台風のせいか今、室温が28度で過ごしやすい。雅太は、森林浴どころではなく、部屋で、模様替えやら「反復」やらをやっていた。いつもは見ないテレビだが、年初頭に行った東京界隈やら、昔住んだ経験のある三重県津市やら香川県高松市やら、九州やらが出ていて、雅太は懐かしんだものである。伊勢湾界隈を歩いていると、高潮や大雨だと水没するのではないかと、危険を感じたものだ。
さて、過去を振り返るというのも、自分自身が一体何を「意図したか」であり、かつては勝手な妄想に寄っていたものだ。雅太はそれなりに頑張ったのであるが、最初の設定が悪かったのが、欠陥が多すぎたのか「負け組」となった。もっとも多数がそうであろうが。
さて、雅太の場合は、妙に褒められたこともあり、「作家を志し」、物書きをやり始めた。それは普通の小説ではなくて気が違っており、「死神がどうの」とか「大地の子供たちを踊らせよう!」とか、アステカの時代を調べて行くうちに、狂気と妄想の中に沈んでいった経緯があった。
当時の日記やら資料を、雅太は未だに大量に抱えており、すっかり忘れていたその状況を反復するのである。当時必要だったのは、「作家になること」ではなく、人生経験であり、今でもそうなのだが、本を読んだり書いたりすることではなく、もっともっと色んな体験をすることなのである。
雅太にとっては、この間の野生のウサギとの遭遇も、貴重な体験であったように思われた。飼われているそこら辺のウサギとは、姿形は同じでも(茶色いし痩せていたか?)、何かが違う。まず目つきが違う。人間に飼い馴らされたウサギは、あんなに人間を凝視しない。多分、「食うか、食われるか」の世界に生きているからだろうが、眼差しが、生死を分けるのかも知れぬ。
と、ここまで書いたところで、雅太は思い出した。『沈黙の力』でカスタネダがジャガーと遭遇したとき、「お前の命は見つめ方にかかっているのだ」(鼻先を見つめろとか)と師に言われた一文を思い出す。なるほど、人間が逆にヒグマとかと遭遇してもやはりそうなるのか。
「よい狩人は、目で獲物に催眠術をかける」というのも思い出す。生きとし生けるもの全ての目は、他の生き物の集合点を動かすことが出来る。特にその目が、意志の上に注がれている時には。
そこまで考えた時、雅太は妄想を巡らす。ウサギに逃げられたならば、ツキノワグマでも出現したら(いるのか?)、一体どうなるのだろうか。熊は恐いので、せめてキツネと見つめ合いたいものだ。
さて、過去を振り返るというのも、自分自身が一体何を「意図したか」であり、かつては勝手な妄想に寄っていたものだ。雅太はそれなりに頑張ったのであるが、最初の設定が悪かったのが、欠陥が多すぎたのか「負け組」となった。もっとも多数がそうであろうが。
さて、雅太の場合は、妙に褒められたこともあり、「作家を志し」、物書きをやり始めた。それは普通の小説ではなくて気が違っており、「死神がどうの」とか「大地の子供たちを踊らせよう!」とか、アステカの時代を調べて行くうちに、狂気と妄想の中に沈んでいった経緯があった。
当時の日記やら資料を、雅太は未だに大量に抱えており、すっかり忘れていたその状況を反復するのである。当時必要だったのは、「作家になること」ではなく、人生経験であり、今でもそうなのだが、本を読んだり書いたりすることではなく、もっともっと色んな体験をすることなのである。
雅太にとっては、この間の野生のウサギとの遭遇も、貴重な体験であったように思われた。飼われているそこら辺のウサギとは、姿形は同じでも(茶色いし痩せていたか?)、何かが違う。まず目つきが違う。人間に飼い馴らされたウサギは、あんなに人間を凝視しない。多分、「食うか、食われるか」の世界に生きているからだろうが、眼差しが、生死を分けるのかも知れぬ。
と、ここまで書いたところで、雅太は思い出した。『沈黙の力』でカスタネダがジャガーと遭遇したとき、「お前の命は見つめ方にかかっているのだ」(鼻先を見つめろとか)と師に言われた一文を思い出す。なるほど、人間が逆にヒグマとかと遭遇してもやはりそうなるのか。
「よい狩人は、目で獲物に催眠術をかける」というのも思い出す。生きとし生けるもの全ての目は、他の生き物の集合点を動かすことが出来る。特にその目が、意志の上に注がれている時には。
そこまで考えた時、雅太は妄想を巡らす。ウサギに逃げられたならば、ツキノワグマでも出現したら(いるのか?)、一体どうなるのだろうか。熊は恐いので、せめてキツネと見つめ合いたいものだ。