元自動車労連 会長 塩路一郎著
☆最近こう言う時代に成って来て、「歴史を振り返ろう」と言う事か、「証言もの...」が多く出版されている。僕は、1957年東京日産と言う自動車ディーラーに就職した。幸いにも会社の心臓部門に配属され同時に素晴らしい人達に出会い、恵まれた社会人生活をダイナミックに過ごすことが出来た。マア、言うなれば好き勝手にやれたと言う事。但し、私利私欲に走った事もないし、人の嫌がる仕事を嫌がらずにやったことは事実だ。会社は第二次大戦中、自動車は軍事優先、民間には配給だった。その「配給会社」が前身だった会社である。まあ「半官半民」的で組織的にはしっかりした会社であった。
☆当時、僕の部署は仕入れと登録、要するにメーカーと陸運事務所との渉外がメイン業務で、メーカーとディーラーの関係は「士農工商」の関係だった。自動車が街を走るためには、先ず保安基準に適合しているかの「検査」をして、適合していれば、次に「登録」してナンバーが付く。今みたいに検査機械が発達していた訳ではなく、検査官の判断による部分が多く、「良く気違いと検査官には逆らうな」と先輩に言われたものである。僕は、あまり嫌がらずに平気で毎日、日産自動車と陸運局や事務所に通った。
☆当時の日産自動車は階級闘争至上主義の共産系労働組合とロックアウトする会社側との抗争で大変な時期が終わって、再建活動に労使一体になって居た時代である。事務部門では一人鉛筆3本、砂ゴムは半分に切って使うと言うような原価低減に取り組んでいた。この時代、僕は「自動車六法とかシルバーストーンの原価低減」の本とかよく読んだものだ。又、上司の課長と次長が日産メーカーから来た人で毎日組合争議の話を聞かされた。この本の中にも知っている人が沢山出て来るし、僕が組合専従をした時は,宮家体制から塩路体制に変わった時期で会長とも数回は販売の実情について話したこともある。又、石原社長当時中央経協の販売分科会と称して会社側は石原社長以下大竹部長(後に専務)まで出席し、僕はOB職能人と言う事で組合側から出席して、販売第一線の様子を会議の口火として始まった。 此の頃は、すでに「石原VS塩路」対立が表面化して来た時代で、塩路会長は自動車労連会長として忙しかったらしいが、この会議にも20分位遅れて来た。文中で「又社長が宮家会長を待たせた」と言う部分があるが、労連会長に成ってから塩路さんは会議にはいつも遅れて来て、何か勿体を付けている様に感じた。
☆さて、何故労使の対立が日産の盛衰に拘わったかと言えば、後半に書かれているが、塩路さんは日産の職場から選挙は受けずに労連会長に成って長期間組合に君臨していたからでは無いだろうか?会長は労連幹部会なり、三役会で選ぶと言う仕組みにしてしまった事から、長期政権の維持が出来、次第に労働組合の本質から離れて行った思考や行動に出てしまったのではないか?自動車労連の考え方は、僕は現実的な組合活動であると思う。然し、社長がボートに乗ったからって「対等だから俺もボートに乗ってどこが悪い」「銀座のクラブへ行って、レミーの麦茶割り」を好むなんて矢張り組合幹部の常識からは離れている。実際に僕が営業所長時代に部下の営業部員がヤマハのセールスに車を売り、その人から「塩路さんにボートを売り川又さんの3000万円の小切手を貰った」と聞いて来て、「所長、組合は凄く癒着しているんですね?」と聞かれて困ったことが在る。本書の中には3500万円のボートと書かれているが金額はほぼ合う。僕が組合の委員長時代に、労連大会でメーカーとディーラーの賃金格差について数人の代議員に質問させたことが在る。その時は、後で本部の役員から「大会であんな質問をさせるな」と凄く怒られた。
☆日産の海外進出がどう評価されるのか?自動車産業が今の様になって来ると、時代を大きく超えた「在り方論」の討議が必要だ。日本の自動車業界挙げてトヨタを応援する体制でも作らないと世界の中で日本の存在感が無くなってしまう。日産の盛衰もやがて歴史の中に葬られるだろう。良し悪しは別として、創業家で守られて来たトヨタとサラリーマン集団の中で、権力闘争に明け暮れた日産だが、川又、石原,宮家、塩路の先輩方には素晴らしいリーダーシップが在った事は事実だ。この本は、塩路さんは素直に克明に描いていると思うが、もっと大きな反省も欲しい。