海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「イラクで19万挺の自動小銃が行方不明に」と題する『ヴェルト・オン・ライン』の記事。

2007年08月07日 | イラク問題
アメリカ国防省は、イラクで約19万挺の自動小銃とピストルが行方不明になっていることについて憂慮している。米国議会のある調査報告によると、国防省は、武器の痕跡を見失なったとのことである。これらの武器は、2004年と2005年にイラク治安部隊に与えられた。けれども、現在、それがどうなったかについての陳述がない。
 米国の会計検査院の報告書によると、アメリカ軍は、米国が2004年から今年の初めまでにイラク治安部隊に与えた武器の30%について何が起こったか知らない。2003年以来、米国は、イラク軍を武装させるために、192億ドル(2兆3000億円)を支出した。
 イラク治安部隊の有効性は、ワシントンでは米軍撤退の重要な条件だと見なされている。国防省は、最近、更に、治安部隊の訓練と装備のために、200万ドル(2億4千万円)を議会に要求したばかりである。
[訳者の感想]「こりゃだめだ」というのが私の感想です。反政府勢力は、今や、米国の武器でイラク軍や米軍を相手に戦っているのでしょうか。サウディ・アラビアや湾岸諸国にも武器を供給する約束をライス国務長官は、したらしいのですが、それがアメリカのために使われるかどうかは怪しいと思います。ベトナム戦争の時でさえ、これほどひどくはなかったと思います。政府軍で武器をもらうと、そのまま反乱軍に寝返りという連中がいるのかもしれません。それにしても、これほど大量の兵器をどうやって運んだのでしょうか。そしてそれをどうしてアメリカ軍は見逃したのでしょうか。まさか、米軍のなかに反乱軍を助けているグループがいるということはあり得ないと思うのですが。
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「女性の自爆テロ、食い止める」と題する『ネット新聞』の記事。

2007年06月06日 | イラク問題
警官達は、落ち着いて、バグダッドの警察署前の警官募集所の前の自爆テロを不成功に終わらせた。黒いチャドルを着た暗殺者は、「立ち止まれ」という呼びかけを無視したので、警官は彼女に銃を発射したとイラク内務省は、火曜日に公表した。
直ちに爆弾は破裂し、女性はその場で死んだ。三人の警官が負傷した。
その間、バグダッド西部のラマディで、自殺テロリストは、自動車で規制地点まで進むことに成功し、爆弾を破裂させた。少なくとも6人の警官が負傷し、一人の男性が死んだ。
イラク北部のテロで、数人のイラク兵が殺された。それ以外に、国中で多数の拷問された人の死体が発見された。イラク駐留米軍最高司令官デイビッド・ペトレアスは、CBSテレビに対して、暴力行為は最近非常に増えたということを認めた。
去る二月に追加の3万人の兵士がバグダッドに派遣された後、テロ行為は減少したが、五月になると明らかに増加したとペトレアス大将は認めた。AP通信社の計算では、先月、少なくとも2,155人のイラクの民間人がテロあるいは、他の政治的動機による犯罪で命を失った。
暴力行為は、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、400万人以上のイラク人を家から避難させた。約220万人は、外国に避難した。更に200万人が国内で避難していると、高等弁務官の広報係のジェニファ・パゴニスは、ジュネーブで述べた。それによると、140万人は、シリアで難民になり、更に75万人がヨルダンにいる。避難民の多くはバグダッドか、その近い周辺地域から来ている。
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「戦争の権威はいるか?」と題する『スレート』紙の記事。

2007年04月14日 | イラク問題
 ブッシュ大統領のイラク政策が失敗の運命にあるということを誰かが疑っているとしたら、彼らは「戦争の権威」を探しても無駄だったという話を聞いて疑いを晴らすべきだ。
4月11日に『ワシントン・ポスト』紙にピーター・バーカーとトーマス・リックが書いた物語は、イラクとアフガニスタンにおける戦争を概観して、国防省に権威をもって指図できる「強力な権威」を探している大統領官邸の秘密の試みについて語っている。話の落ちは、少なくとも三人の四つ星退役将軍が、君たちはこの仕事に興味があるかと聞かれて、皆、首を横に振ったという点だ。
 これらの拒否の重要性について、はっきりさせよう。将軍達は内気さで将軍になったのではない。彼らは普通、自信たっぷりで、自説を曲げず、多くの場合、傲慢である。退役将軍は、もし自分たちがまだ現役だったら、自分たちがどれほどあれこれのヘマを処理するか他の退役将軍と語るのが好きだ。
 言葉を換えるならば、数人の退役将軍がイラクでの失敗を解決するための素晴らしいアイディアを持っていたら、そして、大統領が彼らに彼らがしたいと思うことをする権威を与えたならば、前に出て責任を取ることを躊躇する者はあまりいないだろう。
 ブッシュが誰も見出さなかったということは、次の三つの可能性を示唆している。第一に、将軍達にはうまい考えがない。第二に、彼らは自分たちが白紙委任状を本当にもらえると思っていない。そして、第三に、ある程度、両方が当てはまっている。
 アメリカの政策については、「権威」の歴史がある。灰色の服を着た傑出した人物が、大統領によって厳かに任命され、目先の難問を解決するのである。対象が、麻薬であれ、インフレであれ。その歴史のどのページもフラストレーションと苦悩の物語である。
失敗の理由はどの場合にも同じだった。
第一に、問題の源泉が、一人の人の理解力を越えている。
第二に、大統領が権威を指名する理由は、普通の政府の省庁が失敗したか、何をしたらいいか分からないからである。
 第三に、「権威」は、互いに衝突する委任を与えられるかもしれないが、彼らは政策を決定する力を与えられていない。大統領が健全な政策を持っていない場合、大抵の効果的な調整者は、重要なことを解決できない。
 第四に、部外者は、どれほど賢くて尊敬されていても、可能な政府省庁の責任者ほどは、問題を良く把握していない。把握している場合でも、彼はこれらの省庁が自分の指図に従うように強制するに「てこ」をコントロールできない。
 第五に、(任命された権威以外に)誰もがこれらすべてを理解していて、つまり、これらの企て全体が大統領が何かをしようとしているように見せかけるための宣伝の曲芸であること、賢明な部外者でも奇跡を起こすことはできなかったということが明白になった後、大統領に非難を免れさせる曲芸であることを理解している。
 戦争の権威についても事情はおなじである。これが星の数に相応しい将軍が誰一人この仕事を引き受けなかった理由である。
