BR 栽培日記 2024

バーズレストランの栽培日記です

みのりの風

2015-04-25 20:10:10 | 日記


はるか遠い 遠いところで生まれ
いくつもの海や いくつもの山を越え
青く広がる田んぼの稲穂を揺らす

豊穣の香りを漂わせながら
静かな足どりで歌いながら
やってきた みのりの風よ

わたしたちの心に 愛を呼び覚ます そのために
わたしたちの心を また一つに つなげるために

愛だけが愛だけが わたしたちを育んできたと
想いだして 想いだして とささやくように歌ってる

わたしたちの心に 愛を呼び覚ます そのために
わたしたちの心を また一つに つなげるために

遠くから吹いてきた さわやかな みのりの風よ

詩曲 木の花楽団 MIKA

弥勒の扉 (みろくのとびら)

2015-04-23 19:56:29 | 日記


宇宙の欠片(分霊) 火(陽)と水(陰)の世界
無数の命(霊)宿す地峡
何十億年の物語
秘められた神(仕組み)

愛しくて 涙が天に揺れる
逢いたくて この地球(ほし)に生まれて

何度でも また生まれ変わり
永遠(とわ)に学び続ける命
国を超え 哀しみを超え
時空を超えて

愛しくて 言魂(ことば)は闇を照らす
待ちわびて この時代に生まれて

弥勒の扉(新時代)開かれました
ウシトラ(変革神)の声に導かれて
心に朝陽(大霊光)が現れました
金色に光る鏡のように
地球人(あなた)の心に現れました
現代(いま) 朝陽(真理)が現れました

光よあれ 光よあれ 光よあれ
光よあれ 光よあれ 光よあれ
神意(ひかり)よあれ 真実(ひかり)よあれ
歓喜(ひかり)よあれ 慈愛(ひかり)よあれ

愛しさの訳はひとつだけ
僕たちは すべて神愛(あい)で創られている

詩曲 神人(かみひと)

春の息吹

2015-04-22 19:36:14 | 日記


ニラの芽が出て5cmほどになりました。下はウドの芽、食べるにはもう数日かかりそうです。


畑起こし始まりました。まずは麦圃場からです。


昼からは、ハウスのビニール掛け。無事に終わって準備完了です。

旭川訪問

2015-04-20 19:02:12 | 日記

昨日と今日、一泊二日で旭川方面に行ってきました。
まずは、旭川市の隣、当麻町の「とりの巣農場」。この日は皆で集まって米の種まき作業をされていました。写真左から二番目が私。そのお隣が代表の林さんです。石川さん五人家族と一緒に記念撮影をしました。写真には全員が写ってはいませんが、総勢10名ほどの人が参加されていました。田植えは皆で手植え、収穫後はハセ掛けして天日干しするそうです。皆で集まって楽しく農作業をする、その営農方針は実に立派であると感じました。



そのお隣り、上川町で営農している三栖康嗣(みす・やすつぐ)君です。
鉄製の檻は、鹿対策の防御鉄柵。この高さがあれば完璧です。この中に六反歩の畑があり、そのうち三反歩で、雑穀の栽培を始めます。勿論、無農薬・無化学肥料栽培です。栽培用の種子(きび・あわ・ひえ)は、雑穀ランドのものです。
この日は、畑の土地を見ながら、各作物の栽培計画と、有機肥料の投入設計を打ち合わせしました。今年から一緒にやっていく仲間になりましたので、どうぞ皆さん、よろしくお願いいたします。
畑は自宅からやや離れた所にあり、通うのも不便なので、畑の隣に夏だけ暮らす簡易の家を建てていました。材料は畑から出た石。セメントで固めて積み上げ作業中でした。早く完成すると良いですね。
また、趣味はジャズ。自身も鉄琴を叩くのが趣味という、見た目からは想像できないユニークさ。でも、農業にかける熱い想いは並々ならぬものがあります。近じかブログを始めるそうなので、近況もUPされることでしょう。楽しみにしています。


