第7講 農作業における個別化対策
自然の中にある存在、鉱物・植物・動物は、それぞれが独立に存在しているかのようにみなされていることがきわめて多いのです。今日、人びとは、植物をそれ自体として観察することに慣れてしまっており、そのために、一種類の植物をそれ自体として眺め、また別の種類の植物をそれだけでまた別個に観察するようになっています。人びとは、それぞれの種類の植物を種や属に分類して、ていねいに箱に仕分け、そういう箱の中で、こうした事柄を研究すべきだと考えています。しかし、自然の中では、そのようにはなっておりません。
自然の中では、すべてのものは互いに関係しあって存在しているのです。つねに、あるものが他方に働きかけています。今日のような物質主義の時代には、あるものの他方への働きかけを研究する際、まったく表面的で単純な活動しか問題にしません。
こうした外面的な粗野な相互関係のほかに、実際にはもっと繊細な緒力や微妙な実質によって、熱や、大気中につねに働いている化学エーテル的なもの、また生命エーテルによって、絶え間なく、様々な相互作用が生じています。
もしこのような繊細な相互作用の実相を顧慮しないならば、農業実践の核心に到達することはできません。ですから、私たちが農業を営んでいく場合に、動物の生と植物の生を協調させていかなければならないとするならば、このような自然に内在するさまざまな相互関係を見通す必要があります。その際には、私たちの身近にいる牛や馬や羊などの動物を観察しなければならないのみならず、一年のある期間に植物の周りを飛び回っている非常に種類の多い昆虫の世界もまた観察しなければなりません。そればかりか、鳥の世界も観察しなくてはなりません。
つまり、空飛ぶ動物達と(鳥・蝶)、大地から大気中に生長していくものと、この二つは一体のものなのです。他方を欠いた一方というものはまったく考えられません。したがって、農業経営においては、昆虫類と鳥類を正しいあり方で飛び回らせておくように配慮しなくてはなりません。農業をする人自身が、昆虫の育成と鳥の育成とを同時に理解していなくてはなりません。なぜなら、自然の中においては、全てのものは互いに一体であり、相互に関連しあっているからです。
森と畑と牧草地が共存している地域においては、大地の性質が、周囲一帯に森のまったく存在していない地域とは異なった法則のもとにあるのだという事を、私たちは理解しなくてはなりません。
皆さんがもし私が述べてきたことをいっそう深く掘り下げていこうとされるなら、更に別の事柄にまで進んでいかれることになるのですが、それは直感的な霊視力があった時代には、感情の力で出しく使用されてきたものです。ところが、人間はそのような本能をなくしてしまいました。
知性が一切の本能を失わせてしまったのであり、知性があらゆる本能を絶やしてしまったのです。人間がこれほど利口になり、これほど知性的になってしまったのは、物質主義が犯した罪なのです。
人間が今ほどに知性的でなかった時代、人間はそれほど利口ではなかったのですが、はるかに賢明でした。彼らは感情をもとにして、そこから事柄を正しく取り扱うことを知っていたのです。私たちは再び意識的にそのように振舞えるようにならなくてはなりません。
こうした事柄についての認識を、実際にいたるところで取り入れ、いたるところに見いだしていくことが大切です。そうしますと、私が皆さんにお話しましたように、本当に私たちは霊視的な力を持つようになり、自然の中でこうのような事柄がいかに存在するかということを、本当に認識できるように導かれていくのです。
森や果樹園、潅木林、自然の菌類繁殖地(低湿地)などを正しく配分するならば、たとえその為に耕作可能な畑がいくらか減ったとしても、農業にとってきわめて有益な状態が生み出されます。いずれにしましても、大地を広く耕作地にしてしまい、私が述べてきましたようなものを全部なくしてしまいますと、けっして経済的によい結果は得られませんから、耕作地を広げさえすれば、もっと多くの作物を植える事ができるなどと考えるのは、間違っています。他のものを潰して耕作面積を広げれば、より多くのものを植える事ができるかもしれませんが、それによって得ることができるものは、耕作面積を広げない時よりもはるかに質が悪くなってしまうことでしょう。農業のように、自然の働きをきわめて強く受ける作業を行う場合には、自然の働きの諸関係、自然の働きの中に見られる相互関係を、このような観点から理解しなければ、真の成果はあげられません。
植物は、その生来の本性から、何かを貪欲に摂取しようとすることなく、動物が世界から受け取るものを世界の中へ送り出してやるのです。ここに、いわば植物の処女のような純粋性があるのです。このように、植物は、与えることによって生きている、のです。
定理: 「植物は、大自然の営みの中で、動物が受け取るものを与える」
