旅の終わりは「三里塚御料牧場記念館」です。
ここは前日から行こうと決めていました。
大久保利通によって開設された宮内庁下総御料牧場は、単に皇室の牧場というばかりでなく外国人技師を招聘するなど常に日本の牧畜技術の最先端を担ってきました。
ところが昭和44年8月、成田空港建設計画にともなって栃木県に移転することになったそうです。
現在牧場は殆どありませんが、周辺にはその面影があり、御料牧場の跡地は記念公園として残されることになりました。
私が気になっていた地形も尋ねてみたら競馬場跡ではなく牧場跡地との事でした。
記念館まで歩いてようやくたどり着いた時には雨もやや強くなり、2時過ぎにもかかわらず薄暗い雰囲気で、木々に覆われ自然豊かな歴史薫る庭は雨を含んで重く感じました。
館は開いていますが電気は消えています(^^;)アリャリャ
私は事務所の方に声をかけました。
『こんにちは!』
その方は館長らしき方で私が来た事が嬉しかったのか、結局最初から最後まで案内してくれ解説を加えてくれました。
なぜなら最初から最後まで見学者は私ひとりという始末(笑)
館長は話を始めました。この地の歴史。かつてのこの地の表情…。
しかし、聞けば聞くほどおもしろい。
この地は御料牧場ではありましたが、強い軍馬やサラブレッドの生産・育成など様々な技術向上の場としても活用されたそうで、昔、千葉にはこうした馬産地がたくさんあったそうです…。
驚いたのはこの地においてダービー馬ワカタカやセントライト、トウヌルソルやダイオライトが産まれた事。
まさかふらっと訪れたこの場所がそんなに競馬に影響を与えたとは。
海外の技術や知識、海外の品種を持ち込んだりと馬はもちろん日本の畜産に非常に大きな影響を与えた場所であることを知りました。
牛舎や豚舎、鶏舎や羊舎も当然あったそうです。
写真はダービー馬の碑です。
時代の流れから牧場用地はどんどん減っていく話、かつての風俗史、古き善き昭和の写真を見ながら、馬がたくさんいた時代の写真、競馬の歴史の一端を学ぶ事ができて、満たされる知識欲に感激しながら私は館長の案内を受けていました。
余談ではありますが、熱心に競馬をやる人はこの名前をぜひ覚えて下さい。
「新山荘輔(にいやまそうすけ)」
この方は歴史の教科書には全く出てきませんが、日本獣医学の父と言われているくらい偉大な功績をあげられました。
この方が御料牧場の五代目の場長に30前半の若さで就任して以降彼の功績が元で飛躍的に日本の畜産技術が向上したそうです。
この地で学んだ学生は全国にその教えを広め、さらに彼は私財を投じで次代の担い手を育成したり、晩年は全国の牧場に指導をしに歩いたそうです。
この方がいなかったら今の畜産は決して有り得なかったし、当然日本競馬ももっと遅れていた事との館長の話でした。
新山荘輔は獣医学、農学の他に伊藤博文がドイツに行って憲法を作る時も現地通訳など側近を務めたり、いわゆる万能選手で、牧場経営なども一流だったそうです。
歴史の表舞台には出てきませんが話を聞けば聞くほど立派な人物だと知りました。
昔の関口宏の知ってるつもり(古いネ…)に取り上げられても全く不思議ない偉大な方です。
今、我々がおいしい牛乳やお肉が食べられるのはこの方のお陰かもしれません。
もちろん競馬においてもです。
こんなに立派な功績をあげているのにJRAには銅像は無かったな…。埋もれているには勿体なさすぎの人物。
館長も説明に熱がこもっていました。
お近くにお住まいの方はここは是非訪ねておくべき場所だと思います。
国から委託を受けて成田市で管理している施設。
何も案内が無かったら15分程度で見学は終わる施設でしたが、ラッキーな事に丁寧に解説までしてもらい一時間以上滞在していました。
他にも領家先生に少し似た方に施設内にある貴賓館や天皇陛下や貴賓の専用防空壕に案内されたり非常に楽しい土曜日となりました。
日本競馬の原点とも云うべき場所に、路線価図一枚に引き寄せられ偶然にもたどり着いた自分自身の競馬における縁の強さを改めて感じています。
第一回目のワンダラーは大成功でした。
