BR 栽培日記 2024

バーズレストランの栽培日記です

春の吹雪

2017-04-13 18:20:51 | 日記・エッセイ・コラム

暖かくなり、積もった雪もすっかり融けて春らしい日和になったきた北海道ですが、ここ数日間は台風のような強風が吹き、今日は雪が降って又真っ白な冬の景色に逆戻りしてしまいました。風も冷たくてかなり寒いです。
府県は桜が満開の季節だと思いますが、桜にはまだまだ早い北海道の春です。

アロハ・オエ (あなたに愛を)

2017-04-06 18:10:56 | 日記・エッセイ・コラム
以下、zeranium の掲示板の記事からの転載です。

「日本人にとって一番馴染み深い海外の観光地」といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは「ハワイ」ではないでしょうか。

日本人観光客と現地ハワイの観光産業は深い縁で結ばれていますが、実は日本とハワイの繋がりはそれだけではないのです。サトウキビ農園で働いた日系移民の末裔たちがハワイに根を下ろしていることも、その深い縁を象徴しています。ですがその根幹は、今から130年以上も前に遡るのです。

明治14年(1881年)3月11日、ハワイ王国の国王であったカラカウア国王が、赤坂仮御所の明治天皇を訪問されました。カラカウア王はこの時、ハワイ・アジア連合を構築して、明治天皇がその盟主となることに、また国王の姪のカイウラニを日本の皇室に嫁がせることなどを提案したのです。

しかし、そのハワイは今では米国の一部となっています。
一体何があったのでしょうか?
その歴史を俯瞰しながら、アロハ・オエという歌に隠された意味を考えてみましょう。

ハワイは18世紀末に、キャプテン・クックが「発見」したことになっています。ですが実際には、ハワイにはもともとのハワイ人たちが平和に暮らしていました。クックは交易を申し込みましたが、それと同時に麻疹(はしか)、結核、コレラ、ハンセン病、梅毒などの病気も持ち込みました。

ハワイを含め、かつての太平洋の島々に共通していた概念があります。
それは本来、「土地を所有する」という概念を持たなかったのです。その代わりにバナナなどの木は、誰の所有であるかがかなり厳格に定められていました。要するに土地は個人の所有物ではなく、共同生活のための「みんなのもの」であり、家族を養うためのココナッツやバナナなどの木についてのみ、厳格な所有権を認めていました。

この所有権は非常に厳しいもので、バナナの木たった1本、ココナッツの実一つでも泥棒されたなら、彼らは島中全員参加の会合を開き、犯人がわかるまで徹底して話し合いを続けたのです。それだけ、地上における果物は、生活に密着した大切な宝であったのです。

ハワイにやって来た白人たちは、島民たちが土地の所有権を持たないことを知ると、彼らは勝手に土地を次々と領有していきました。その規模はなんと、ハワイ王国の国土の75%以上に及びました。島民たちは次第に居住区を追い詰められ、クックが最初に来島した頃30万人あったハワイの人口は、およそ100年後にはわずか5万7千人に激減していました。

つまり、国民の8割の人口が失われてしまっていたのです。
また欧米からやって来た白人たちにより植民地化された他の国々も、ほぼ例外なく、人口の8~9割が減少しています。この情況において、ハワイの人々の生活を守るために立ち上がったのが「カメハメハ大王」でした。

19世紀、それは日本でいうと明治初期ですが、カメハメハ大王は欧米人種と対抗するために、明治維新の時の日本と同じように、一方で彼らから武器・弾薬を買い、その一方でさまざまな部族からなるハワイ諸島を統一しました。武器購入のための資金は、サトウキビ等の輸出など、国内産業の発展によって賄いました。

彼は何とかして、白人たちと人として対等に暮らせるようにしようとしたのです。しかし輸出相場の変動や疫病の蔓延、白人たちの暴行などにより、国力は徐々に衰退へと向かいました。

カメハメハ大王没後、大王の子孫にあたるカラカウアが王位に就きました。そして王位に就いたカラカウア大王が、明治14年(1881年)に来日するのです。この頃の日本は「有色人種で唯一の独立国」であり、日本はアジアにおける有色人種の「希望の光」であったのです。そしてこれが外国の王が日本にやって来た最初の出来事となりました。

来日したカラカウア大王は、アメリカ人の随行員たちを出し抜き、日本人通訳を伴い、夜中に秘かに赤坂桂離宮を訪ねると、明治天皇との単独会見を願い出ました、天皇側は夜中の訪問を不審に思いましたが、会見に応じることにしました。

すると大王は明治天皇に、ハワイの窮状を述べ、5つの事柄について日本の協力を要請しました。

① 日本人移民の実現

  ハワイの人口減少を、同一民族である日本人の植民で補う。

② やがて王位を継ぐことになる姪のカイウラニ王女と日本の皇族の山階宮定麿親王との婚約。

③ 日本・ハワイの合邦。(ハワイを日本にしたい。)

④ 日本・ハワイ間の海底電線敷設。

⑤ 日本主導による「アジア連邦」の実現。

カラカウア大王の写真を見るとわかりますが、もともとハワイ諸島に住んでいた人々はモンゴロイドであり、縄文人の末裔であり、顔立ちも日本人と同じだったのです。よって同一種族である日本人移民を実現したいと思っていました。こちらがカイウラニ王女の写真です。和服に和傘をさしている美しい女性です。