 『ワシントン・ポスト』紙の記者との対談を記録することを許可したシーハン将軍は、要点をはっきりさせた。「非常に基本的な問題は、彼らが一体どこへ行こうとしているのか分からないということだ」と述べた。
 シーハン将軍の指摘よると、もう一つの問題は、「俺たちは勝つのだ」と信じているチェイニー副大統領で、彼は、責任ある出口を探している政府のプラグマチストよりも遥かに大きな影響力をまだ持っている。言い換えると、シーハンは、自分が仕事を引き受けた場合、自分はいつもチェイニーに裏を掻かれるだろうということをよく知っている。
 国防長官のロバート・ゲイツも同じぐらい自己放棄に傾きがちだ。彼は「戦争の権威」を次のように描いている。例えば、現在イラク駐在の最高司令官であるデイビッド・ペトレイアス将軍が何かを頼んだ場合、あるいは、それが官僚政治のために、あまりにゆっくりしか進まなかった場合、彼が次官を呼んで、「大統領は、なぜ君たちが頼んだものを供給しなかったのか知りたがっているぞ」という権限を与えられているかどうかが問題だ。
 実際には、国防省、国務省、他の省庁に指図する権威を持った役人がいるのだ。その男は、「米国大統領」と呼ばれている。
 ラムズフェルドの言葉を書き換えると、「君は戦争が行われている場所へ、君が一緒になった役人と一緒に行くのだ。」イラク戦争の問題は、われわれには「戦争の権威」がいないということではない。問題は、戦争がイラクで行われていて、ジョージ・W・ブッシュが大統領だということなのだ。
[訳者の感想]フレッド・カプランが書いた優れた論説です。この『スレート』という新聞(雑誌?)の性格はよくわかりません。しかし、イラク問題の解決にとって、今や最大の障害は、ブッシュ大統領自身だということがはっきりしました。しかし、この大統領以外の「権威」を見つけられないのは、アメリカの悲劇だと思います。
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「イエスと特殊部隊」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年03月09日 | イラク問題
あなたは、アメリカの戦争映画を見たことがあるか?例えば『ブラック・ホーク・ダウン』や『ジャーヘッド』のような映画だ。もし見たことがなければ、それも悪くはない。
戦争映画では、時に大胆に見える男達が、ひげ面で、日焼けした顔をして、軍服は着ていないが、重武装をしている。それが特殊部隊だ。彼らは敵の陣地の背後に回り、馬に乗って砂漠を行ったり、鞍にはドル札の入ったトランクを積んでいる。そういう風に、戦士達は気分を転換させられたそうだ。ドイツでは、特殊部隊は、KSK(特殊兵のコマンド)と呼ばれる。誰も彼らが何をしているか知らない。一切は高度に秘密である。彼らは質問する前に撃つと言われている。そうなら、質問はもはや必要ではないだろう。人々は彼らをバイソンのように扱う。つまり、彼らの目をじっと見たりしない。彼らの一人の写真を撮ろうとしてみるがいい。うまく行ってもあなたはカメラを失うだろう。
最近、私はバグダッドの空港に座って、ヘリコプターを待っていた。太陽は照りつけ、素晴らしいイラクの冬の日だった。私も髭を生やしている。私も日焼けしている。私はドイツの家で二三回日光浴をしたからだ。目的は、灰色の冬の日に私の脳の中のエンドルフィンの量の均衡を保つためだ。だが、それ以外は私は、特殊部隊のメンバーとは、共通点はない。そういうわけで、私は私の防弾チョッキの上に戦闘用のズボンを履いて横になり、キャメルを吸っていた。
しばらくして、一人の兵士が私のほうへやってきて、私と並んで砂利の中に腰を下ろした。「神の祝福がありますように」と彼は言った。私はうなずき、彼は質問もしないのに自分のライフヒストリーを話し出した。
彼が意気阻喪して第一次湾岸戦争から帰ってきたこと。二度と戦争に関わりたくないと思ったこと。だから、彼は軍隊を辞めた。彼がアルコールにおぼれたのは馬鹿だったと彼は続けた。それが理由で、妻は彼の許を去った。米国がイラクに侵入した後で、ある夜、夢でイエス・キリストが現れた。「もう一度陸軍に入れ」とイエスは言った。「イラクへ行って不信仰者を真の信仰に改宗させよ。それがお前の使命だ。」彼はその命令に従った。「イエスは、私の救いだった。」だが、イエスはモスレムがなかなか改宗されないということは言わなかった。「だから、こいつらの多くを殺さなければならないのだ」とその兵士は言った。「それは腹立たしい。だが、それ以外に道はない。」一体私が陸軍で何をしているかって?私的な保安サービスの特殊部隊か?」
「何だって、いや、私はジャーナリストだ」と私は言った。
「やれやれ。」
彼は立ち去りはしなかったが、それ以上は何も言わずに、立て続けにタバコを吸った。ちっと後で、もう一人の男がわれわれに加わった。ひげ面で、カーキ色のズボン、M4自動小銃を持っていた。彼は私を「バディ」と呼んだ。「仲間」という意味だ。彼もすぐに自分の身の上話を始めた。私が本を読もうとしていることは、彼らのどちらにも
興味はなかった。「あのころ、俺は特殊部隊にいた。何という時代だったか。」
イエスが夢に現れたという男が「ねー、君」ともう一人に呼びかけた。何の反応もない。
「自分がこのような出動をするには歳を取りすぎているのは残念だ」とひげ面の男は言った。「腰にはまだ砲弾の破片が入っている。アフガン土産だ。」だから、彼は現在、私営の保安会社で車列を警備している。「沢山の金が手に入る」と彼は言った。
「ねー、君」と私の隣の男が呼びかけた。だが、それには何の反応もない。
それから彼はまたもや敵の前線の背後でのテロリスト狩りの滑稽で秘密の細部について物語った。
「それで、君のイラクでの仕事は何かね。特殊部隊か、それとも、海兵隊か?」と彼は尋ねた。
「おい、今度は俺の言うことを聞けよ。そいつはジャーナリストなんだ。」
ジャーナリストは、特殊部隊の天敵のようなものだ。それとも逆か。
私を「仲間」と呼んだ男は、今度は「あぶくだ」と言った。そして二人は消えた。
これは私にはいささか不愉快だった。だって、私はその間中一言も言わなかったからだ。
[訳者の感想]『ヴェルト』紙のイラク特派員カルステン・シュトルメの書いた「イラク日記」という連載記事です。
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「戦争に勝つのに六ヶ月」と題する『ガーディアン』紙の論説。

2007年03月03日 | イラク問題
元国防省次官でハーバード大学の人権専門家であるサラ・シューオールが、『ワシントン・ポスト』紙のための最近の記事でアメリカのイラクにおけるジレンマをこう述べた。
それでは、ペトレアスと彼のチームは、どのように事を運んでいるのか?
