)を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。なおこの事件で石川県警察警備部は押収した乱数表から暗号の解読に成功したことが評価され、1979年に警察庁長官賞を受賞している。この事実は長年秘匿事項とされ、単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな話題として報道された。このことが、日本海沿岸部に居住する国民の防犯意識を弛緩させ、後述の拉致事件を招いたとする論調も一部にある。ただし、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺や、新たな情報の収集困難を招き、ひいては事件解決が困難になるリスクも伴い、警察庁の立場からは安易に公開に踏み切るわけにはいかない事情があったことも考慮する必要がある。なお、李は起訴猶予処分となり日本への帰化を許され、日本国民・大山秋吉として現在も都内で自営業を営んでいる。
少女拉致事案
1977年(昭和52年)11月15日拉致新潟の女子中学生、横田めぐみ(1964年(昭和39年)10月5日 - 当時13歳)新潟県新潟市において新潟市立寄居中学校からの下校途中に自宅付近(現中央区西大畑町、新潟大学付属新潟小学校前)にて失踪。新潟県警察は、失踪直後から誘拐事件として捜査を行ったが、何の手がかりも得られなかった。北朝鮮側の説明によれば、横田めぐみは1986年に結婚し、1987年に一児(キム・ウンギョン)を出産するも、1994年4月(2002年10月の報告では「1993年3月」としていたが後に訂正)に入院先の病院で自殺、1997年に火葬したとしている。2004年11月の日朝実務者協議を通じ、横田めぐみ本人の「遺骨」として提供された骨の一部からは、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された(「ニセ遺骨問題」も参照)。遺体は未確認。2006年6月29日に行なわれた会見で、横田めぐみの夫とされる金英男は、「めぐみは1994年に自殺した」と述べた。この発言について、彼女の両親である横田滋・横田早紀江夫妻は「予想通りの証言。こういうことを平気で言わせる国(北朝鮮)にはらわたが煮えくり返るばかりだ」とした。また、安倍晋三内閣官房長官(当時)も「発言内容は信憑性がない」とした。帰国した拉致被害者たちの証言によると、1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で曽我ひとみと同居し、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で拉致被害者田口八重子および工作員女性1名と同居していたとされている。1986年(昭和61年)に平壌へ転居した後、1994年(平成6年)頃までは地村夫妻や蓮池夫妻と同じ地区で暮らしていたとされている。1997年には、朝鮮労働党書記の一人が朝鮮総連を通さずに直接当時の橋本龍太郎政権に対し非公式に横田めぐみの生存を伝えたという報道がなされたことがあり(通知が事実であれば当然のことながら1994年死亡という自らの説明と矛盾する)、横田めぐみの火葬をしたとされる「オボンサン火葬場」も、火葬をした1997年当時には無く1999年に建設されたものだと複数の脱北者が証言している。また、帰国した地村富貴恵が「(自殺より後の)1994年6月にめぐみさんが隣に引っ越してきた」と証言している。また2011年には、韓国自由先進党議員の朴宣映が脱北者から得た北朝鮮高官の話として「横田めぐみは生存しており、知ってはいけないことを知りすぎたため日本に帰すことができず、他人の遺骨を日本側に渡した」とする証言を日本政府に伝えている。さらに週刊朝鮮の報道によって2005年に作成された北朝鮮平壌市民名簿に横田めぐみとみられる記載があったことも確認されている。なお、失踪直後に自宅近くの日本海の方から暴走族の爆音に似た音を近隣住民の多くが聞いていることがわかっており、ジャーナリストの石高健次は、1971年の加賀市沖不審船事件同様に不審船から発せられた船舶用ディーゼルエンジンの音ではないかと推測している。横田めぐみに関して中国では、彼女は病死したのでもなく事故死でもなく自殺でもなく、処刑され、骨は他の処刑者と一緒に火葬したため行方が知れず、故に偽物の骨を提出したという見方もある。横田めぐみは北朝鮮で金賢姫の同僚工作員金淑姫に日本語の指導を行っていたとされる。また、金正恩の母が早くに亡くなったため、彼を育て上げたのは横田めぐみとの説がある。
李恩恵(リ・ウネ)拉致事案
1978年(昭和53年)6月29日頃拉致東京の飲食店員、田口八重子(1955年(昭和30年)8月10日 - 当時22歳)帰国した拉致被害者たちの証言によると、1984年(昭和59年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で横田めぐみおよび工作員女性1名と同居していた。1986年(昭和61年)に平壌へ転居し、10月には地村富貴恵と平壌市内の百貨店で会っている。蓮池薫の証言によると、その後田口八重子は敵工地と呼ばれるところに行ったとされている。1987年11月の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮のスパイ(諜報員)金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の立ち居振る舞いを学んだと主張している。この李恩恵については金賢姫の供述を基に似顔絵が作られ、1988年(昭和63年)頃全国各地に「昭和55年以前に行方不明になったこの女性を知りませんか」というポスターが貼られている。その後埼玉県警察警備部の調べで1991年(平成3年)に、「李恩恵」が行方不明となった田口八重子と同一人物であると推定されている。しかし彼女の家庭が複雑な事情を抱えており、まだ幼い子供のことを考えた家族からの要請で実名での報道を控えてほしいとの要請があり、特定には時間を要した。日本の警察庁から2人の担当官がソウルへ行き、ソウル大使館政治部の警察庁出身の者を同行させ金賢姫と面会した。教育に当たった李恩恵という女性は拉致された田口八重子ではないかということで、同年輩の女性の顔写真10枚ほどが準備された。田口八重子の写真をこの中に混入し、「このなかに教育に当たった女性がいるか」と金賢姫に示した。1枚1枚写真を見ていた彼女は田口八重子の顔写真を見て、「この人です」と言ったという。李恩恵は拉致された田口八重子であることが確認された。2009年3月、金賢姫は田口八重子の親族と釜山で面会した。地村富貴恵の証言によると、北朝鮮に上陸した際、子供が日本にいるから帰してほしいと訴えたとされている。また、工作員となって海外に渡り、日本大使館に駆け込もうと計画していたが、北朝鮮側に工作員になれないと言われ断念したとされている。北朝鮮側の説明によれば、田口八重子は1984年に日本人拉致被害者(原敕晁 下記9参照)と結婚、1986年(昭和61年)の同男性の病死後、1986年(昭和61年)7月に自動車事故で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。また、李恩恵なる人物の存在を否定している。
