インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

ドリーミング

2011-06-12 22:05:42 | 潜在意識の世界
  さっきJINを観て、ついに坂本龍馬が暗殺された…!?ようである。SF時代劇とはいえ、面白いので、ああいうのを書けば、大衆受けして売れるだろう(商売になるだろう)。そういえばアルファポリスからミステリー大賞の案内が来たが、またアレを出すしかない。考えてみれば、年初頭に「今年は小説を書くぞ!」ってな決意をし(新しいノートパソコンを調達し)、東日本大震災やらに注意が向いて(フィクションが軽くなり)、2012年も近づいているしと、呪術な本ばかり読んで、ちょこちょこ実践したりしている。

 確かに夢の世界は凄くなっており、日常に近い世界の中で我が輩は宙に浮くことに成功したのだが(やったぞ!)、誰も注目していない。もっともそれはドリームランドの世界だけではなく、合意的現実の世界でもそうで、このブログを通してインディオが呪術を何かしらマスターしたとしても、ほぼ誰も注目しないだろう。

 昨日は曇りの中、ボケーッとドリーミングしていた。非言語的な感覚、ちらっと見えるような何か、センシェントな体験を目指したのである。小川のせせらぎを聞きながら、額の上にピラミッド水晶をのせたりする(かなり、マニアになってきた!)

 

 センシェントとか、聞き慣れぬ言葉が出てきたのは現在読書中の『24時間の明晰夢』(アーノルド・ミンデル)の影響で、これはたぶん覚醒を目指そうとする本である。今、眠くて頭がボケーッとしているが、この現実(合意的現実)は、日常の漠然とした感覚、直感(ドリーミング)から発展したものであるとする。つまり、このblogで書き殴られてあることは、我が輩のドリーミングが根源となっているわけである。さらにそれは眠っている時の夢(ドリームランド)にも浸透するわけで、著者は「ドリーミング→ ドリームランド→ 合意的現実」と、逆円錐型の頂上である、今の現実は、ちらっとみるドリーミングから起こっているとするのだ。何か「唯識論」の理屈を思い出す。

 とにかく、ねそべって辺りを見回すと、大いなる生命が感じられるのである(このアングルから見るとかなり森だが、実際はそれほどでもない)。

 

 森に行けば幾らでも樹木はあるのだが、ふつう、そんなものに注目は集まらない。広島なんて何処だろうがたいがい山に囲まれているわけであるが、だれも山などに注目せず、道路やらビルやら看板ばかり目にするわけである。

 「我が部族の若者たちは決して働かないだろう。働く若者は夢を見ることができない。知恵は夢からやってくるのだ」とネズパース族の酋長ジョーゼフの有名な言葉があるが、ドリーミングこそが、偉大なる精霊であり、物事を成し遂げるための根源的な力なのであろう。滅多に生計は立てられぬが、ミュージシャンやら、芸術家やら、小説家やら、発明家やら、そういった現実で生きようと思えば、常にドリーミングしていなければならないわけで、カンバスやら原稿用紙をずっと眺めて、自分の手が作品をつくり上げるのではなく、ドリーミングによって自分の手がそこに引き寄せられ、勝手に書かされるという現象が起きなければならない。

 …ということで、自分も「新規投稿」の真っ白な空間を埋めているのだが、これも何らかの訓練になっているのだと思う。カスタネダの『沈黙の力』の序文で、カスタネダが師匠ドンファンから教わったりした事や体験をまめにノートにまとめていたので、ドンファンにそれを本にしたらどうかと言われ、私は作家じゃないんだから馬鹿げているというと、

 「もちろん、おまえは作家ではない」と彼は言った。「だから、おまえは呪術を使わねばならん。まず、自分の体験をもう一度体験しなおすつもりで視覚化し、それから【夢見】の中で【見る】ことが必要なのだ。つまりおまえにとって、書くことは文章の訓練ではなく、呪術の訓練になるわけさ」

  本日の記事を見るたびに、山奥でドリーミングしていた時のことを思い出すだろう。あの瞬間、我が輩は樹木に、じーっと見つめられていたのである。

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