せっかくの婚約の申し出でしたが、明治維新後わずか14年後の日本にはこの時点で、欧米列強を敵に回して対抗できるだけの力はありませんでした。そして翌年、明治天皇はカラカウア大王に特使を派遣し、婚姻を謝絶しています。しかしもう一つの申し出である、日本人によるハワイ移民は実現させました。これが1884年の「日本・ハワイ移民協約」です。

明治18年(1885年)、第一陣の日本人移民がホノルルに到着しました。
ハワイでは盛大な歓迎式典が行なわれ、もちろんカラカウア大王もご臨席されました。やって来た日本人には日本酒がふるまわれ、ハワイ音楽やフラダンス、相撲大会まで催されました。

明治24年(1891年)1月、カラカウア大王が病死。
後継者には大王の実妹のリリウオカラニが女王として即位しました。

女王は明治26年(1893年)1月15日、ハワイ国民に選挙権を与えるために、ハワイの憲法を変えることを考えました。もしこの憲法改正案を施行すると、市民権を持っていない白人たちは選挙権を得られず、参政権を否定できます。まさにそのための憲法改正でもあったわけです。

これに対し、翌1月16日、米国公使スティーブンスは、「米国人市民の生命と財産を守るために」と称し、ホノルル港に停泊中の米軍艦ボストンから海兵隊160人を上陸させ、政府庁舎や宮殿の周辺を制圧しました。そして軍艦ボストンの主砲の照準を、イオラニ宮殿にピタリと合わせました。そしてハワイの民衆の命と引き換えに女王の身柄を拘束したのです。

しかし島民たちの命が人質にとられている状況を前に、リリウオカラニ女王は「無駄な血を流させたくない」と退位を決意しました。

この瞬間に、ハワイ王国は滅亡。
それはカラカウア大王の来日から、わずか12年後のことでした。

この時、ハワイにすでに入植していた、日本人2万5千人の生命までが人質となっていたのです。

そこで急遽、日本から巡洋艦「浪速」と「金剛」が派遣されました。
2月23日、到着した「浪速」と「金剛」は、米軍艦ボストンを挟むように両隣に投錨しました。艦長は若き日の東郷平八郎です。

東郷平八郎は、いっさい米人たちとは会おうとせず、会話することも拒否しました。そしてただ、黙ってボストンの両隣に「浪速」と「金剛」を停泊させたのです。軍艦ボストンからしたら、これほど気持ち悪いものはありません。両側を日本の巡洋艦が固め、その主砲は一応は前を向いてはいるものの、ちょっと横を向くだけでボストンは沈没を免れないのです。

東郷平八郎は、実弾をもって戦うのではなく、米人たちに無言の圧力を与えることで、ハワイ市民の混乱や、市民に対する白人の略奪を阻止したのでした。

かつて来日したカラカウア大王は、キリスト教宣教師たちが禁止していたハワイ民族のフラダンスを復活させた大王でもあり、フラダンスの父と呼ばれています。そして東郷平八郎と親交があったといわれる、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが作詞作曲したフラの名曲が、「アロハ・オエ」です。


『Aloha' Oe  アロハ・オエ(あなたに愛を)』

山にたちこめる雲  霧に包まれる森のはざ間

谷をさがすと咲く花々  しっとり潤う命のつぼみ

ふるさと  ふるさと

うるわしの ああ まほろば

もう一度  抱きしめて

さようなら  ふるさと


とても優しい旋律で、いかにも太陽の恵みを燦々と浴びた名曲という印象があります。ですがこの旋律の陰には、侵略者に踏みにじられて祖国を失ったハワイ人の民の涙が歌われているのです。そして、そんな深い悲しみがあっても、それを優しく明るい旋律で包んでしまうのです。恨みだ、被害者だと言ってただやみくもに騒ぎ立てるような国とは、明らかに違う民度が備わっていました。

西欧で生まれた国民国家というのは、王は庶民から収奪し、戦争をし、贅沢三昧などをするので、そのために王権に制限を加える必要があって憲法や政治組織というものが出来上がったのです。しかし日本やハワイは、そのような西欧とは一線を画するものでした。このリリウオカラニ女王の決断は、かつてのポツダム宣言受諾の時の昭和天皇の言葉を思い出させます。

「一人でも多くの国民に生き残ってもらって、
その人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。
みなの者はこの場合、私のことを心配してくれると思うが、
私はどうなってもかまわない。」

リリウオカラニ女王自身の、

「我が身はどうなってもかまわない。1人でも多くの国民の命を守りたい。」という決断のもとに滅亡したハワイ王国。

ハワイは、女王の退位という現実の前に、ハワイの古くからある文化のすべてが失われてしまいました。日本も、もしかしたらあの黒船来航以後、欧米列強の支配により、かつてアジア諸国がそうであったように、国民の人口8割が失われることとなり、さらに国家そのものがこの地上から消えてしまっていたかもしれないのです。

これを守ることができたのは、ひとえに幕末から明治にかけての日本人が、勇敢に「戦う」という姿勢を貫いたことによるのかもしれません。

ハワイの文化をもっと知りたいと思うとともに、幸運にも日本が受け継いでくることのできた貴重な文化をこれからも大切にし、次の世代に伝えていきたいものです。