アベック拉致事案(福井県)
1978年(昭和53年)7月7 - 8日拉致小浜の大工見習い、地村保志(1955年(昭和30年)6月4日 - 当時23歳)、被服店(ブティック)店員、濱本富貴惠(1955年(昭和30年)6月8日 - 当時23歳)福井県小浜市で拉致。実行犯は北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)である。2人は1979年(昭和54年)に結婚。1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。2002年(平成14年)10月に日本に「一時帰国」として返されたが、本人の意思を確認した上で、日本政府が強く保護し北朝鮮に返さなかった。2004年(平成16年)5月22日、日朝首脳会談の結果を受け、娘1人と息子2人も日本に帰国を果たした。
アベック拉致事案(新潟県)
1978年(昭和53年)7月31日拉致中央大学法学部生、蓮池薫(1957年(昭和32年)9月29日 - 当時20歳)、化粧品会社社員、奥土祐木子(1956年(昭和31年)4月15日 - 当時22歳)新潟県柏崎市で拉致。「ちょっと出かける。すぐ帰る。」と言って外出したまま消息を絶つ。同様に奥土も外出したまま両名が拉致される。実行犯は北朝鮮工作員、チェ・スンチョルである。2人は1980年(昭和55年)5月に結婚、1984年(昭和59年)から1986年(昭和61年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している。2002年(平成14年)10月に地村らと共に日本に帰国。2004年(平成16年)5月、残された子供(1男1女)も日本に帰国を果たした。
アベック拉致事案(鹿児島県)
1978年(昭和53年)8月12日拉致電電公社職員、市川修一(1954年(昭和29年)10月27日 - 当時23歳)、鹿児島の事務員、増元るみ子(1953年(昭和28年)11月1日 - 失踪時24歳)鹿児島県日置郡、吹上浜キャンプ場で拉致。北朝鮮側の説明によれば、2人は1979年7月(2002年10月の報告では「1979年4月」としていたが後に訂正)に結婚したが、市川は1979年9月に海水浴場で心臓麻痺により死亡。増元も1981年に心臓麻痺のため死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は、両人とも遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はなされていない。一方、北朝鮮元工作員・安明進は、北朝鮮が死亡したとした日時の後、1988年から1991年にかけて「何回も二人を見た」と証言している。
母娘拉致事案(新潟県)(娘)
1978年(昭和53年)8月12日拉致佐渡の准看護婦、曽我ひとみ(1959年(昭和34年)5月17日 - 当時19歳)新潟県真野町(現佐渡市)において母親と2人で買い物に出かけた帰り道、佐渡で拉致。1978年(昭和53年)8月18日から1980年(昭和55年)頃まで平壌市内で横田めぐみと同居した後、1980年(昭和55年)8月に元アメリカ兵チャールズ・ジェンキンスと結婚。1983年(昭和58年)6月に長女出産、1985年(昭和60年)7月に次女出産。2002年(平成14年)10月に日本に帰国。夫および2人の娘については、2004年(平成16年)5月の日朝首脳会談の結果を踏まえ、夫と子ども(2女)は北朝鮮政府の与えた虚偽情報に基づき日本行きを拒否していたが、同年7月9日、インドネシアのジャカルタにて再会し、7月18日一家4人で日本に帰国。北朝鮮は、曽我ミヨシ(46歳)については、「日本国内の請負業者が拉致し曽我ひとみ一人を受け取った」と主張しているが、日本政府は、曽我ミヨシを拉致認定している。
母娘拉致事案(新潟県)(母)
1978年(昭和53年)8月12日拉致佐渡の准看護師の母、曽我ミヨシ(1931年(昭和6年)12月28日 - 当時46歳)佐渡で上記の准看護婦と買い物帰りに同時に失踪。曽我ひとみは主張曽我ミヨシの北朝鮮拉致認定。北朝鮮側は、佐渡の准看護婦の母(失踪時46歳)は北朝鮮に入国していない旨を主張し関与を否定。消息は全く不明。
欧州における日本人男性拉致容疑事案
①1980年(昭和55年)拉致京都外国語大学大学院生、松木薫(1953年(昭和28年)6月13日 - 当時26歳)1980年(昭和55年)5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとしている。同年6月にスペインのマドリードにて拉致。松木は、石岡亨と共に「よど号ハイジャック事件」の犯人グループの妻2人(森順子・若林佐喜子)により拉致されたことが警察の調べで判明している。北朝鮮側情報では、1996年8月23日に自動車事故で死亡したとしている。2002年(平成14年)9月に派遣された日本政府調査チームは、北朝鮮側より「松木のもの」とする遺骨の提供を受けたが、法医学的鑑定の結果、別人のものであることが確認されている。また、2004年(平成16年)11月の日朝実務者協議の際に先方から提供された松木の「遺骨」である可能性があるとされた骨の一部からも、DNA鑑定の結果、別人のDNAが検出された。②1980年(昭和55年)5月頃拉致日本大学学生、石岡亨(1957年(昭和32年)6月29日 - 当時22歳)1980年5月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとされ1980年6月スペインにて拉致。1980年4月にスペインの動物園でよど号メンバーの妻2人(森順子・若林佐喜子)と一緒に撮影された写真が存在する。また、石岡亨のパスポートが北朝鮮によって偽造パスポートの原本に利用され、発効日が同じで旅券番号が異なる偽造パスポートが北朝鮮工作員やよど号グループの柴田泰弘や日本赤軍の戸平和夫が使用していたことが確認されている。北朝鮮側によれば、1985年12月に拉致被害者(下記8-3.有本恵子)と結婚、1986年に長女が誕生するが、1988年11月4日ガス中毒で一家全員死亡したとしている。1995年8月に北朝鮮側は遺体が洪水で流失したと説明しており、遺体の確認はされていない。
※ 警視庁公安部は「よど号」犯人の妻の森順子・若林佐喜子を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを求めている。
欧州における日本人女性拉致容疑事案
1983年(昭和58年)7月頃拉致神戸市外国語大学学生、有本恵子(1960年(昭和35年)1月12日 - 当時23歳)欧州にて失踪。有本の拉致については、「よど号」ハイジャック犯の柴田泰弘の妻となった八尾恵が、2002年3月12日、「私が有本恵子さんを騙して北朝鮮に連れていきました」と東京地裁で証言している。警視庁公安部は「よど号」犯人の魚本公博を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。北朝鮮側の説明によれば、有本は1985年に石岡と結婚、一児をもうけるも、1988年にガス中毒で一家3人全員が死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。
辛光洙(シン・グァンス)事件
