インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

ナチュラルな自分

2011-06-14 05:46:13 | 潜在意識の世界
  やはり朝早く起きてブログを書く方が楽である。テレビもネットも見ず、本すら読まず、ベッドに横たわり、ドリーミングする。ほぼ必ずと言っていいほど夢を見るのだが(特に朝方。夢で出てきた紙がかすれているのが分かるほどリアル)、ぼーっとした頭でブログを書きながらも、「なぜあんな夢を見たのだろうか」と自問自答するわけである。

 もちろん、ドリーミングというか(昨日の『24時間の明晰夢』)、潜在意識が表層化しているのだろう。そして、起きている時に出さえ、肉体を持った夢の中でさまよっているような気がする(事実か)。そして、それは断片的に千切れていなくて、「昨日の続き」を生きているわけで、「3年前」やら「10年前」の続きでもなく、大分県やら福岡県に住んでいるわけでもなく、今は広島県に住んでいる。

 実家からかなり離れたアパートに住んで自分なりに生計を立てているが、結婚して子供がいるというわけでもないから、「何としてでも」という感じでもない。ただ惰性で月日が流れているような気もする。何か長くなりそうなので、朝食を食べながら、書くか。

 「腕の良い料理人は筋に沿って巧みにさばくから包丁を取り換えるのが少ない(荘子)」とかドリーミングの本に書かれてあったが、人生でも似たようなことがいえるのかもしれない。かけ離れた理想とか目標とかではなく、「もって生まれた自分の筋」に沿って生きるのが、一番かと。「こうあろう」とするならば、それは無理やりではなく、自分の人生の筋に沿っていなければならないのだろう。

 我が輩の場合、ど田舎に生まれてしまったのだから(こんなブログも書いているし)、大都市に生きるのはどう考えても、筋に沿っていない。生家、特に裏山(昨日の写真)辺りが原点であるように思われる。そしてそこから、『ベロボディアの輪』でささやかれているように、「リアルな現実」と「自分自身」の両方を作っているのであろう。そこであんなインディオな?ブログやら小説をせっせと作ってUPさせたり、現場自体が「画像フォルダ」に大量に収まっているわけか。山で育った割には海も多いのであるが。

 ナチュラルな包丁というか、さばき方を何処で手に入れるかというと、やはりドリーミングであり、ドリームランド(夢)なのかもしれない。そのドリーミングというのは、言葉には表せない感覚、「明晰さ」であり、カスタネダに言わせれば、「内的沈黙」ということになるのか。ならば、ドリーミングできるためには膨大なエネルギーが必要ということになり、日常生活やら仕事に追われていては適わない、ということか。かくして「我が部族の若者たちは決して働かないだろう」というロジックを成り立たせるのである(!?)。

 ドリーミングは、多分、視覚以外の感覚器官で、世界を照らし出そうとするもので、大まかにいえば、それは「エネルギー」なのだろう。例えば夜の光景。実は太陽がないだけで、昼と同じ光景がそこには存在している。夜は何も存在しないのではなく、知覚できていないだけで、エネルギーのある「見る者」であれば感知しうる、ということになる。だから呪術師は夜でも平気で山を歩けるということか(とういうことは、それが出来ねば呪術師ではないということか)。

 とにかく、世界の一部分しか、我々は見ていない。同様、自分の一部分しか、自分は見ていない。今の生活スタイルもまさにそう。全然違う自分(筋に沿って料理された自分)を、人生で見てみたいものだ。