『ガーディアン』紙が連絡を取った元の行政府高官によれば、彼の使命は、「着陸やり直し」である。要するに、イラクにおける米軍司令官にアドバイスしている将校の中のエリート・グループは、米国とイラク政府は六ヶ月で戦争に勝つか、あるいは、国内の政治的公的支持の崩壊に直面するかどちらかである。支持の崩壊によって、軍隊は急いで退却しなければならない。
ペトレアスのチームによって確認された諸問題は、不十分な地上軍と国際的連携の分解と英国軍が引き上げた後のイラク南部での予想される暴力の増大、死傷者数が増え、政治的争いが続く限りは道徳的な問題、軍が反対勢力の挑戦に対応できるときに、ホワイト・ハウスが議会に対して政策のコントロールを失うという心配などである。
これは気力をくじくリストだ。だが、ペトレアスと彼のチームとをこの早い段階で無価値だとみなすことは確かに愚かだろう。
行政府高官は、ジョージ・ブッシュの新しい前進戦略は、いくつかの成功の兆しを示している。政治的殺人は減った。イラク人部隊は、義務を示している。国民的和解のプロセスは、石油の富みの配分についての今週の合意の後、前進している。スンニー派が支配的なアンバル州でも希望のもてる兆候がある。そこでは部族長達がアルカイダや外国人ジハディストに対して背を向けていると言われる。
結局、最大の利害を持っているのがイラク政府と政党と普通の国民であるという明白な真理を無視することは馬鹿げているだろう。
確かに、ブッシュ政府は、サダムのイラクを壊した。彼らには、イラクを修理する義務がある。だが、イラクは、サダムが世界を不安定にする以前に、かなり機能不全な社会であった。長期的なイラク問題の解決は、イラク人に責任があり、アメリカ軍にはない。
時間は限られているのに、ペトレアスは、ヒマラヤほどではないにしても、山にのぼらなければならない。「ペトレアスの強力な支持者の多くは、彼の新しい任命が、見込みのない使命であることを心配している」とシューオールは言う。それが事実だと分かったら、ペトレアスは、ブッシュに対してではなくて、議会のメディアを通じてアメリカ国民に公的に言うと昨年夏に約束した。
シューオールの結論は、予見しているかもしれない。「ペトレアスは、部隊に最後の奉仕をするが、勝つことに依ってではなく、イラクについての真実を語ることによってある。」
[訳者の感想]どうしたら、イラクをもっと健全な社会にできるかという政治的構想もなしに、戦争に勝てばいいだろうと介入したアメリカには、イラク人と他の世界に対して政治的道義的責任があるだろうと私は思います。
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「私にとって、イラク戦争は間違いではなかった。」と題するロバート・ケーガンのインタビュー。

2007年02月26日 | イラク問題
ヴェルト紙:ケーガンさん、イラク戦争は、避けられる戦争でしたか、それとも不可避の戦争でしたか?
ケーガン:米国の歴史を振り返ると、不可避だった戦争なんて思いつかないね。だから、私なら、イラク戦争は避けられる戦争だったと言うだろう。アメリカが遂行した大抵の他の戦争と同様に。
ヴェルト紙:それは驚くべき言葉です。あなたは第一次大戦が、・・・
ケーガン:第一次大戦への参戦が不可避の歩みだったと言うアメリカ人は沢山は見つからないだろう。第一次大戦を不可避の戦争だったと言う十分な根拠があったとしたら、イラク戦争をこのカテゴリーに入れる十分な根拠もある。われわれがある戦争の助けを借りてより大きな災害を防がなければならない場合、その戦争は不可避だと言うならば、それはイラク戦争にも当てはまる。
ヴェルト紙:どの程度、当てはまりますか?
ケーガン:沢山の理由からだ。あのときわれわれには大量破壊兵器についての情報があった。だが、もっと根本的にならせてくれ。サダム・フセインが今日もなお政権を握っていたら、世界はもっとましだったと言えるとは思わないね。中近東は、まさに安定性の場所
ではないし、過激派がいない場所ではない。サダム・フセインがいたら、この不安定性と予測不可能性とはもっと高めるだろう。だから、私にとっては、イラク戦争は間違いではないのだ。
ヴェルト紙:米国がイラクで犯した最大の誤りは何ですか?
ケーガン:最大の誤りは、合衆国がイラク人達によって占領軍と見られることが分からなかったということだ。「占領」という概念を避けるために何でもやった。その際、「占領」とはあらゆる社会的分野で責任を引き受けることを意味すると言うことを排除した。だが、われわれは最初の日から街頭や行政や治安部門で秩序を作り出すために何でもやるべきだったのだ。それには、もっと沢山の部隊が必要だったろう。ラムズフェルド国防長官は、戦争が終わった後でわれわれを深刻な困難に導いたある戦争指導の哲学の権化だった。
ヴェルト紙:米国はイラク軍を維持すべきだったのですか?
ケーガン:サダムの恐怖政治の象徴を維持することが賢明だったかどうか、私には自信はない。ひょっとしたら、何人かの解説者が言うように、30万人のアメリカ軍を派遣すべきだったかもしれない。でも、それも解決にはならなかったかもしれない。
ヴェルト紙:異文化を完全に誤解したという事実も一役演じているのではないか?イラクを1945年当時のドイツや日本にたとえるというのは、初めから馬鹿げていた。
ケーガン:誰もそう単純には考えていなかった。ドイツ人や日本人は、もうおしまいだと感じた本当に被占領国民だったというのは、大きな違いだ。イラクではそうではなかった。それはアメリカの戦争遂行の仕方に懸かっている。戦争が総力戦ではないように気をつけた。われわれはイラク国民に対して戦争しているのではないということをはっきりさせた。だが、第二次大戦後の状況に戻ろう。当時、われわれは平和な民主主義に達する道
への一歩一歩を進んだ。アメリカ人がそれを突き動かさなかったら、何も起こらなかった。それはイラクでは違っていた。問題は、本当にまだコントロールできる時点を既に通り越してしまったのか。われわれがこのコントロールを再び手に入れうることを私は望んでいる。
ヴェルト紙:あなたがそういわれるのなら、部隊を数千人増やすという最近のブッシュ大統領の決定に満足できるのですか?