1980年(昭和55年)6月頃拉致
大阪府鶴橋中華料理店「宝海楼」勤務の調理師、原敕晁(1936年(昭和11年)8月2日 - 当時43歳)
宮崎県青島海岸から拉致された本件については北朝鮮工作員、辛光洙が韓国当局に対し中華料理店勤務、調理師男性の拉致を認める証言をしている。本件に関連し、警視庁公安部は辛光洙を国際指名手配した。辛光洙は1999年12月31日恩赦により釈放。金大中政権の「非転向長期囚送還」により翌2000年9月2日北朝鮮に送還された。北朝鮮政府は、拉致実行犯は処罰したと説明しているが、一方で辛光洙は拉致実行後に金正日から大きな功績があったとして「国旗勲章1級」を授与され、英雄として北朝鮮の記念切手にもなっている。
北朝鮮側の説明によれば、原敕晁は李恩恵(リ・ウネ)拉致事案の田口八重子と1984年に結婚するも1986年に肝硬変で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は1995年7月遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。北朝鮮側情報では、本人の金儲けと歯科治療の意向を受け、1980年(昭和55年)6月17日 宮崎市青島海岸から連れ去った。警視庁公安部は「宝海楼」の家宅捜索を実施後、工作員の辛光洙・共犯者の金吉旭・指示役で工作機関副部長の姜海龍を国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。
原には地元長崎市に兄がおり、家族会にも参加しているが、事件がドラマのように取り上げられることを嫌い、メディアに登場することはない。
在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書に関して1989年(平成元年)、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯の釈放を求める在日韓国人政治犯の釈放に関する要望書が、当時の日本社会党、公明党、社会民主連合らの議員有志133名の署名とともに韓国政府へ提出された。その際、釈放要望対象者の中に辛光洙らの拉致共犯者・実行犯が含まれていた。その後、2002年(平成14年)9月に金正日が拉致実行を認めたあとで同年10月19日に当時官房副長官の安倍晋三が土井たか子・菅直人を名指しで「極めてマヌケな議員」と批判するなど、署名した国会議員は自民党や日本共産党から非難された。菅直人は「釈放を要望した人物の中に辛光洙がいるとは知りませんでした。そんな嘆願書に署名したのは私の不注意ですので、今は率直にお詫びしたい」 と謝罪した。公明党は、釈放要求の対象は学園浸透スパイ団事件の首謀者とされた徐勝・徐俊植兄弟で、当時の日本国内における拉致問題の認識は「北朝鮮工作員による拉致の疑い」という程度のもので、実行犯の氏名や犯行内容は全く認知されておらず、辛光洙の関与も明らかではなかったと抗弁し、また社民党も、1984年4月25日衆院外務委員会において、日本社会党の土井たか子議員が釈放について政府の尽力を求めたことに対し、安倍晋三の父である安倍晋太郎外務大臣(当時)が「内政干渉にわたらない範囲内で人道的配慮を韓国政府に絶えず求めていきたい」と答弁したことを指摘し、同罪であると反論した。一方、共産党は、要望書が提出される1年前の1988年(昭和63年)3月26日の参議院予算委員会において、日本共産党議員が辛光洙事件について質問しており、署名議員も予算委員として出席しており、当時、公明党が主張するように、署名した国会議員らがそうした事実や疑惑を知らなかったこと自体おかしな話であると批判している。また、共産党は自民党に対しては、自公連立友党の公明党議員の署名について言及しないのは二重基準として批判している。
元飲食店店員拉致容疑事案
1978年(昭和53年)6月頃元ラーメン店店員、田中実(1949年(昭和24年)7月28日 - 28歳)兵庫県神戸市灘区出身。1978年(昭和53年)6月、北朝鮮からの指示を受けた同店の店主である在日朝鮮人土台人によって、成田空港から日本国外に連れ出された後、ヨーロッパ経由で北朝鮮に送り込まれた。1994年(平成6年)6月、在日朝鮮人男性が平壌で田中という拉致被害者と会ったと兵庫県警に証言したほか、1996年(平成8年)、別の北朝鮮の元工作員が「北朝鮮工作員と『土台人』のラーメン店店主に誘い出され、ウィーンとモスクワ経由で連れて行かれた」と告白している。なお、北朝鮮側は田中が北朝鮮内に入国したことは確認できなかったと主張している。拉致被害者認定:2005年(平成17年)4月27日
女性拉致容疑事案(鳥取県)
1977年(昭和52年)10月頃会社員、松本京子(1948年(昭和23年)9月7日 - 当時29歳)1977年(昭和52年)10月29日午後8時頃、自宅近くの編み物教室に向かうため外出。近所の住人が同日夜に男と見られる2人と話している松本を目撃。話しかけたところ2人のうちの1人から殴りかかられた。その直後に、サンダルの片方を残して失踪。北朝鮮側は、入国を確認できなかったと主張している。日本国内の会社の関係者が北朝鮮の貿易会社に電話した際、「キョウコ」と名乗る女性が対応したとの証言がある。また脱北者により北朝鮮では清津市に居住していたとの情報がもたらされているほか、失踪直前に沖合いにて不審船が目撃されていたとの情報もある。2013年(平成25年)5月、ラオスで拘束され北朝鮮に強制送還された脱北者9名の中に松本の子息が含まれている可能性がある、と韓国の一部マスコミが報じたが、脱北を手配した人物に接触した韓国政府当局がこれを否定した。韓国の拉致被害者家族が組織する「拉北者家族会」は、松本は北朝鮮で結婚したが子供はおらず、2011年(平成23年)頃清津から平壌に移されたとの情報を得ていることを公表、韓国国家情報院も同様の見方をとっている。しかしこれらの情報について日本政府は「捜査中」であるとの理由から見解を公表していない。拉致被害者認定:2006年(平成18年)11月20日
政府が未認定の拉致事件
2児拉致事件
1973年(昭和48年)12月頃埼玉県上福岡市(現ふじみ野市)在住の渡辺秀子が拉致され、工作員グループによって活動拠点だった朝鮮総連の金炳植第一副議長が設立した東京都品川区の貿易会社ユニバース・トレイディングの内部で工作員の男に絞め殺されるとともに、6歳の長女・敬美と3歳の長男・剛の2人が拉致され、1974年(昭和49年)6月に北朝鮮に連行されたとされる事件。渡辺秀子殺害についての警察の事情聴取では、ユニバース・トレイディングの関係者によって「箱に入れ石を詰めて捨てた」「遺棄場所は山形と秋田の県境」などの証言がなされていたが遺体発見にはいたっていない。また拉致した際の世話役として当時55歳だった女とその協力者として2人の男がいたこともわかっておりこの3人は現在も日本にいる模様。事件が公になった当時の国家公安委員長は「拉致事件は現在も継続中であり時効は成立しない」としていたが、警察はこの3人の逮捕はしておらず事情聴取なども行っていない。
この事件の被害者の国籍が朝鮮籍であったため政府は拉致認定を見送ったが、捜査を行った警察自身が拉致事件であると断定している。
拉致問題の推移
1970年代
以上のように、拉致事件は1970年代を中心に実行された。