さて次はいずこに…
ここは前日から行こうと決めていました。
大久保利通によって開設された宮内庁下総御料牧場は、単に皇室の牧場というばかりでなく外国人技師を招聘するなど常に日本の牧畜技術の最先端を担ってきました。
ところが昭和44年8月、成田空港建設計画にともなって栃木県に移転することになったそうです。
現在牧場は殆どありませんが、周辺にはその面影があり、御料牧場の跡地は記念公園として残されることになりました。
私が気になっていた地形も尋ねてみたら競馬場跡ではなく牧場跡地との事でした。
記念館まで歩いてようやくたどり着いた時には雨もやや強くなり、2時過ぎにもかかわらず薄暗い雰囲気で、木々に覆われ自然豊かな歴史薫る庭は雨を含んで重く感じました。
館は開いていますが電気は消えています(^^;)アリャリャ
私は事務所の方に声をかけました。
『こんにちは!』
その方は館長らしき方で私が来た事が嬉しかったのか、結局最初から最後まで案内してくれ解説を加えてくれました。
なぜなら最初から最後まで見学者は私ひとりという始末(笑)
館長は話を始めました。この地の歴史。かつてのこの地の表情…。
しかし、聞けば聞くほどおもしろい。
この地は御料牧場ではありましたが、強い軍馬やサラブレッドの生産・育成など様々な技術向上の場としても活用されたそうで、昔、千葉にはこうした馬産地がたくさんあったそうです…。
驚いたのはこの地においてダービー馬ワカタカやセントライト、トウヌルソルやダイオライトが産まれた事。
まさかふらっと訪れたこの場所がそんなに競馬に影響を与えたとは。
海外の技術や知識、海外の品種を持ち込んだりと馬はもちろん日本の畜産に非常に大きな影響を与えた場所であることを知りました。
牛舎や豚舎、鶏舎や羊舎も当然あったそうです。
写真はダービー馬の碑です。
時代の流れから牧場用地はどんどん減っていく話、かつての風俗史、古き善き昭和の写真を見ながら、馬がたくさんいた時代の写真、競馬の歴史の一端を学ぶ事ができて、満たされる知識欲に感激しながら私は館長の案内を受けていました。
余談ではありますが、熱心に競馬をやる人はこの名前をぜひ覚えて下さい。
「新山荘輔(にいやまそうすけ)」
この方は歴史の教科書には全く出てきませんが、日本獣医学の父と言われているくらい偉大な功績をあげられました。
この方が御料牧場の五代目の場長に30前半の若さで就任して以降彼の功績が元で飛躍的に日本の畜産技術が向上したそうです。
この地で学んだ学生は全国にその教えを広め、さらに彼は私財を投じで次代の担い手を育成したり、晩年は全国の牧場に指導をしに歩いたそうです。
この方がいなかったら今の畜産は決して有り得なかったし、当然日本競馬ももっと遅れていた事との館長の話でした。
新山荘輔は獣医学、農学の他に伊藤博文がドイツに行って憲法を作る時も現地通訳など側近を務めたり、いわゆる万能選手で、牧場経営なども一流だったそうです。
歴史の表舞台には出てきませんが話を聞けば聞くほど立派な人物だと知りました。
昔の関口宏の知ってるつもり(古いネ…)に取り上げられても全く不思議ない偉大な方です。
今、我々がおいしい牛乳やお肉が食べられるのはこの方のお陰かもしれません。
もちろん競馬においてもです。
こんなに立派な功績をあげているのにJRAには銅像は無かったな…。埋もれているには勿体なさすぎの人物。
館長も説明に熱がこもっていました。
お近くにお住まいの方はここは是非訪ねておくべき場所だと思います。
国から委託を受けて成田市で管理している施設。
何も案内が無かったら15分程度で見学は終わる施設でしたが、ラッキーな事に丁寧に解説までしてもらい一時間以上滞在していました。
他にも領家先生に少し似た方に施設内にある貴賓館や天皇陛下や貴賓の専用防空壕に案内されたり非常に楽しい土曜日となりました。
日本競馬の原点とも云うべき場所に、路線価図一枚に引き寄せられ偶然にもたどり着いた自分自身の競馬における縁の強さを改めて感じています。
第一回目のワンダラーは大成功でした。
さて次はいずこに…