ケーガン:一方では、私は満足している。というわけは、部隊の増援が決まったからだ。そして大統領は、米国や世界の中の声に屈しなかったのだ。他方では私は、イラクに関する行政の能力が相変わらず最善のものではないということが分かっている。必要な決断がしばしば欠けている。私はわれわれのイラクの新しい司令官に期待している。彼は彼の前任者のように、できるだけ迅速にイラクから帰ることを考えるのではなくて、本当に何かを達成することを考えているからだ。
ヴェルト紙:イラク戦争は、テロに対する戦争の枠内で遂行されていると言われていました。そのことは、アメリカ国民に今日も明らかなのでしょうか?
ケーガン:明らかだ。世論調査がそのことを示している。われわれが2003年にイラクへ侵攻したとき、それはテロに対する戦争の一部としての武器の行使では必ずしもなかった。
皮肉なことに、今日、イラク戦争は対テロ戦争だ。アメリカがイラクで敗北することは、彼らに信じがたい力と信頼性とを与えるだろうと言うことをアルカイダは、非常によく知っている。
ヴェルト紙:だから、早期の撤退は民主党にとっても選択にはならないのですね?
ケーガン:その通りだ。もっとも、ヒラリー・クリントンが現在そこまで行くのに驚いたが、多分それは、彼女の党の雰囲気のせいだろう。アメリカが来年イラクを出れば、イラク戦争の原因となった出来事が再び起こって、われわれはまたもや介入しなければならないだろう。だから、早期撤退を要求することは近視眼的である。(以下省略)
[訳者の感想]ネオコンのイデオローグと言われるケーガンのインタービューを訳しました。彼自身がイラクを簡単に民主化できると考えていたように見えます。
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「爆弾を作っているのは誰か」と題する『Economist』誌の記事。

2007年02月16日 | イラク問題
バグダッドの西郊外のガザリアで、アメリカ陸軍の工兵隊が操作機械を動かすにつれて、爆弾探知用ロボットが交差路をはい上がっている。主要道路にいる武装勢力からの時たまの射撃は、害を与えることなく頭上を飛んで行く。交差路の一番上には、「爆発のために作られた侵入者」あるいは略して「EFP」の疑いのある仕掛けがある。それはイラクの武装勢力がアメリカ人を殺傷できるようにイランによって供給された致命的な道ばた爆弾である。そうだとすると、これまで専らシーア派民兵によって使用された仕掛けが、スンニー派の居住地域であるガザリア南部で初めて発見されたことになる。最後にロボットが爆発物に点火する。黒い煙の柱が空に立ち上り、その後に雷鳴のような爆発音が続く。仕掛けは、EFPではないことが明らかになった。兵隊達は、彼らの巡視に付きまとうもっと多くの普通の道ばた爆弾や狙撃兵のことを気にすることに戻る。
イラクのEFPは、第二次大戦以来、戦車に対して使用された指向性爆薬技術の進歩版である。爆発は、解けた金属の鉛玉を形成し、それが大抵の車両と乗員とを貫通して引き裂く。アメリカ軍部隊は、それがイラクで使われた二年かそこらの間に、この爆弾は、専らシーア派民兵組織であるマフディ軍の拠点に現れた。これがアメリカ人アナリスト達が、それらの爆弾がイランから来たと言う根拠になっている。さらにこの武器は、イラクには存在しない金属加工機械によって作られている。この武器は、最初は、レバノンのイスラム主義者グループであるヒズボラの手元に現れたと考えられている。彼らの武器はイランから供給されている。自分達は自分たちの情報源を守るために漏洩しないもっと多くの情報をEFPについて持っているのだとこのアメリカ人達は言う。
信頼に基づいていると思われている新しい兵器についてのアメリカ人の主張は、疑いの目で見られた。それはイラク侵攻の原因の一部となった移動可能な武器実験室を思い出させるからである。「このような非難は証拠に基づいていない」とイラン外務省の広報官は言った。「アメリカには証拠を作り出す長い歴史がある。」
だが、この武器がシーア派居住地域にしか現れないことは、イラクとの繋がりを暗示している。民兵は、主にシーア派を目標に対する攻撃に応えて節約して使っているそうである。武器を供給するイランの動機は、緩やかに結びついたマフディ軍の間のネットワークを促進することであり、アメリカがイランを攻撃した場合にもっと多くの暴力行為を引き起こしうることであるだろう。
[訳者の感想]虚々実々の駆け引きというか、イランも相当な国だなと思いました。
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「サダムの将軍、大攻勢を指揮」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年02月08日 | イラク問題
バグダッドで、抵抗と兄弟戦争に対する戦争が勝利するように望まれる。軍事作戦の計画にしたがって、9万人の兵士が投入される。以前から期待されていた治安攻勢は、イラク軍とアメリカ軍部隊によって遂行される。
この作戦を指揮するのは、イラク人のアブッド・ガンバル大将である。このシーア派のイラク人は、スンニー派が牛耳っている防衛省を素通りして、直接、マリキ首相に報告する義務を負っている。
 最近の激しいテロ攻撃の後、アル・マリキ首相には、圧力が加えられている。「計画の実行を躊躇うことは、作戦の反対者達や、治安部隊の志気を低下させようとしている者達によって利用される。」
 「世界中が首都バグダッドにおける部隊の動きに注目し、勝利を期待している」とマリキ首相は述べた。特に米国は、成功を見たがっている。ブッシュ大統領は、既に繰り返し、治安状況を改善するためにイラク政府に対して断固たる態度を要求した。米国の忍耐には限りがあるとブッシュは脅した。
 治安攻勢の成功を確実にするのに、ガンバル大将は、まさにうってつけの男だ。彼にはいくつかの戦争の経験がある。彼はイランとの戦争に参加し、1991年には第一次湾岸戦争では、旅団長として、戦った。クエイトのフィアラカ島で、米軍の捕虜となり、サウディ・アラビアに収容された。そのすぐ後で、彼はサダム・フセインのイラクへ帰った。  元来、それでガンバル大将の軍歴は終わるはずだったし、場合によっては命も失ったかもしれない。偏執狂的な独裁者は、彼の将校の間にいる元戦争捕虜を全く評価しなかったからである。にもかかわらず、釈放されたガンバルは、再びフセインに仕えた。彼と彼の旅団は、フィアラカ島の勇敢な防衛のために表彰された。