自然の中にある存在、鉱物・植物・動物は、それぞれが独立に存在しているかのようにみなされていることがきわめて多いのです。今日、人びとは、植物をそれ自体として観察することに慣れてしまっており、そのために、一種類の植物をそれ自体として眺め、また別の種類の植物をそれだけでまた別個に観察するようになっています。人びとは、それぞれの種類の植物を種や属に分類して、ていねいに箱に仕分け、そういう箱の中で、こうした事柄を研究すべきだと考えています。しかし、自然の中では、そのようにはなっておりません。
自然の中では、すべてのものは互いに関係しあって存在しているのです。つねに、あるものが他方に働きかけています。今日のような物質主義の時代には、あるものの他方への働きかけを研究する際、まったく表面的で単純な活動しか問題にしません。
こうした外面的な粗野な相互関係のほかに、実際にはもっと繊細な緒力や微妙な実質によって、熱や、大気中につねに働いている化学エーテル的なもの、また生命エーテルによって、絶え間なく、様々な相互作用が生じています。
もしこのような繊細な相互作用の実相を顧慮しないならば、農業実践の核心に到達することはできません。ですから、私たちが農業を営んでいく場合に、動物の生と植物の生を協調させていかなければならないとするならば、このような自然に内在するさまざまな相互関係を見通す必要があります。その際には、私たちの身近にいる牛や馬や羊などの動物を観察しなければならないのみならず、一年のある期間に植物の周りを飛び回っている非常に種類の多い昆虫の世界もまた観察しなければなりません。そればかりか、鳥の世界も観察しなくてはなりません。
つまり、空飛ぶ動物達と(鳥・蝶)、大地から大気中に生長していくものと、この二つは一体のものなのです。他方を欠いた一方というものはまったく考えられません。したがって、農業経営においては、昆虫類と鳥類を正しいあり方で飛び回らせておくように配慮しなくてはなりません。農業をする人自身が、昆虫の育成と鳥の育成とを同時に理解していなくてはなりません。なぜなら、自然の中においては、全てのものは互いに一体であり、相互に関連しあっているからです。
森と畑と牧草地が共存している地域においては、大地の性質が、周囲一帯に森のまったく存在していない地域とは異なった法則のもとにあるのだという事を、私たちは理解しなくてはなりません。
皆さんがもし私が述べてきたことをいっそう深く掘り下げていこうとされるなら、更に別の事柄にまで進んでいかれることになるのですが、それは直感的な霊視力があった時代には、感情の力で出しく使用されてきたものです。ところが、人間はそのような本能をなくしてしまいました。
知性が一切の本能を失わせてしまったのであり、知性があらゆる本能を絶やしてしまったのです。人間がこれほど利口になり、これほど知性的になってしまったのは、物質主義が犯した罪なのです。
人間が今ほどに知性的でなかった時代、人間はそれほど利口ではなかったのですが、はるかに賢明でした。彼らは感情をもとにして、そこから事柄を正しく取り扱うことを知っていたのです。私たちは再び意識的にそのように振舞えるようにならなくてはなりません。
こうした事柄についての認識を、実際にいたるところで取り入れ、いたるところに見いだしていくことが大切です。そうしますと、私が皆さんにお話しましたように、本当に私たちは霊視的な力を持つようになり、自然の中でこうのような事柄がいかに存在するかということを、本当に認識できるように導かれていくのです。
森や果樹園、潅木林、自然の菌類繁殖地(低湿地)などを正しく配分するならば、たとえその為に耕作可能な畑がいくらか減ったとしても、農業にとってきわめて有益な状態が生み出されます。いずれにしましても、大地を広く耕作地にしてしまい、私が述べてきましたようなものを全部なくしてしまいますと、けっして経済的によい結果は得られませんから、耕作地を広げさえすれば、もっと多くの作物を植える事ができるなどと考えるのは、間違っています。他のものを潰して耕作面積を広げれば、より多くのものを植える事ができるかもしれませんが、それによって得ることができるものは、耕作面積を広げない時よりもはるかに質が悪くなってしまうことでしょう。農業のように、自然の働きをきわめて強く受ける作業を行う場合には、自然の働きの諸関係、自然の働きの中に見られる相互関係を、このような観点から理解しなければ、真の成果はあげられません。
植物は、その生来の本性から、何かを貪欲に摂取しようとすることなく、動物が世界から受け取るものを世界の中へ送り出してやるのです。ここに、いわば植物の処女のような純粋性があるのです。このように、植物は、与えることによって生きている、のです。
定理: 「植物は、大自然の営みの中で、動物が受け取るものを与える」