インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

人間という名の動いている物体

2010-08-26 19:42:59 | 考えるインディオ
  ネットであろうが、現実の世界であろうが、大海の中の点でしかない自分が、こうしてブログを書き、誰かが読んでいることに、何かしら不思議な気分にさせられる。

 まずは、海辺に住んでいるので、写真でも掲載してモクモクとした気分になって頂きたい。

 

 日本という土地、この島は生命のエネルギーで満ち満ちている。資源こそ少ないが、気候は温暖、水も豊富で、それゆえに作物も実り、過激な円高になろうが、大恐慌が起ころうが、大勢の餓死者とかは想像できない。

 別にパソコンがなかろうが、車がなかろうが、生きていけるわけである。特にド田舎に戻ると大都会に連なる店群に入る必要も薄いわけで、人間の存在価値は労働とは別の所にあるように思えてくる。

 「社会のため」とか「国民の義務」とかで動いているのかもしれないが(いや、カネのためか)、大宇宙、大海からしてみれば、ただちっぽけなエネルギーの塊が、エネルギーの保存のために動いているだけなのだろう。人間とはそこにあるだけの物体であり、別に存在意義は何もない。科学的に考えれば、生命とは「無意味」である。

 無意味な存在が、PC画面を眺めながらグダグダ考え、時間を潰し、何年も続けた後、勝手に死んでいく。そしてそれを無意味な存在が傍から眺め、自分を重ねあわせたり切り離したりする。たまに言葉が、ちらほら脳味噌の端っこに残ったりする。

 頭中心の科学を捨て、肉体で感じるままに感じていると、生命とは宇宙やら大地が生み出した子供であるように感じられる。個体としては、すぐに死に骸骨になり、大地に散らばっていくのだろうが、全体としては、エネルギーは大宇宙に永遠不滅のままである。

 ならば人間とは無意味ではなく、そういった大宇宙のエネルギーを感じるために生まれてきた存在ということになる。山であろうが海であろうが、岩であろうが木であろうが、物質は全て霊的なエネルギーであり、「エネルギー=神々」として祀っている。インディオ文明はそういった世界であったのだろう。

 呪術師が沢山いて、人間といった物体は、大地やら宇宙を祀り、祝うことにその存在意義を見出していた。操られ、狂気に満ちていたと言えるが、

 それは今の資本主義社会とて同じであろう。そういえばマイケル・ムーアの『キャピタリズム マネーは踊る』なる映画を観たが、「資本家のプロパガンダで、資本主義の中なら『成功するチャンスがある!』と信じ込まされ操られている」とあった(それで一票投じて支持する!?)。

 インディオ世界では「成功する=金持ちになる」では有り得なくて、全然違う所に幸福があるわけで、きっと「エネルギー持ちになる」とか、なかなか客観的測定が難しい所にあるのかもしれない。金持ちの中には凄いエネルギー持ちがいるもので、やはり個人のエネルギーが金を引き寄せるには違いない。

 とするならば、まずはエネルギーを発生させ、そして金を引き寄せるという手もあるのではないか。とするならば、やはり例の「聖なる木」か…(本日はここで終了)