北朝鮮工作員の日本国内への侵入は、日本の海上警備を担当する当局の警備能力の低さから、北朝鮮では非常に簡単な任務であったと伝えられている。
領海警備を担当する海上保安庁は、当時、武装工作船への対処能力は持っておらず、また拉致そのものが表面化していなかったため、北朝鮮による隠密領海侵犯や土台人の暗躍はまったくの想定外であった。
一方海上自衛隊は、拉致といった刑事事件的な事案に関与する機関ではなく、当時はソビエト連邦の潜水艦への対処しか想定していない組織であったため、不審船の領海侵犯には無為無策であった。
他国に不法侵入して、他国民を拉致する行為は、国家の主権を侵害する行為であり、国際法上直接侵略とみなされる。その反面、国、政府も拉致を実行された自治体も国土、国民を守る体制、拉致後の拉致被害者奪還に対する対応ができていなかった、主権を守れなかったともみなされる。
1980年代
1980年1月7日、産経新聞がマスメディアにて初めて拉致事件の報道をする。タイトルは「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」。記者は産経新聞社会部の阿部雅美。
1980年3月24日、参議院決算委員会において公明党の和泉照雄はアベック失踪事件について質問。この質疑応答においては「北朝鮮」という言葉は出なかったが、北朝鮮による日本人拉致問題に連なる議題が初めて国会で取り上げられる質疑となった。
1988年1月28日、衆議院本会議において民社党の塚本三郎委員長は竹下登首相の施政方針演説に対し代表質問を行う。その中で大韓航空機爆破事件、「李恩恵」(田口八重子)および金賢姫等に言及するとともに1978年7月から8月にかけて福井県(地村保志・濱本富貴惠)・新潟県(蓮池薫・奥土祐木子)・鹿児島県(市川修一・増元るみ子)において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件について北朝鮮による犯行ではないかと指摘し、真相究明を求める。この塚本の質問は国会において初めて北朝鮮による日本人拉致について取り上げられたものであったが、竹下首相からは明確な答弁を得られなかった。
1988年3月26日、参議院予算委員会で日本共産党の橋本敦は1978年7月から8月にかけて福井県・新潟県・鹿児島県において発生した若年男女の行方不明事件、富山県高岡市で発生した若年男女の拉致未遂事件、「李恩恵」および金賢姫等について質問を行う。これに対し国家公安委員長の梶山静六は北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であることの見方を示し、真相究明のために全力を尽くす考えであることを表明した。これは北朝鮮による日本人拉致事件の存在を政府が認めた初めての公式答弁である。
詳細は「梶山静六#北朝鮮による日本人拉致を認める政府初の公式答弁」を参照
これに続き宇野宗佑外相は「我々の主権が侵されていたという問題」、「全くもって許しがたい人道上の問題」、「強い憤り」、「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁。林田悠紀夫法相は「我が国の主権を侵害するまことに重大な事件」「判明したならばそこで処置」と、更に警察庁警備局長城内康光は「一連の事件は北朝鮮による拉致の疑い」、「既にそういった観点から捜査を行っている」と答弁し、北朝鮮による日本人拉致について政府の認識を示した。
一方、1988年8月、ヨーロッパにおいて北朝鮮工作員・よど号ハイジャック事件犯人関係者に拉致された石岡亨(北海道札幌市出身)と松木薫(熊本県熊本市出身)それに有本恵子(兵庫県神戸市長田区出身)の消息を伝える石岡本人の手紙がポーランド経由で石岡の家族の元に届く。この手紙によって行方が分からなくなっていた3名が北朝鮮にいることが判明した。しかし、松木については、その手紙に正確に住所が記されていなかったため、家族には時間が経ってから知らされた。石岡・有本家は日頃から北朝鮮とパイプがあることをアピールしていた日本社会党系の政治家に助けを求めることにした。石岡の家族は札幌市の日本社会党北海道連合にも相談したが、「本部に連絡をする。国交がない国なので口外しないように」と言われた。「国交がないから」という言葉は、それ以降も外務省や様々なところで言い訳に使われることとなる。
「社会民主党 (日本 1996-)#北朝鮮による日本人拉致事件への姿勢」も参照
一方、有本の両親は上京して自由民主党の政治家に助けを求めることを決め、1988年9月、東京都千代田区永田町の衆議院議員会館に自由民主党幹事長の安倍晋太郎を訪ねる。安倍は夫妻の訴えを聞き届け、当時秘書だった次男の安倍晋三に夫妻を外務省と警察庁に案内するよう命じ、夫妻はここに至って事の次第を外務省・警察庁に伝えることができた。以後有本夫妻は安倍父子に連絡するようになり、安倍父子はこの問題に取り組むことになるが、1989年6月、晋太郎は癌を発症し入院。幹事長も退任した。以後入退院を繰り返したが、1991年5月、晋太郎は他界した。後継者となった晋三は亡父の地盤を引き継ぎ、1993年、第40回衆議院議員総選挙に立候補し当選。以後国会議員としてこの問題に取り組むことになった。
梶山の答弁以降、しばらく国会で取り上げられることはなく、警察の捜査の進捗状況や事件の真相も明らかにならないまま一般には半ば忘れられた問題となっていた。
1990年代
家族会の結成
1996年9月、『金正日の拉致指令』が出版される。著者は石高健次(朝日放送)。元北朝鮮工作員からの証言を元に取材し、日本人拉致事件の情報を公にした。
1997年初頭、元北朝鮮工作員で脱北者の安明進の証言が出て事態が動き出す。同年1月23日、新進党の西村眞悟は衆議院予算委員会に「北朝鮮工作組織による日本人誘拐・拉致に関する質問主意書」を提出し、初めて横田めぐみ拉致事案を取り上げ、政府の認識を問うた。
詳細は「西村眞悟#政策・主張」を参照
同月新潟県で「北朝鮮に拉致された日本人を救出する会」が発足し、一部の拉致被害者家族が実名公表を決める。これを受け同年2月3日、衆議院予算委員会において西村は大韓航空機爆破事件や文世光事件、金賢姫の著書などに言及しながら横田めぐみ・久米裕・田口八重子・原敕晁らの実名を挙げ、彼らが北朝鮮に拉致されていると明確に指摘した質疑を行い、橋本龍太郎首相、池田行彦外相に政府の見解を質した。大手マスコミもこれを報道し、当時13歳の中学生少女が拉致されていたという事実の指摘は国民に衝撃を与え、北朝鮮による拉致事件が広く国民に認識される契機となった。
このように国内で拉致問題が初めて大きくクローズアップされるなか、3月25日に「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(家族会)が結成され、救出活動を開始することになった。また国会内では議連結成の動きが本格化した。4月15日、自由民主党衆議院議員の中山正暉が会長となり、超党派の議員による「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟」(旧拉致議連)が設立された。同年5月1日の参議院決算委員会において自民党吉川芳男の質疑に対し、伊達興治警察庁警備局長(当時)が北朝鮮によって横田めぐみが拉致された疑いがあるとした答弁し、政府は「7件10人が北朝鮮に拉致された疑いが濃厚」と発表。メディアが拉致問題を一斉にクローズアップした。拉致問題の報道が本格的になると同時に国民の関心も徐々に高まっていった。 拉致問題解決の署名活動が行われ、1997年8月末には60万人、1年後には100万人を越えた。このうち、福井県では地元の拉致被害者の父地村保らの活動により、県民の半数の署名を集めている。
