インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

苦しみを分かち合う

2008-07-03 02:26:41 | 苦しみを分かち合う
このブログが伝えたいこと。

人間は、みな、苦しみを抱えている。

古代アメリカの時代は精神的に分かち合うことができたが、今はそうではない。

国家は税金を徴収し、金を与える。医療機関などのサービスが、苦しんできる人を何とか救おうとする。

事態はそう簡単ではない。

人間の苦しみは、取り除けるものと、取り除けないものがある。

お金や科学で解決できるとは限らない。

麻薬を使うかもしれない。宗教に耽るかもしれない。

善良な神を見放し、悪の道に走るかもしれない。

まだインディオがそうならないのは、恵まれているからであろう。

本当に絶望し、苦しければ、奇麗事は言っていられない。

「みんなで仲良く楽しくやって行きましょう」
「明るく楽しい社会を築きましょう」
「暴力追放!」

それは苦しみの少ない社会が望ましいには違いないが、世の中は歪んでいる。

能力も、財産も、天運も、すべて偏っている。

苦しみも、片寄っていて、ある種の人間に集中している。

それが現実である。

恵まれている者は、恵まれていない者に施しを与えるとは限らない。

金持ちは貧乏人に「何でもっと努力し頭を使わないんだ!」と思い、
貧乏人は金持ちに「金があるなら何でもっと分けないんだ」と思う。

資本家と労働者、若者と老人、男と女…。

世の中は永遠に理解しあえない。

現代の民主主義で、表面的に何とか収めようとする。

が、根本的に解決しない。

相手の立場に立てないからだ。

相手は痛み、苦しんでいる。自分の立ち場では測り知れない。

数ヶ月間ホームレスをやったとしても、ホームレスの立場が分かるとはいえない。

やはり、その立場に押し込まれ、どれだけ苦しんだかであろう。

子供を失った親の気持ちは、そうなった親にだけ分かり、

足を失った人の気持ちは、そうなった人にだけ分かる。

大は小を兼ねるで、
大きな痛み、苦しみを背負った人間は色々理解できるように思われる。

マヤとかでは王族は血を流したりして苦しみを背負っており、栄誉はあるだろうが、どう考えても楽しい地位に思えない。ああいった世界では、草や木、動物などあらゆる存在の苦しみを受け取っていたような気がする。

まあ、苦しみを精神的に分かち合ったところで、どうなるものでもないか。

お金を出したり、ボランティアをして行動することに意味があるのか。

何を書いているのか分からなくなったが、
口先だけで相手の立場に立つ、同情するのは簡単だということだ。


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