 明らかにフセインは、ガンバルの忠誠心を疑わなかったのだ。恐らくマリキ首相も疑っていない。多分、ガンバル大将は、首相の第一選択ではなかった。AP通信によると、米軍からのかなりの圧力で、彼は司令官の地位を得たようだ。この情報の出所として、イラク人の将軍達が挙げられている。彼らによると、マリキ首相には、同じシーア派のモハン・アル・フレジ大将のほうが好ましかった。しかし、この人物は、「余り柔軟性がなく、十分に従順でない」と思われた。ガンバルの任命は、治安攻勢の本来の戦略家が相変わらず米軍であることを疑わせない。
 ガンバル大将の指揮下で、バグダッドは、9つの地域に分けられた。その一つ一つに、イラク軍を支援するために、600人のアメリカ軍兵士が投入されると米軍筋は述べた。多くの人たちは、この大きく構想された作戦にバグダッドと周辺の暴力を抑える最後の機会を見ている。
 公式の記録では、イラクの暴力で、2006年には、16,273人のイラク人が犠牲になった。
民間人14,298名、警察官1,348名、兵士627名が殺された。最近では、暴力が非常に激しくなったので、国連の統計では、毎日、100人のイラク人が殺されている。
[訳者の感想]イラク治安部隊を率いているのが、シーア派の大将というのが注目されます。彼が果たしてシーア派のサドル師の率いる民兵まで鎮圧できるのかが問題でしょう。
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「アメリカの情報機関、暴力の爆発に対して警告」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年02月05日 | イラク問題
ワシントン発:アメリカ情報機関は、ブッシュ大統領に対して今後18ヶ月の間にイラクで増大する危険について警告した。イラクの情勢は、「非常に危険である」とほんの一部だけ公表された報告書は、述べている。「内戦」という概念は、イラクの鍵となる局面にとって適切である。「国民の間の二極化は、増大している」情報の専門家達は述べている。
このアメリカの報告書では、「アメリカは、イラクの情勢に対して余り影響を持たないと述べている。さらなるエスカレーションの危険は、イラク治安部隊が弱いために非常に大きい。確かに報告書は、急ぎすぎた米軍の撤退に対しても警告している。なぜなら、撤退すると、イラク内部の宗教的な動機を持つ対立はさらに先鋭化するからである。
アメリカの安全保障顧問のスチーブン・ハドレイは、イラクにおける情勢が不満足であることは誰も疑っていないと述べた。確かに内戦という概念は、情勢を適切に記述していない。ハドレイの言葉によると、情報機関の認識は、ブッシュ大統領がなぜイラクでの新しい政策として、2万1500人の兵士の派遣を決定したかの理由も理由づけている。
2006年8月に議会によって要求された報告において、イラクにおける情勢の改善のチャンスも見られている。特に不確かなのは、政治的指導が宗教的集団の間の紛争を橋渡しできるかどうかということである。現実的な和解の見込みは良くない。テロ組織アルカイダの活動は、確かに引き続き問題であるが、イラク人同士の間の暴力のほうがもっと危険である。
イラクでは、先週金曜日にシーア派の聖地を巡って政府軍と過激なシーア派の宗派の帰依者との間で新たな戦闘が起こった。巡礼都市ナジャフの住民は、市の外側では戦闘の音が聞かれたと報告した。
[訳者の感想]イラクの宗派間の対立は泥沼化してきたようです。
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「イラクにおける宗派間の戦争」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年01月24日 | イラク問題
ベルリン発:イラクに対するアメリカの介入は、中近東全体の権力構造を根本から揺るがせた。けれども、初めに計画されたのとは違った仕方で。ブッシュ政府は、サダム政権の転覆とイラクにおける民主化によって、ドミノ効果を引き起こそうとした。サウディ・アラビアやシリアやエジプトのような独裁的政権と独裁者は、アラブ国家における機能する民主主義を目の当たりにして、国民の自由と進歩への叫びに抵抗できなくなるはずだった。だが、より市民的秩序を形成する代わりに、イラク戦争は、シーア派への権力移行を生み出した。それに対して、アラブ世界における伝統的なスンニー派の優勢が増大する攻撃性でもって反対の作用を生み出そうと試みている。なぜならば、シーア派の覚醒は、その影響がこれまでアラブ世界では少なかったある勢力、つまりイランの前進と結びついている。
テヘランは、アラブ内部の紛争に大量に介入することによって、シーア派的に彩られたイスラム革新運動の精神的政治的中心であるという要求を強調している。サウディ・アラビアやエジプトやヨルダンのスンニー派政権は、イラクによって武装されたシーア派民兵がどれほど国の広い地域をコントロールし、イラク治安軍の中に浸透し始めたかをパニックをもって観察している。彼らは、テヘランが彼ら自身の国では抑圧されたシーア派をも煽動し、資金と武器とを供与することを恐れている。だからこそ、彼らはレバノンの親西欧的なシニオラ政府を支持し、親イラン派のヒズボラの政府転覆努力に反対し、パレスチナ大統領のアッバスの過激なハマスに対する権力闘争をおだてている。ハマスは、スンニー派なのだが、イラクから財政的支援を受け、ヒズボラと同様、イランの資金で武装している。
サウディ・アラビアは、米国がイラクから撤退した場合には、自ら軍事的に介入すると脅している。イラクにおける米軍を増強するというブッシュ政府の決定は、米国がイラクを親イラン的勢力に委ねる気はないということをアラブ国家に理解させる信号であると理解することができる。
イラクの爆発的な状況が全地域の不安定化にそれどころか、地域戦争に導くかもしれないという不安から、米国は、ブッシュの民主化戦略で受け身に追いやられた、伝統的なアラブ勢力に再び注目している。そういうわけで、米国の外交は、パレスチナとイスラエルの平和攻勢のために努力している。アメリカ人やイスラエル人やサウディ人やエジプト人にとっては、覇権的な核武装したイランは、究極の悪夢である。だから、自分をパレスチナ抵抗運動の槍の穂先である称するイランの宣伝に対して対抗するために、かれらはみなイスラエルとパレスチナとの対話の速やかな進歩に関心がある。
だが、古いアラブ勢力は、西欧にとっては信頼の置ける同盟者であるどころではない。スンニー派の武装勢力の米軍やシーア派住民に対するテロが、サウディ・アラビアの資金で動いていることは、秘密ではない。サウディ・アラビアの指導的な聖職者たちは、彼らがユダヤ人やキリスト教徒よりも悪いと呼んでいるシーア派に対する憎悪を掻き立てている。米国や欧州連合が支援しているアッバス大統領を支持するファタハは、ハマスと同様、イスラエルに対するテロに責任がある。