2001年(平成13年)9月11日に、アメリカ同時多発テロ事件が発生、10月30日の参議院内閣委員会にて、出された質問「拉致をテロと認識するか?」に対し、福田康夫(内閣官房長官)は「拉致はテロではない」と、拉致事件への消極的な答弁を行った。
この様な拉致事件への消極的な政治対応が一変する事件が起こった。2002年1月に、北朝鮮工作船による九州南西海域工作船事件が発生、さらに、この年のジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国大統領の一般教書演説にて、イラン、イラク、北朝鮮を『悪の枢軸』だと発言した。
2002年4月、衆議院ついで参議院にて、「日本人拉致疑惑の早期解決を求める決議」が採択される。 4月25日には新拉致議連が発足する。
2度の日朝首脳会談
2002年日朝首脳会談
2002年9月17日、小泉純一郎首相(当時)が北朝鮮の平壌を訪問し、国防委員会委員長・金正日と会談した(日朝首脳会談)。元北朝鮮外交官・太永浩によると、小泉首相は拉致を認め被害者を帰国させれば100億ドルを払うとしていた。その席で北朝鮮側は、日本人13人を拉致したことを認め、金正日総書記自らが日本人拉致事件について、「遺憾なことであり率直におわびしたい。私が承知してからは関係者は処分された」と述べ、北朝鮮側としては「実行者は英雄主義に走ってかかた一部の特殊機関の者による行為」とし、関係者はすべて処罰したと説明した。また、「死亡」したとされる8人に関する「死亡診断書」などの情報を提出したが、これらはすべて捏造であったことを日朝実務者協議(2004年11月)で認めた。日朝平壌宣言では「国交正常化の後」、「経済協力を実施」することとなっているが、日本政府は「拉致問題の解決なくして国交正常化はありえない」と繰返し述べている。
5人の帰国
その後の交渉で、北朝鮮が生存していたとした5人の拉致被害生存者については、一時帰国を条件に2002年10月15日に帰国が実現した。交渉は外務省アジア大洋州局長の田中均(当時)と国家安全保衛部第一副部長の金詰(キム・チョル)という偽名を名乗る人物(正体は副部長の柳京(リュ・ギョン))の間で行われた。田中局長は「生きている拉致被害者を4人から5人程度出せばいい」と提案、北朝鮮側が了承し、5人の一時帰国が実現した。
5人の帰国後、日本政府は世論や拉致被害者家族会の要望などにより、一時帰国した被害者を「北朝鮮へ帰す」ことを拒否し、5人の家族の帰国も要求する方針をとった。このため、北朝鮮側は「日本政府に対し約束違反だ」と主張した。このような北朝鮮政府の抗議により、その後の交渉は、北朝鮮政府が日程を決めないなどした為に中断した。
帰国した拉致被害者
地村保志・地村(浜本)富貴恵夫妻
蓮池薫・蓮池(奥土)祐木子夫妻
曽我ひとみ
小泉訪朝後の世論の大変化
ブルーリボン運動支持を意思表示するブルーリボンバッジ
2002年(平成14年)9月17日の小泉純一郎と金正日による日朝首脳会談(第1回)で、金正日国防委員会委員長が、一連の拉致事案や工作船事案を認めて謝罪した事で、状況は一変する。マスメディアは連日、日本人拉致問題を報道して北朝鮮を激しく糾弾し、国民の多くは対北朝鮮制裁を強く訴えるようになった。大韓民国の東亜日報は、当時の日本国民の激怒ぶりを「憤怒」と報じた。
報道におけるタブーとして有名であった「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国…(以後、北朝鮮と呼称する)」という呼称方法が一斉にマスメディアから姿を消し、単純に「北朝鮮」と呼称する様になった。英語圏に於いては、拉致事案を Kidnap(誘拐)から Abduction(拉致)へと表現を強めた。
日本人拉致問題を「でっちあげ」と言い続けてきた在日本朝鮮人総聯合会は、本国に梯子を外された格好となり、急遽記者会見を開き火消しに奔走したが、時既に遅かった。同時に「拉致事件に怒りを覚えた一部の日本人によってチマチョゴリを着用した女子生徒への嫌がらせ事件(チマチョゴリ切り裂き事件)や朝鮮学校生徒への暴言・暴行がある」と、朝鮮総連は主張したが、日本の警察は、それらの事件について、政治的背景はないと判断した。
在日朝鮮人のショックは、相当な物であった。金時鐘は「植民地統治の強いられた被虐の正当性も、これで吹っ飛んだ気にすらなった」と嘆き、「拉致事件に対置して『過去の清算』を言い立てることがいかに、冒してはならない民族受難を穢すことであるかを、私達は心して知らねばならない」と述べた。
北朝鮮に対して、比較的友好的な立場を採っていた人々は、日本の世論の大転換を目の当たりにして、日本人拉致事件について言及せざるを得ない状況に追い込まれ、また日本人拉致事件を『捏造』『デッチ上げ』と主張していた人々は、事実認識の誤りを撤回して、謝罪を迫られる状況に追い込まれた。なお、アントニオ猪木のようにこの世論の大転換を疑問視する発言をしている者もいる。ただし猪木は後述のSAPIOでの発言にあるように拉致問題の解決自体に否定的なわけではない。(アントニオ猪木氏、2022年死去・享年77歳)
現在、東京都の都営地下鉄各駅では、北朝鮮による東京都での特定失踪者たちの顔写真を、駅構内にポスターとして貼り付け「東京へ返せ」と訴えている。
2004年日朝首脳会談と拉致被害者家族の「帰国」
2004年(平成16年)5月22日、小泉首相は2度目の平壌訪問、北朝鮮側との会談を行い、22日中に蓮池・地村夫妻の子供たちが、母の祖国日本へ「帰国」した。また、曽我ひとみの家族は、夫が脱走・亡命した元アメリカ兵であり、アメリカ軍による軍法会議訴追の問題があるため、北朝鮮政府側に執拗に北京での面会を求められるもこれを拒否し、2004年7月9日にインドネシアのジャカルタで家族と再会。その後、7月18日家族は日本に帰国を果たした。
遺骨問題
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DNA鑑定の依頼を受けた帝京大学医学部講師、吉井富夫の鑑定により、日本政府は「遺骨」とされた骨は別人のものと判断した。但しこの鑑定では本人のDNAが検出されなかったということだけであって、これを以って別人だと断定出来るのかという声があがった(同時に鑑定を行なった科学警察研究所では「判定不能」)。特に2005年2月2日付けの『ネイチャー』誌で指摘されたことで問題が表面化した。
まず「遺骨は火葬されたものであり、DNAは残っていないはず」というものである。DNAは熱に弱いために、火葬された遺骨からDNAが検出される事自体がおかしいのではという指摘がある。 また、コンタミネーション(試料汚染)の可能性も懸念される。帝京大学が行なったDNA鑑定はネステッドPCRという方式をとっているが、この方式は非常に敏感であり、コンタミネーションに由来しない論拠を示す事が非常に重要である。 さらに、吉井はそれまで火葬遺骨鑑定が未経験で当該鑑定が初めてであったことも指摘されている。日本政府はこれらに対し、火葬した骨の一部が熱に十分さらされなかったためDNAが残存していたと説明した。遺骨は鑑定のために使い果たし、再試は困難であるとされている。
