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チベット医学とチベット仏教、さらにもう一つ、チベットには太古の自然性が息づいているボン教があります。古代より伝わるボン教は、宗教という枠をはるかに超えた多層的な体系で、医学・暦学・占星術、生と死の探求、霊性の道までも含み、チベット文化の基層を成すものです。
もともとチベットは遠い過去より、生とは何か、死とは何か、心とは何か、真の幸福とは何か、を無類の情熱をもって総力を挙げて問い続けてきた民族です。その成果は様々な変遷をたどりながら、初期にはボン教、のちにはチベット仏教という壮大な体系に結実していったのです。
古代の知は、なぜこれをダイレクトにつかみ取ることができたのか。そこに私は、自然界から深い洞察を得て、いっきに思考を飛び超えることができた者たちの心のバネ、自然性そのものの真っ只中へと自らを解放し、自然の神聖さとひとつになることができた古代的な力を見ます。
足元の大地、清冽な雪解け水、太陽と炎、草原を吹き渡る風、そして頭上に果てしなく広がる空。古代ボン教は、自然界のダイナミズムを象徴する、地水火風空の五大元素をあらゆる存在と現象の中に発見したのです。ボン教の自然観は、現象の中に宿る神聖なエネルギーとの交流を秘めた、それはそれは豊かな世界です。
五大元素とその光が全ての本源と知れば、健康である事、いのちを輝かせて生きるということへの見方が変わるでしょう。この身体も、自然も、宇宙から一粒の砂に至るまで、五大元素の光の戯れである、と意識のチャンネルを切り替えるだけで、エネルギーのダイナミズムは私達のなかに流れ込み、いのちを開き、まるごと光とひとつになった、主体もなければ客体もない愛のダンスを生きることになるのです。もとより備わっているいのちの本源を輝かせる可能性は誰もが秘めているのです。
チベットが文明社会に姿を現したのは1959年にダライ・ラマがインド亡命を余儀なくされて後のことですが、多くのラマたちもインド・ネパールを始めヨーロッパやアメリカに渡りました。この二つの結合がどんなに価値のあることかを私たちは再認識しなければなりません。
なぜなら、物質文明がもたらした不幸は、自然と精神の結びつきを感受できない分厚い膜で私たちの身体を被ってしまったことにあるからです。感受力の衰退は、「人生で何が大切か」を見る目を曇らせ、いのちへの共感や生きる喜びを人間優位の考え方と経済最優先の風潮の陰に押しやり、息苦しいほどの不全感、不健康さを社会全体に蔓延させています。ヒーリングの隆盛もこのことと無縁ではないでしょう。
日本の風土に、ボン教の自然観は親しみを持って迎え入れられることと思います。そこから一歩進んで、五大元素の思想が、本来の自然性、心の本性の目覚めの中に、私達を解放してくれますように。
以上、訳者・梅野泉氏のあとがきより抜粋。