堅曹さんを追いかけて

2002年(平成14年)9月から先祖調べをはじめた速水家の嫁は、高祖父速水堅曹(はやみけんそう)に恋をしてしまったのです

被災地・名取市閖上(ゆりあげ)、石巻へ

2011-07-05 20:37:43 | 日記・エッセイ・コラム

3日(日)に息子とふたりで日帰りで東北地方へ行ってきた。


閖上(ゆりあげ)はこのブログでも何回か書いてきたように、速水家の先祖調べのときに

とても重要なことを解明できた思い出の場所である。

震災後、閖上の若者のブログをずっと読み続け、その地の変化を見守り続けてきた。

いつかこの目で確認しにいかなければ、

また、この震災の被害を映像や写真ではなく現地にいって見てこなくてはいけない、と

思い続けてきた。



朝6時20分に家を出発。

閖上までは高速を使って4時間ぐらいの予定。

10時半過ぎ、仙台東部道路の名取インターに近づいてきた。

それまでは震災の爪あとはあまりみられなかったが、

津波からの生死を分けたという東部道路にはいって

左手に見えた景色は、あっと息をのむものだった。


Img_1553 仙台東部道路からの景色


一面ずぶずぶになった田んぼ、転がっている自動車、船。

インターをでて、一般道を閖上方面に真っ直ぐにいく。

あのとき通った道を行ってみた。

閖上の五差路の歩道橋のところで通行止めになっていた。

迂回路をいく。


Img_1557 歩道橋


6年前に訪ねて話しを聞かせてもらった旅館「春日館」まで進む。

海に近づくにつれ、家はどんどんなくなる。

更地ばかりになる。

瓦礫はずいぶんきれいに片付けられて、道は車が走るには困らない。

本当になんにも無くなってしまった。

「春日館」のあった場所に着いた。


Img_1561 春日館のあった場所


片付けられ、津波にあっても残った木だろうか、それを囲むように石が積まれていた。

し~んと静かである。

何も生活音がない。

時折通る車の音だけが聞こえる。


Img_1565 閖上4丁目のあたり


Img_1563 すぐそばの閖上水門と貞山堀




ふと見ると、貞山堀沿いに仏像が二体並んでいる。

水やお賽銭が供えてある。

持っていったお線香に火をつけ手を合わせた。


Img_1564 二体の仏像


通りがかった地元の方も車をとめてお参りをしていく。

「どこからか流されてきた仏像ですか」と聞いてみると

「もともとここにあったものだけど、回りの石碑や台座はみんな流されてしまったのに、

この二体の仏像だけが残っていたんです、しかも海のほうを向いて。」

不思議なことである。

だからみなお参りをしているようだ。

とてもいとおしそうに仏像をなでている人がいた。

見ていて胸がつまる。



さて、閖上港から200mほどのところに日和山という小さな丘があり、

そこにはもともと神社があったところで、6月に仮の神社がつくられ、鎮魂の場所となっている。

そこに行ってみた。


Img_1576 日和山

Img_1585 仮設の神社

Img_1584 塔婆のところに線香を手向けお参り


次々と人々がやってきて、その丘に登り、お参りをしていく。

皆しずかに景色をみている。

どこまでも広い平地の

家の土台の区割りだけが残っている街となってしまった。


Img_1578 日和山からの景色


ところどころに建っている建物は、そばに行って見てみるとすべてが津波で抜けている。


Img_1567 残った建物


Img_1569 建物内部


日和山の駐車場に残されたバスは、これでもかというくらいに中がメチャクチャになっていた。


Img_1573 バス


通行止めで入れなかった道を逆から入ってみた。

あの時先祖のことを尋ねた古い商店があるはずだ。


訪れたその店では近所のおばさんたちが集まってきていろいろ情報や知恵をくれた。

「あそこに行って聞いてみたら」とか、

「昔こんな人はいたけど探している人じゃないかしら」等々。

この町の人たちはとても親切なんだな、と深く印象に残っている。


建物はあるだろうか。

かつて商店の並んでいた道をインターのほうに走っていくと残っていた。

あの時みたそのままの看板「吉田商店」


Img_1591 吉田商店


かろうじて建ってはいるが、近づけば津波で破壊されたまま。

ここは誰も片付けていないようだ。


Img_1593 店内


領収書や店の書類なども崩れて放置されたままだ。