一方、元々朝鮮半島には火葬の習慣はなく、火葬されていること自体が北朝鮮の捏造を裏付けるものである、とする主張もある。前述の通り火葬に際しては、日本のように専用の施設を用いたものではなく、開放された空間で行われた、いわゆる「野焼き」に近いものだと日本国内では推定されているが、北朝鮮政府は専用の施設を使って火葬したと説明している。また、北朝鮮側の説明によれば、いったんは土葬された遺体を、離婚した夫が掘り返して火葬し、その遺骨を(現在の妻と住む)自宅に保管していたとされる。
『ネイチャー』はこの問題、特に時の官房長官・細田博之が「記事は一般論を述べており今回のケースでそうであると特定していない」と発言した事について、3月17日号に論説『政治と真実の対決』を掲載して、「日本の政治家たちは、どんなに不愉快でも科学的に信頼できないことを正視しなければならない。彼らは北朝鮮との闘いにおいて、科学的整合性を犠牲にすべきではない」と反論した。更に別人判定を下した帝京大講師がその後に警視庁科学捜査研究所の法医科長となりインタビューが事実上不可能になった事について、『転職は日本の拉致調査を妨害する』(4月7日号)で日本政府を批判している。
小泉訪朝後の政治家の動き
新拉致議連は、2002年(平成14年)9月17日の小泉純一郎首相の北朝鮮訪問を経て、参加議員が増え始めた。同年9月30日、会長の石破茂が入閣したため、中川昭一が新会長に就任した。
2002年9月の小泉訪朝後、家族会が東京都知事石原慎太郎に協力要請したことなどがきっかけとなり、救出活動は地方政界にも広がりを見せ、地方議会にも、拉致議連が結成されていった。2003年4月には、新拉致議連結成メンバーの松沢成文が神奈川県知事に、同年8月には上田清司が埼玉県知事となり、国会議員と地方議員・首長が連携した活動が活発化した。同年9月22日、会長の中川が入閣したため代表が空席となったが、平沼赳夫が閣僚から外れたため、同年10月9日、中川・安倍(新たに自民党幹事長に就任)の依頼で平沼が会長に就任した。
2003年11月の第43回衆議院議員総選挙直前の時点で、77名の国会議員が拉致議連に参加。第43回衆議院議員総選挙では、それまで地方議員として救う会などで活動していた大前繁雄(元兵庫県議会議員)が当選し、大前は直ちに事務局次長に就任。更に新たな当選者を加えて、2004年1月には188人に急増、その後も増え続けたが、実際に活動しているのは初期のメンバーが中心であった。加入してもほとんど活動しない議員も多く、2005年8月、拉致被害者家族会会長の横田滋は「拉致議連に入っている国会議員は一部で、実際に活動しているのは数人」と嘆いている。現在までに相当数の超党派議員が拉致議連に参加しているが、2009年8月の第45回衆議院議員総選挙前後の時点では、拉致議連の実際の活動は石破・中川・平沼・安倍・西村・原口一博・松原仁ら新拉致議連初期のメンバーが中心で、家族会が信頼している議員も彼らのみという。拉致議連とは別に、日朝国交正常化交渉の中で事件を解決しようとする超党派議員の動きもある。
青山繁晴が現内閣総理大臣の安倍晋三は小泉訪朝は拉致問題全体で見て「失敗」だったと考えていると主張しており、その理由として「小泉さんの個性でもある一発回答、一発解決、大歓喜の声。そういうものを求めるタイプは、強いと言えば強いけれど、そこが弱さの裏腹になってですね、そういう焦りがあったから。北朝鮮は北朝鮮で小泉さんを通じてお金をほしいものだから、焦って乱暴な回答になった」としており、安倍はこれを反省してこれらを否定する方針に切り替えたと述べている。
拉致問題の解決に関しては後述されている通り、人それぞれに多種多様な思想・方法論が存在している。
国際社会の動き
北朝鮮による日本人拉致問題について横田早紀江らと会談する当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ 左に座っている少女は瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件の家族の一人
北朝鮮側は「拉致したのは13人だけ」、「問題解決の取り決めで、死亡者8人を除く生存者5人を返したので問題はすべて解決済み」と主張している。しかし、日本側は「問題解決の取り決めなどしていない」と主張し、また、北朝鮮から死亡の証拠として出されたものはすべて捏造であるとしている。2004年5月までに、被害者5人とその子どもたち計10人は北朝鮮から帰ってきた。しかし、未だに残りの多くの被害者の消息は不明のままである。日本政府は、細田博之内閣官房長官(当時)が、「迅速かつ誠意ある対応がなければ、厳しい対応をとらざるを得ない」と制裁を示唆したが、未だに「誠意ある迅速な対応」がなされていない。政府見解に従えば、制裁の発動はなされていいと考える世論が著しく強い。北朝鮮の最高指導者が拉致に関し謝罪しているにもかかわらず、被害者情報の不審点や矛盾点に対して全容解明には応じないなどの事から、拉致被害者家族会は国連に対してもこの問題に対する協力を要請している。
来日したアナン国連事務総長(当時)は、2004年2月24日の国会演説で、この問題にも言及し、完全解決を希望し、関係者に同情する旨、述べている。
同2004年、米国議会は、上下両院にて「北朝鮮人権法」(North Korean Human Rights Act of 2004)を成立させた。
この法案に対し、南北統一に向けて北朝鮮を刺激したくない韓国与党は懸念の意を示したが、対照的に拉致被害者の家族で構成される、いわゆる「家族会」は米国政府・大統領に対し謝意と敬意を表明した。
2004年、日本では特定船舶入港禁止法、改正外為法など、いわゆる「北朝鮮経済制裁二法」が成立した。
2005年11月2日、イギリスが主導し、EU・日米など45カ国による共同提案により北朝鮮非難決議案が国連に提出され、同年12月16日に国連総会で賛成88、反対21、棄権60で採択された。中国・ロシアなどは反対。韓国は韓国最大野党ハンナラ党が政府に対して参加を求めたが、棄権した。決議案は外国人拉致のほか、強制収容所の存在や送還された脱北者の扱いについて「組織的な人権侵害」とし、北朝鮮を名指しで非難している。
また、北朝鮮の核問題を討議する六者会合にて、人権問題の作業部会の設置を検討している。
日米外相会談においてライス国務長官は拉致問題につき「全面的な支持」を表明し、米政府、デトラニ・六者会合担当特使は、拉致問題の解決が北朝鮮の国際テロ支援国家指定を解除する条件と述べ、国家安全保障会議(NSC)のマイケル・グリーン・アジア上級部長が「拉致を含め、人権問題が協議のなかで大きくなっている」と述べるなど、日米間の連携が見られる。また、米国務省で北朝鮮人権問題を担当するレフコウィッツ大統領特使は、拉致問題解決のため「可能なことはすべてやる」と述べ、全面協力を約束した。しかし、アメリカは北朝鮮に対し、テロ支援国家を解除した。(テロ支援国家を参照。)その対応に、拉致被害者家族だけではなく、日本市民からも、アメリカに対して、批判している。
