海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「オサマ・ビン・ラディンの先輩」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2007年05月09日 | 人物
彼は聖戦を誓い、テロ攻撃で数千人を殺させた。西欧の兵隊は、彼を毎年、追跡したが、この狂信的な説教者を捕らえることはできなかった。このパシュトウーン族は、巧みに山の中に隠れ、そこから、彼の血なまぐさい攻撃を操った。繰り返し彼は追跡者達の網の目をかいくぐった。
この話は、オサマ・ビン・ラディンについての話でもないし、タリバンの指導者モハメド・オマール師についての話でもない。そうではなくて、それはアリ・カーンまたの名、「イピの説教者」についての話だ。彼はイギリス兵の間では、1930年代から1940年代にかけて、「死刑執行人」として知られていた。この伝説的な戦士は、70年前に今日のアフガニスタンとパキスタンとの間の国境地帯で、悪逆非道を行った。それは、まさに、5年前に連合軍がビン・ラディンを追跡し、タリバン兵が、新たな攻撃を行うために、退却した地域である。
 そこには、明らかな並行性がある。今日のもっとも追求されているテロリスト達と同様、ミルザ・アリ・カーンは、文字通り、険しい峡谷と部族の支配する洞窟のなかに消えたのだ。ワジリスタンは、想像できる限り、最も困難な軍事作戦地域である。「この地域で誰かが見つかりたくないと思ったら、彼は見つけられない」とパキスタンの外交官フセイン・ハッカーニは言う。「近代的な監視テクノロジーを使ってもだめだ。」
このことから、今日、ビン・ラディンやオマール師は、彼らのイスラム主義的先駆者と同様に利益を得ている。
 アリ・カーンの支持者達は、彼に隠れ家を提供し、彼らの熱狂的な信奉者から戦士を募集した。その数は40万人にのぼり、その半分が近代的な銃を持っていた。軍事史の専門家であるアラン・ウオレンは、このパシュトウーン族に「救世主的な次元」を持たせている。
 彼の人物の周りには神話が付きまとっている。彼は、霊的な力で杖を銃に変えた。両手で持てるぐらいのパンで、いつでも多数の人間を手に入れた。いつの間にか、彼の追跡者は興味を失い、別の敵が正面に現れた。ハッカーニは、恐らく1960年頃、自然な死を迎えた。
 1941年にはナチ政府は、ファキルと連絡を取るために、諜報員をカブールに送った。彼は協力者だと見なされた。彼が英国人に対する聖戦を呼びかけたとき、ドイツを引き合いに出したそうである。ドイツの作家であるハンス・ヴァルターは、1941年に『イピの説教者への逃走』という小説の中で、説教者に次のように言わせている。「世界をイギリス人の奴隷支配から救うために、西ヨーロッパで、ある偉大な民族が刀を取った。」
 大英帝国の敵の中で、ミルザ・アリ・カーンは第二次世界大戦の前には、本当にユニークであった。「彼はインドの藩侯が臣下の中に見出した、もっとも断固たるもっともしぶとい相手だった」とミラン・ハウナーは彼の論文「帝国に立ち向かった男」の中で書いている。「ゲリラの指導者としては、彼は敵対する戦闘法の選択では、妥協を知らず、頑固で、躊躇うことがなかった。」
 更にハウナーは、「これには待ち伏せ、誘拐、脅迫など部族の戦争指導の伝統的な方法が含まれていた。」これもオサマ・ビン・ラディンやオマール師と共通である。ミルザ・アリ・カーンは、お金の武器に関して、アフガンの役所に支持されていた。特に彼が彼によって要求された独パシュトウーン族の独立のシンボルとなった後では。タリバンと彼の同盟者が追求している目標は、パシュトウーン族の指導の元にあるイスラム的カリフである。
 1938年7月25日の『ロンドン・タイムズ』のファキルについての記事では、「インド帝国のもっとも荒れ果てた部分は、貧乏で山ばかりのワジリスタンであって、それはインドの領土の北西部にある広さ1万平方キロの土地である。その部族達は英国の支配に一度も従ったことはない。37才のファキルは、熊のように丈夫な男で、自分の名前を、ワジリスタンのイピから取った。
[訳者の感想]「歴史は繰り返される」ということの証明みたいな話です。
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