そういう訳で、米国はエスカレートする宗派対立に巻き込まれ、それですり減りかけている。互いの敵を封じ込めるためには、スンニー派もシーア派も中東地域におけるアメリカのプレゼンスを必要としている。だが、同時に彼らは、アメリカ軍と戦う競争をしているのだ。西欧は、イランの脅威に一方的に執着することで、シーア派の権利を犠牲にするという過ちを犯してはならない。なぜならば、それによって、シーア派をイランの影響に任せることになるからだ。
[訳者の感想]米国がイラクからさっさと撤退して、イラクでイラン対アラブ諸国の対立が始まるとどうなるのでしょうか。アルカイダは、スンニー派に味方してシーア派やイランと戦うことになるでしょうか。
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「今や、聖戦は、シーア派に対して行われ、アメリカ兵に対するものではない」と題する記事。

2007年01月14日 | イラク問題
数週間前のある朝、私は車に座って、猪首の元共和国防衛隊司令官で現在、仲間のスンニー派武装勢力のために武器を調達しているラミと話した。
ラミは、アメリカ軍の侵入の初め以来、武装勢力がどう変わったかを説明した。「私はアメリカ兵を攻撃した。それがジハード(聖戦)だった。今はそれは、ジハードではない。バグダッドのアダミア地区をぐるっと歩いて見てみろ。司令官は、座ってコーヒーを啜っているよ。今戦っているのは、若いガキだ。彼らはアメリカ兵とは戦わない。彼らはシーア派住民を殺しているのだ。銃を二丁もって、獲物を求めて街路をうろついている。彼らは銃が欲しくて車が欲しくて人を殺すのだ。そしてそれが「ジハード」だと美化される。
ラミは、もはや戦闘に参加しないが、バグダッド市北部にいる人たちに武器や弾薬を売って儲けている。最近数ヶ月前まで、武装勢力は、以前のイラク軍の貯蔵庫から持ち出された武器や弾薬で暮らしていた。だが、スンニー派は、彼らの居住地域で包囲され、良く武装されたシーア派の内務省軍と毎日戦闘しているから、彼らは今や武器と資金源を必要としていると彼は述べた。
彼が言うには、彼の主な武器供給者は、バグダッド駐留のアメリカ軍のために通訳をしていた。「彼はアメリカ軍将校と取引した。われわれはピカピカの新品AK銃や弾薬を彼らから買った。」彼は、会ったことはないが、バグダッド空港で勤務する陸軍大尉だと主張する。彼はヨルダン国境を越えるやいなや、トラック一台分の武器を方向転換するのを手伝った。
最近では、ラミは、アメリカ軍の武器をもった新しいイラク軍から武器や弾薬を手に入れている。「われわれは倉庫を管理している将校から弾薬を買う。AK47の弾は、一箱450ドル(54,000円)だ。彼が千箱売れば、彼は金持ちになり、国を出ることができる。」だが、治安状況が悪化するにつれて、ラミは、バグダッドを横断するのが難しくなった。「今は、私は弾薬を持ってくるのに、シーア派のタクシー運転手に金を払わなければならない。運送費として、彼は50ドル(6,000円)受け取るのだ。」
 今日、ラミが450ドルで買う700発入りの箱は、一年前には、150ドル(18,000円)から175ドル(21,000円)した。カラシュニコフ銃の値段は、同じ時期に、300ドルから400ドルに上がった。武器の値段のインフレは、イラクが宗派間の戦争に突入したことを反映している。スンニー派の武装勢力も変わった。次の数週間以内に増派される2万人のアメリカ軍が巻き込まれる対立は、彼らの戦友たちが一年前に経験した対立とは非常に異なるだろう。
 去年10月、バグダッドで、私は、一年以上前から知っているスンニー派の武装勢力の一人に電話した。彼は小さな部隊の中位の司令官で、バグダッド北部のスンニー派の村でアメリカ軍に対して戦っていた。宗派間の戦線を通り抜けることが難しく、安全な場所でで会うのに同意するのに45分かかった。私たちは荒廃した労働者カフェで会った。
「バグダッドでスンニー派として暮らすには具合が悪い時期だ」とアブ・オマールは、低い声で言った。彼は三年間アメリカ軍のお尋ね者リストに載せられたが、彼が心配しているようには見えなかった。彼は髭をシーア派風に摘んで、ドアのほうを見続けていた。彼の兄弟は、数日前に、誘拐された。彼は自分が次にシーア派民兵のリストに載ると信じていた。彼はバグダッド市北部の家から逃げ、バグダッド西部のスンニー派の拠点にいる親戚の家に滞在している。
彼は怒っていると言うよりは失望していた。「俺たちスンニー派が責められるべきだ」と彼は言った。「私の住んでいる地域では、無知なアルカイダの奴らが、貧しいシーア派農民を誘拐して、殺し、死体を川に投げ捨てている。俺は奴らに言ってやるのだ。「これはジハードじゃない。お前たちはシーア派を全部殺すことはできないぞ。シーア派民兵は、狂犬だ。なぜ、あいつ等を挑発するんだ。」
「私はアメリカ兵に話しかけるように努力している。彼らがシーア派民兵がわれわれの居住地域に来るのを止めてくれるなら、われわれスンニー派の者は誰もアメリカ兵を攻撃しないだろうという保証を与えたいのだ。」
(以下略)
[訳者の感想]内戦下のイラクのグロテスクな状況が少し分かると思います。これまでアメリカ軍に対する反対勢力の中心にいた少数派のスンニー派が、むしろアメリカ軍に保護して貰いたいと思いまだしたようです。それにしても、アメリカ軍の武器をスンニー派武装勢力に横流ししている米軍将校がいるというのは、スゴイ話だと思いました。米軍もかなり腐敗しているというべきでしょう。
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「ブッシュは、イラク駐留部隊の新しい最高司令官を任命」と題する『ヴェルト』の記事。

2007年01月06日 | イラク問題
ワシントン発:ブッシュ大統領は、一連の人事を新しいイラク戦略と結びつけている。月曜日に、彼は、イラク駐留の連合軍の最高司令官であったジョージ・W・ケーシーの解任を発表した。デイビッド・ペトレイアス大将がこの地位を引き受ける。54才のペトレイアス大将は、イラク侵入時、第101旅団を指揮し、それ以来、フォート・レヴンワース基地で新しいイラク文化に敏感な兵隊の養成を構想した。
あたらしいイラク戦略は、危機の現場での継続的プレゼンスによって国民の信頼が得られる古典的な対ゲリラ戦争指導の一部として、そのような兵隊の養成に基づくだろう。兵士は、これまでよりも長期間同じ場所に滞在し、情報網を作り上げるだろう。この戦略で、ペトレイアスは、2003年から2004年にかけて、モスル地域を殆ど平定した。