また、拉致問題の存在自体を六者会合や北朝鮮との国交正常化交渉における「障害物」と位置付ける見方が一部で存在している。
北朝鮮と国交のあるベトナムは、拉致問題の解決に協力したいと、日本に支持を表明している。
2017年9月19日、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領は、国連一般討論演説において、横田めぐみを念頭に「日本人の当時13歳の少女が拉致された。彼女はスパイの養成に利用された」と述べるとともに、「北朝鮮はすさまじい人権侵害を行っている」と非難した。
2000年代(小泉再訪朝後)
2005年
2005年10月30日23時30分(日本時間)から、特定失踪者問題調査会が、北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」の放送を開始した。
なお、同会によれば放送目的は下記のような内容である。
放送目的
1.拉致被害者に対して日本で救出の努力をしていることを伝える。
2.北朝鮮当局に注意しつつ情報を外部に出してもらうよう伝える。
3.その他 今後の課題だが、北朝鮮の体制崩壊時などには避難場所等の情報を流すこと等にも使うことを想定。
2006年
2006年3月23日、警視庁公安部は「原敕晁拉致事件」に関連して、大阪市の中国料理店「宝海楼」や「在日本朝鮮大阪府商工会」などに強制捜査を実行した。2004年に大阪府議会の府議らが告発した事に伴う。中国料理店は原が拉致直前まで勤めていたところ。翌日付の産経新聞などによれば、中国料理店経営の在日朝鮮人男性(74歳)は容疑を全面否認しているという。警察は近く、韓国に在住している共犯者男性(78歳)の逮捕状も取り、韓国政府に引渡を要求する。ちなみに、2002年に日韓犯罪人引渡条約が結ばれている。
2006年4月11日、日本政府は、拉致被害者・横田めぐみ(当時13歳、1977年拉致)の「夫」の可能性があるとしてDNA鑑定を実施していた韓国人拉致被害者5人のうち、金英男(1978年拉致、当時16歳)が一番可能性が濃厚であるとの発表を行った。これを受けて、家族会は韓国拉致被害者家族会と連携する方向に動き始めた。
これに対し、北朝鮮は6月28日、金英男と母親との北朝鮮国内での再会をセッティングした。さらに翌日に金が会見を行い、「自分は拉致されたのでなく漂流中に北朝鮮に救助された」と主張した。これに対し、横田は金が横田めぐみは1994年に自殺したとする従来の北朝鮮側の主張を繰り返したことと、遺骨がDNA鑑定で偽物とされた事について怒りを表明した。この件において日本側の関係者やマスコミは一切排除されており、日韓の分断を狙ったと考えられる。
2006年9月19日、日本は北朝鮮においてミサイルや大量破壊兵器開発に関係していると疑われている15団体・1個人を対象に、国内の金融機関からの預金引き出しや日本国外への送金を許可制として事実上凍結する金融制裁を閣議決定、即日発効した。これはあくまで北朝鮮の核開発疑惑に対する国際的包囲網の一部としての措置であるが、当然拉致問題への影響も考えられる。横田夫妻は「日本の北朝鮮に対する姿勢を示している」として評価するコメントを出した。
2006年9月20日、新たな自由民主党総裁に安倍晋三官房長官が選出され、同月26日に第90代内閣総理大臣に就任した。安倍は父・晋太郎の代から拉致問題に関心が高く、2002年の帰国者5人の残留も安倍の意向が大きかったと言われているだけに、拉致問題解決に対する期待が高まった。安倍首相は早速、拉致問題担当相(塩崎恭久官房長官が兼任)と拉致担当の首相補佐官(中山恭子)を新たに設置し、自ら本部長を務める「拉致問題対策本部」の設置を表明するなど積極的な動きを示したが、相次ぐ国内問題や閣僚の不祥事などで進展のないまま翌年9月26日に首相を辞任した。後継の福田康夫首相は北朝鮮政府との対話による問題解決を表明しているが、官房長官時代の対応から被害者家族の中には福田に不信感を抱く者も多いと言われている 。
2006年10月16日、政府は「対話と圧力」という姿勢を継続し、「拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない」との方針を改めて確認した今後の方針を公表した。
2007年
2007年6月29日、韓国の聯合ニュースが金正日総書記が日本人拉致問題についての徹底調査を指示した、と報じた。
2007年10月9日日本政府は北朝鮮に対し、日本独自の経済制裁を半年間延長する方針を決定。
2008年
2008年6月11・12日、北京で行われた日朝公式協議において、北朝鮮側は従来の「拉致問題は解決済み」との姿勢を翻し、新たに解決に向けた再調査の実施を表明した。背景には米国が北朝鮮にテロ支援国家指定解除の条件として日朝関係の改善を要求するなどの圧力を掛けた事があると見られるが、調査に日本側がどこまで関与できるのかなど依然不透明な点も多い。
2008年9月1日福田康夫首相が辞任を表明。9月24日には麻生太郎幹事長が第92代内閣総理大臣に就任した。
2008年10月10日政府は北朝鮮に対する経済制裁の半年間延長を閣議決定。
2008年11月22日、新拉致議連結成メンバーの1人で埼玉県知事の上田清司は、さいたま市浦和区で開かれた「第6回拉致問題を考える埼玉県民の集い」において、「拉致問題と戦う知事の有志の会」(拉致知事会)を発足させることを明らかにした。同会の結成は宮城県仙台市長梅原克彦の提案によるものである。上田の他東京都知事石原慎太郎、千葉県知事堂本暁子、新潟県知事泉田裕彦、鳥取県知事平井伸治の5人が発起人となり、全国の知事に参加を呼びかける。当初、達増拓也岩手県知事ただ一人が不参加を表明したため、同会の会長に就任した石原は「民主党の党首の小沢(一郎)さんの出身地である岩手の知事を除いてですね……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った。家族会・救う会・特定失踪者問題調査会・拉致議連と連携して活動する方針。
2009年
2009年2月28日、前航空幕僚長田母神俊雄が名古屋の市民サークル若宮会講塾主催の講演会「拉致問題と国防」において、北朝鮮による日本人拉致問題をテーマに家族会事務局長増元照明、特定失踪者問題調査会代表荒木和博とともに講演を行い、北朝鮮による日本人拉致問題をテーマに名古屋市内で講演し「自衛隊を動かしてでも、ぶん殴るぞという姿勢を(北朝鮮に)見せなければ拉致問題は解決しない」と述べた。田母神は記者会見で「『ぶん殴る』とは具体的には何か」と質問されると「自衛隊を使って攻撃してでもやるぞという姿勢を出さないと、北朝鮮は動かない」と答え、軍事オプションを圧力の一環として威嚇することの重要性を訴えた。
2009年2月、民主党代表である小沢一郎は、「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」と金銭による解決を示唆し、一部から批判を受けた。民主党はこの発言に対する救う会からの問い合わせに対して、民主党幹事長代理から産経新聞社編集局長と政治部長宛に「記事は『事実無根の報道』」として記事の訂正と謝罪を求め、3月4日中に回答することを要請したが、産経新聞政治部長は、3月4日、文書で民主党幹事長代理宛に「正当な取材の結果得られたもので、かつ裏づけもとれているもの」とする旨を回答した。
2010年代
2011年