天皇陛下の何かの記念メダルが入っていた箱が空のまま転がっていた。

泥棒だろうか。

心が痛む。


Img_1588 七十七銀行


Img_1596 蔵と車、船


この町には一人も住んでいる人はいない。


一時間以上閖上にいただろうか。

なにも陽をさえぎるものがないので、とても暑かった。

閖上は静かな鎮魂の地であった。



次に更に北上して石巻まで行ってみることにした。

途中津波の被害がすくなかったという「松島」によって昼食をとることに。

本来なら日曜でもあるので「観光地松島」はもっと混んでいてもいいはずだけれど、

やはり空いていた。


Img_1599 松島瑞巌寺入り口


Img_1601 松島



仙台名物の牛タン定食を食べた。

とてもおいしかった。

Img_1609 牛タン定食


海に面している店はまだ半分ぐらいは閉めたままだ。

松島自体の風景も美しさが半減した感じだ。

そのなかでも遊覧船の乗車を仮の事務所で必死で宣伝している観光業者の姿が切なかった。



さて松島から40分ほど走ると石巻である。

途中、こんなところにという場所に仮設住宅が建っているのを何ヶ所かみた。



石巻の市の中心部に近づくにつれ、津波の被害がすごいのがわかる。

まだ信号がつかない交差点がいくつもある。警察官が整理をしている。

道路もかなりデコボコで、水溜りが深いと水没しそうで、気をつけて走る。

旧北上川沿いの門脇町に入った。


Img_1612 門脇町


地盤沈下もしているようで、まるでゴーストタウンのようだ。

ここも音がない。

家は流されてはいないが、中はみんな抜けている。


市の真ん中に、ここにも日和山という場所がある。

こちらはずっと大きな山である。

神社がありそこの公園にいってみた。


Img_1616 日和山公園


町の海側が一望できる。

津波で何もかもさらわれた無残な光景であった。


Img_1625 日和山公園からの景色


Img_1620 景色


Img_1621 中瀬





下におりて港をめざした。

コンビナートなどがある石巻工業港。

巨大な建物群がかろうじて建っているが、近づくとひどい状態である。

そこより内陸の住宅や商店、会社のある場所は

全くひとたまりもなく津波に襲われたことがわかる惨状が残っていた。


Img_1633 牛角の店

Img_1631 かろうじて残ったお寺での慰霊祭告知



漁港のほうへいってみた。

五月のGWの頃訪れた知人から臭いがすごかった、と聞いていたが、

もうそれほどではなかった。

魚類や加工物などの廃棄はすんだのかもしれない。


ただここも信号がまったくダメで、すべての交差点に警察官が立って整理している。

まだ電気が復旧していないのだろうか。

道路がとてもひどい。

漁港も日曜日だからかもしれないが、人がほとんどいない。


Img_1637 漁港


ガランとしていて、どこがどう復旧しているのか、という感じである。

集められた瓦礫はとんでもない量が海岸沿いにあつめられ、

壊れた車の集積場も、ものすごい量で圧倒されるほどだ。

どこをみても言葉がでない。



注目され、報道されている石巻という被災地であるが、

4ヶ月近くたってもこのような状況とは、はじめのころは一体どんなだったのか

想像することすらわたしにはできない。

町が大きくてまだ復興というより、復旧にむけて時間がかかるだろうということだけは

実感した。



石巻には2時間くらいいた。

夕方5時をまわり、帰路につく。

車で走っていて、どこも自動車販売店だけが元気だった。


Img_1643 石巻の自動車販売店


目いっぱい車をならべ、のぼりをたて、閉店している他の店の急造りの自動車屋もいくつもあった。


閖上に本社や工場があったささ蒲鉾の「佐々直」が6月にやっと再開したというので、

バイパスの直売店に寄ってたくさんお土産を買った。


Img_1644 「佐々直」中田バイパス店


Img_1652 笹かまぼこ


Img_1656 旬海漬と牛タン


高速のサービスエリアなどでも東北の大好きなお菓子を買った。


Img_1650 「萩の月」「ゆべし」


何もできない私のささやかな復興支援である。


Img_1646 帰りのサービスエリアで


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