ブッシュは、その上、上位の「中東司令部」の新しい指揮官としてウイリアム・ファロン海軍大将を任命した。彼はこれまで太平洋地域の最高司令官であったが、ジョン・アビゼイド大将の後任となる。彼は中近東を担当する「中東司令部」では、最初の海軍大将である。これは、イランに対する明確な警告信号である。同時にブッシュは、二隻の航空母艦をペルシャ湾に派遣した。
『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、ブッシュは、イラク政府に治安の責任を任せるジョージ・ケイシーの戦略に不満になった。その理由は、イラク軍がその任務に対応できないからである。空白地帯に、宗教的な民兵が入り込んだ。ケイシーの忠告は、イラクの情勢を悪化させた。ザルマイ・カリルザード・イラク駐在大使は、ケイシーの路線に対して警告を発した。
カリルザードは、既に2003年に反ゲリラ戦争を要求し、イラクにたった15万人の兵隊しか派遣しないというラムズフェルドの路線を常に懐疑的に評価したネオコンの一人である。ブッシュの新しい戦略にある知的な影響を与えたフレッド・ケーガンも、ネオコンのこの派に属している。ケーガンは、共和党の可能な大統領候補であるジョン・マッケインの親友である。マッケインは、昨日、ワシントンで、兵隊の増強をせよという要求を繰り返した。
ロバート・ゲイツ国防長官は、更なる人事として、軍事偵察の新しい代表を任命した。それはジェームズ・クラッパーで、彼は、1991年から1995年まで国防省情報機関の長であり、その後、衛星を操る国家地球宇宙機関の長であった。クラッパーの前任者であったスティーブン・キャンボーンは、チェイニー副大統領の腹心であったが、彼はラムズフェルド国防長官と一緒に辞任した。
[訳者の感想]ブッシュは、相変わらずネオコンを頼りにして、新しいイラク戦略を考えているようです。
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「テロ時代のイラクの経済復興」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年01月04日 | イラク問題
テヘラン発:機能する経済は、安定したイラクにとって本質的な前提であるという点では、すべての専門家が一致している。安定した状態からはほど遠いが、テロと失敗した経済と汚職の彼方でこの国の一部では、サダム・フセインの統治下では夢にしか見られなかった新たな現実が生まれつつある。それらの地域は、金があり商品は山のようにある。十分に企業家精神を持った者は、あらゆる障害にもかかわらず、急速に金持ちになることができる。
特に治安状態があまり深刻でない、シーア派信者地域やクルド人地域では、劇的なブームが見られる。町から町へ、村から村へとこの国は新たな生活へと目覚めている。毎日、約10の新しい会社が創設され、国家の管理領域と並んで、既に35万7千の私的企業が存在する。給与は、サダム時代よりも20倍ぐらい多い。国家管理の領域では、給与は、去年だけで30%も増加した。今年はさらに30%ぐらい増加するだろう。具体的には相変わらず平均給与は数百ドルであるが、多くの家族の生活には十分である。中国製の娯楽用の家電は、需要が多い。同様に、家具や家財道具も存在している。
イラクの国家もかなりの手段を確保している。イラクの国家は、昨年、400億ドルの石油収入で記録を達成した。その上、米国が戦後に再建計画のために準備した200億ドルのかなりの部分や、他の貸与国の金融援助や、湾岸国からの投資が加わる。イラク北部のクルド人居住地域では、建築業は、隆盛している。オーストリア航空は、そこで定期便を運行している。オランダやノルウエーの会社は、クルド地域に投資している。レバノンの石油会社は、30億ドルで新しい精油所を計画している。ナジャフやカルバラのシーア派の巡礼都市では、経済は、毎年の参詣で利益を得ている。イラク南部のバスラや小さな港湾都市であるウム・カスルでは、港が新たな繁栄の源になっている。
テロで痛めつけられたスンニー派の三角地帯では、情勢は余りバラ色ではないが、そこでも生活が以前よりも良くなっているところがある。2004年の戦闘でファルージャは、殆ど完全に破壊された。しかし、米軍は市民にかなり寛大に損害補償を行った。ファルージャには新しい住宅が建ち並び、比較的繁栄した島になっている。アメリカ人たちは、サダムの故郷であるティクリトには集中的に投資をした。その結果、ティクリトは、相対的に豊かに、相対的に平穏になった。ここでは、他のスンニー派居住地域よりも、アメリカ軍やイラク治安部隊に対する攻撃が少ない。
乱脈財政や汚職は、イラクデは、目下解決不可能に見える問題である。だが、経済成長はそれによってブレーキをかけられていない。だまし取った金は経済流通に流れ込んでいる。それらは会社設立のための資本金として役立ち、消費財の需要を強めている。
最後に、新たな繁栄はベビーブームと並行して現れている。戦争とテロにもかかわらず、イラクでは、昨年、1000人につき37人の赤ん坊が生まれた。2003年には1000人につき29人だった。隣国イランでは、1000人につき21人しか新生児が生まれていない。
この最初の成功を継続することは、大きな挑戦であるだろう。高い石油収入は、産出量や輸出量の減少にもかかわらず、得られた。石油産業に対する恒久的なテロ攻撃の結果、輸送量や輸出は相変わらずサダム統治時代よりも少ない。石油価格の上昇が、強力な収入を保障した。しかし、市場では、石油は次第に安くなっている。国際的な援助計画も次第に終わりに近づいている。特にアメリカからの援助資金は、2007年には大部分なくなるだろう。
[訳者の感想]イラクはテロに継ぐテロで、経済復興は、遅れているだろうと思っていましたが、この記事によると、部分的には経済的にかなりましになっているようです。
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フセイン処刑を巡る後日談

2007年01月03日 | イラク問題
2007年1月3日:検事の一人は、サダムに対する罵声のゆえにサダムの処刑をもう少しで取り止めるところだった。「私はそれなら出て行くぞと脅した」と火曜日に、ムンキト・アル・ファルンは言った。絞首台のそばでの誹謗に責任がある連中は、私が経ち去れば、処刑が続けられないということを知っていただろう。」法律によれば、処刑の際、告訴者の代表が立ち会わなければならない。