2011年7月6日、拉致問題対策本部本部長を務める菅直人が、拉致事件容疑者親族が所属する「市民の党」の派生政治団体に対し6250万円の献金をしていたことが発覚、拉致家族の抗議や参議院議員山谷えり子の追及を受け、謝罪した(日本人拉致事件容疑者親族の政治団体への献金問題)。菅は詳細について一切明らかにせず、また返金も求めていない。
2012年
2012年1月9日、民主党の中井洽が中国東北部で北朝鮮の宋日昊朝日国交正常化交渉担当大使と極秘会談した。金正日が死亡してから初めての会談となる。拉致問題などについて話したと見られるが、詳細は公表されていない。
2013年
2013年1月16日、拉致被害者の実弟の増元照明が「遺骨の問題からアプローチして、最終的には国交正常化という道筋を、北は策略していると思います。(中略)その策略には安易に乗らないほうがいいと思います」と発言。民主党参議院議員の有田芳生はこれに対し自身のTwitterで「人道問題を安易に「策略」と判断すれば、日朝交渉など進みはしない」などと述べた。同年3月7日、有田は安倍晋三首相に対しこれまでの内閣総理大臣が拉致問題施政方針演説で「日朝平壌宣言」「日朝国交正常化」などといった言葉を使っていたにもかかわらず「第百八十三回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説」(平成二十五年一月二十八日)で、拉致問題の解決に触れた際に「日朝平壌宣言」や「日朝国交正常化」などが使われていないと指摘した。
2013年5月14日、内閣官房参与の飯島勲が、安倍政権の要人として初めて北朝鮮の平壌を訪問。菅義偉官房長官は官邸が主導したことを認めた。飯島は15日に金永日朝鮮労働党書記、16日に平壌で北朝鮮のナンバー2の金永南最高人民会議常任委員長と会談。北朝鮮メディアは表敬訪問と報じたが会談内容は明らかになっていない。この訪朝は日朝対話の再開や拉致問題解決への道筋を探る目的とみられ、賛否両論となった。
安倍晋三首相は10月22日午前の衆院予算委員会で、北朝鮮による拉致問題について「安倍政権の間に解決させたい」と改めて強い決意を示し、「この問題は圧力に重点に置いた対話と圧力の姿勢でしか解決しない。金正恩第1書記に解決をしなければ北朝鮮の未来はないことをしっかり認識させ、真正面から取り組むよう全力を尽くす」と発言した。
2014年 - 2015年
2014年2月、国連の調査委員会は、北朝鮮による拉致や公開処刑などは人道に対する罪に当たると非難する報告書を公表した。北朝鮮による外国人拉致の被害者は世界で20万人を超えるとした。調査委員会のメンバーは、日本人は少なくとも100人が拉致された可能性を指摘し、日本は拉致被害を最も受けた国の一つとした。
2014年05月29日 北朝鮮当局による拉致被害者と特定失踪者の再調査の約束と、日本側の制裁解除を行う事がストックホルムでの日朝協議により合意され、同年7月に北朝鮮当局による再調査が行われた。しかし、翌年以降も被害者帰国はおろか再調査結果の報告すらなく、北朝鮮政府側は拉致被害者に対しての従来の主張を覆しておらず、日本側は承服しなかった事が複数の日本政府関係者によって明かされている。北朝鮮が再調査に踏み切った理由として、西岡力は経済状況を挙げており、「国内の外貨が枯渇してきたことで日本に触手を伸ばし始めたと考えられます。裏を返せば、日本が続けてきた北朝鮮への経済制裁が一定の効果を得たという事でしょう」と述べている。
参議院議員のアントニオ猪木が、SAPIO2015年2月号のインタビューで「拉致問題担当大臣が10人以上も代わっているようでは、北朝鮮側もまともな交渉をすることはできない」とし「必要があるのなら、朝鮮労働党幹部と信頼関係を築いてきた私をいつでも使えば良い。選挙で拉致問題のパフォーマンスをしている議員とは違い、自分は命がけでやる」と宣言した。
2016年
2016年2月10日、日本政府は北朝鮮による核実験と長距離弾道ミサイルの発射の強行に対して独自の制裁措置を決めた。
2016年2月12日、北朝鮮は日朝合意に基づく日本人に関する包括的な調査を全面的に中止し「特別調査委員会」を解体すると宣言した。
2016年6月9日発売の「週刊文春」に横田夫妻と孫(拉致被害者横田めぐみの娘)とされる人物らの面会写真を公開した。写真は民進党参議院議員の有田芳生が公開したものであり、2014年3月にモンゴルの首都ウランバートルにある迎賓館で撮影されたもので、拉致被害者で現在も消息不明の横田めぐみの孫で、横田夫妻のひ孫に当たる女児も写っている。それについて横田夫妻は「有田氏から写真を見せられ、一部の週刊誌に掲載する写真だと説明された。」と指摘しており、孫から写真を外に出さないでほしいと約束していたため、どこにも提供していないとしている。なお、有田は無断公開を否定し、「写真の選択をいっしょに行い、時間をかけて原稿も見ていただき、求められた加筆と訂正を行ったうえで『週刊文春』の記事になりました」と横田夫妻と正反対の主張をしている。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(「救う会」)は2016年6月9日発売の週刊文春に掲載された有田の署名記事、およびグラビアに対して横田夫妻に確認をとり、「写真は横田家から1枚も何処にも出していません」と連絡を受けている。なお、横田夫妻は 2016年6月8日付けで横田滋・早紀江両名の署名入り「皆様へ」と「マスコミの皆様へ」の2つの手書きコメントを出しており、「皆様へ」には有田の「週刊文春」掲載の写真と署名記事に対する指摘および反論が書かれている。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会は有田による入手先不明の写真公開について様々な誤解が広がっていることから、横田夫妻に直接話を聞いた。「救う会」は、有田が公開した写真を横田夫妻の所有だと虚偽をマスコミなどに伝えていたことを確認したとして有田を非難するコメントを出したうえで、有田が公開した写真の実際の入手先は北朝鮮以外には考えられないとの見解を出した。横田夫妻は写真の入手先を有田から聞いてはいないという。同年6月22日に開催された東京・文京区民センター「東京連続集会91」において横田早紀江本人の口から正式に有田とは意見が大きく異なる旨が言及された。有田は「週刊文春」の記事について、横田夫妻と公開する写真を選択し、モンゴルでの詳細を聞き、原稿も細かくチェックしたうえで記事にしたと主張しているが、横田早紀江本人は「その後の経緯は週刊文春と有田さんだけのことで、どんなものが出るかは私たちは全然知りませんでしたし、こういう文章で書いてくださいと有田さんに渡したものでもありませんし、全くノータッチで、写真の公開を了承しました。」と否定している。
2016年6月23日、外務省の金杉憲治アジア大洋州局長が、中国で崔善姫北朝鮮外務省米州局副局長と接触し、拉致被害者の帰国が重要であるとの日本政府の立場を伝達した。
2017年
2017年9月19日、米ニューヨークの国連本部でアメリカのドナルド・トランプ大統領が就任後初めて国連総会の一般討論演説で「13歳の日本人の少女を拉致した」と指摘し横田めぐみを念頭に北朝鮮による日本人拉致事件を非難した。
2020年6月5日、めぐみさんの父親・横田滋さん死去(享年87歳)
おわり