帰り道、上富良野町から撮影した十勝岳山系。富良野から眺める雪山も、日高山脈とはまた違う、特別な荘厳さがあります。

シュタイナー 農業講座 ⑦

2015-04-11 14:40:01 | 日記
第7講 農作業における個別化対策
自然の中にある存在、鉱物・植物・動物は、それぞれが独立に存在しているかのようにみなされていることがきわめて多いのです。今日、人びとは、植物をそれ自体として観察することに慣れてしまっており、そのために、一種類の植物をそれ自体として眺め、また別の種類の植物をそれだけでまた別個に観察するようになっています。人びとは、それぞれの種類の植物を種や属に分類して、ていねいに箱に仕分け、そういう箱の中で、こうした事柄を研究すべきだと考えています。しかし、自然の中では、そのようにはなっておりません。
自然の中では、すべてのものは互いに関係しあって存在しているのです。つねに、あるものが他方に働きかけています。今日のような物質主義の時代には、あるものの他方への働きかけを研究する際、まったく表面的で単純な活動しか問題にしません。

こうした外面的な粗野な相互関係のほかに、実際にはもっと繊細な緒力や微妙な実質によって、熱や、大気中につねに働いている化学エーテル的なもの、また生命エーテルによって、絶え間なく、様々な相互作用が生じています。
もしこのような繊細な相互作用の実相を顧慮しないならば、農業実践の核心に到達することはできません。ですから、私たちが農業を営んでいく場合に、動物の生と植物の生を協調させていかなければならないとするならば、このような自然に内在するさまざまな相互関係を見通す必要があります。その際には、私たちの身近にいる牛や馬や羊などの動物を観察しなければならないのみならず、一年のある期間に植物の周りを飛び回っている非常に種類の多い昆虫の世界もまた観察しなければなりません。そればかりか、鳥の世界も観察しなくてはなりません。

つまり、空飛ぶ動物達と(鳥・蝶)、大地から大気中に生長していくものと、この二つは一体のものなのです。他方を欠いた一方というものはまったく考えられません。したがって、農業経営においては、昆虫類と鳥類を正しいあり方で飛び回らせておくように配慮しなくてはなりません。農業をする人自身が、昆虫の育成と鳥の育成とを同時に理解していなくてはなりません。なぜなら、自然の中においては、全てのものは互いに一体であり、相互に関連しあっているからです。
森と畑と牧草地が共存している地域においては、大地の性質が、周囲一帯に森のまったく存在していない地域とは異なった法則のもとにあるのだという事を、私たちは理解しなくてはなりません。

皆さんがもし私が述べてきたことをいっそう深く掘り下げていこうとされるなら、更に別の事柄にまで進んでいかれることになるのですが、それは直感的な霊視力があった時代には、感情の力で出しく使用されてきたものです。ところが、人間はそのような本能をなくしてしまいました。
知性が一切の本能を失わせてしまったのであり、知性があらゆる本能を絶やしてしまったのです。人間がこれほど利口になり、これほど知性的になってしまったのは、物質主義が犯した罪なのです。
人間が今ほどに知性的でなかった時代、人間はそれほど利口ではなかったのですが、はるかに賢明でした。彼らは感情をもとにして、そこから事柄を正しく取り扱うことを知っていたのです。私たちは再び意識的にそのように振舞えるようにならなくてはなりません。
こうした事柄についての認識を、実際にいたるところで取り入れ、いたるところに見いだしていくことが大切です。そうしますと、私が皆さんにお話しましたように、本当に私たちは霊視的な力を持つようになり、自然の中でこうのような事柄がいかに存在するかということを、本当に認識できるように導かれていくのです。

森や果樹園、潅木林、自然の菌類繁殖地(低湿地)などを正しく配分するならば、たとえその為に耕作可能な畑がいくらか減ったとしても、農業にとってきわめて有益な状態が生み出されます。いずれにしましても、大地を広く耕作地にしてしまい、私が述べてきましたようなものを全部なくしてしまいますと、けっして経済的によい結果は得られませんから、耕作地を広げさえすれば、もっと多くの作物を植える事ができるなどと考えるのは、間違っています。他のものを潰して耕作面積を広げれば、より多くのものを植える事ができるかもしれませんが、それによって得ることができるものは、耕作面積を広げない時よりもはるかに質が悪くなってしまうことでしょう。農業のように、自然の働きをきわめて強く受ける作業を行う場合には、自然の働きの諸関係、自然の働きの中に見られる相互関係を、このような観点から理解しなければ、真の成果はあげられません。

植物は、その生来の本性から、何かを貪欲に摂取しようとすることなく、動物が世界から受け取るものを世界の中へ送り出してやるのです。ここに、いわば植物の処女のような純粋性があるのです。このように、植物は、与えることによって生きている、のです。
定理: 「植物は、大自然の営みの中で、動物が受け取るものを与える」