この場面をドキュメントしている非公式のビデオは、二人の高位の役人を撮影した。「二人の役人は、カメラ付きの携帯電話を持っていた。彼らの一人を私は知っている。彼は地位の高い政府関係者だ。」だが、検事は、その氏名を明かさなかった。もう一人の政府関係者には、面識があった。「彼らがどうやって携帯電話を持ち込んだか分からない。なぜなら、アメリカ兵は私たちから電話を全部取り上げたからだ。カメラのついていない私の電話も取り上げた。」
1)ビデオは、ベストセラーになった。
政府は、携帯電話でビデオを撮影したのが誰か捜査仕始めた。政府は、看守の一人がビデオ撮影をしたと信じている。映像では、ファルンが罵声を浴びせている者達に止めろと言っているのが聞こえる。
バグダッドのサドル・シティでは、ビデオは、ベストセラーになった、と住人が述べている。さらに、1982年のドシャイルでの148人のシーア派虐殺のかどで判決宣告がされた様子を収めた2時間のCDも出回っている。これまでその断片しか公開されていないのであるが。
新しい国連事務総長のバン基文は、就任後最初の記者会見での死刑についての言及で議論を引き起こした。サダム・フセインの処刑に対する態度表明を記者に求められて、バン氏は、火曜日にイラクの元大統領は、重大な犯罪に責任があり、死刑執行に対して態度を決定するのはどの国でも自由であると答えた。
批判者は、これが国連の公式の死刑反対に対する矛盾であると考えている。1948年に国連の総会で通過した人権宣言は、すべての人の生命に対する権利があることを強調している。バン氏の前任者であるコフィ・アナン氏は、常に死刑反対を唱えてきた。バン氏の抑制された返答は、この立場に反するものと評価された。彼の広報官であるミシェル・モンタスは、最初の新聞記者会見でこのテーマについてしつこく尋ねられた。ハイチ出身の元ラジオ記者であるモンタスは、機関としての国連は引き続き死刑に反対するということを強調した。けれども、バンは、死刑をどうするかを個々の加盟国に委ねようと思っている。バンの出身国である韓国でも死刑が存在している。
サダムの弁護人であるフランス人のエマニュエル・リュドは、国連事務総長宛の書簡で、サダムの死刑についての調査を要求した。ビデオも彼の依頼人の処刑も、1949年の「ジュネーブ協定」に違反している。処刑されたフセインは、彼が死ぬまで、戦争捕虜という地位を持っていた。それゆえ、「ジュネーブ協定は、彼にも適用されねばならない」と火曜日に公表された書簡は述べている。弁護人はさらに「黙って絞首刑を執行したのは誰かを知りたいと望んでいる。なぜならば、高位のサダム反対者たちが占領軍当局との取引で、サダムを殺す際に手を加える特権を持ったかもしれないからである。
[訳者の感想]フセインの処刑後、いろいろな問題が出てきたようです。
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「サダムは、憎悪の捨てゼリフを残して死んだ」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年01月01日 | イラク問題
 処刑の約24時間後、フセイン元大統領はティクリト市近郊の彼の故郷の村アウジャに埋葬された。元大統領は、日曜日の早朝、彼の部族のメンバー数百人が見守るなか、家族の墓地に埋葬された。この墓には、2003年6月に米軍との交戦で殺された彼の二人の息子であるウダイとクサイも眠っている。
 サダムの棺は、夜中に米軍機によって、バグダッドから175キロ離れたティクリト近くの空軍基地に輸送された。そこから、棺はサダムの部族の長であるシャイヒ・アリ・アル・ナダの家に運ばれた。そこでは、棺がアウジャの墓地に運ばれる前に、部族のメンバーが元大統領に別れを告げた。目撃者によると、弔問客の中には、ティクリトを首都とするサラヘディン県の県知事もいた。
 元大統領は、土曜日の朝四時に悪名高い元のイラク軍秘密情報機関の監獄の中で処刑された。その数時間後、処刑の模様を撮したビデオが放映された後で、土曜日にそれ以上の詳細が明らかにされた。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、処刑の立ち会い人を引き合いに出して、「裏切り者たち、アメリカ人、スパイ、イラン人は、くたばってしまえ!」というサダムの最後の言葉を引用した。いくつかの報道によると、それ以前に、彼はもう一度イスラム教の祈りの文句を口にしたと言う。「アラー以外に神なし。モハメッドは、神の預言者なり。」
 『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば、イラク政府の治安顧問であるムワフィク・アル・ルバイは、処刑の前にサダムに「罪の感情や不安はないか」と尋ねたが、彼は「俺は軍人だ。自分について不安はない」と答えたと述べた。アルジャジーラ・テレビによって放映されたビデオでは、看守の何人かは、処刑室で、サダムの敵であった過激な説教者ムクタダ・アル・サドル万歳を三唱した。
 埋葬の場所と時刻については、最初は不明であった。サダムの娘の一人は、自分の父を先ずイェーメンに埋葬して欲しいという意図を述べた。イラク政府筋には、彼の支持者のための巡礼地とならないように、サダムを秘密の場所に埋葬しようという考えもあった。これに対して、部族長は、棺を米軍機でティクリトに運んでくれと要求した。土曜日の晩には、棺に付き従うために、代表団が、故郷からバグダッドに向けて出発した。
 サダムは、11月5日に、彼の腹違いの兄弟バルサン・アル・ティクリトと元裁判官アワド・アル・バンダルと共に、1982年7月にドジャイルで行われた148名のシーア派に対する虐殺のかどで、死刑判決を受けた。他の二人の処刑は延期された。処刑がいつ執行されるかはまだ不明である。治安顧問アル・ルバイは、「土曜日は、サダムの処刑された日として歴史的記憶に残るべきだ」と言った。
 モスレム世界、特にサウディ・アラビアでは、サダムがイスラム教の犠牲の祭りである「エイド・アル・アドハ」の初めに処刑されたことが批判された。犠牲祭は、火曜まで続く。リビアは、土曜日に三日間の国家の喪を定めた。シモン・ペレス・イスラエル副首相
は、土曜日のサダム処刑をヒトラーの最後にたとえた。「中近東と世界の平和にとって危険であった元独裁者の死は、ヒトラーの死と同様、予見可能であった」と彼は述べた。
[訳者の感想]フセイン元大統領の死を巡っては、アラブの国々では、そのうちに一種の伝説ができるような気がします。
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