映画制作は1968年(昭和43年)である。その当時、世紀の難工事と言われた黒部ダム建設の苦闘、特にトンネル工事の様子を描いた壮大なドラマを描いたものである。しかし、この映画の完成の裏にはトンネル工事以上の困難も横たわっていた映画だったという。
※ 掲載写真は全てウェブ上から拝借した写真である。
会議が二日も連続すると、心はフィールドに出たがっている。今日は近隣の小山を散策しようと考えていたが、あいにくの暴風雨が吹き荒れていて断念した。
そこでブログネタがないときの助け舟、映画である。今回は3月1日にBSプレミアムで放送された「黒部の太陽」〈完全版〉を取り上げることにした。映画は、その頃すでに大俳優としての地位を確立していた三船敏郎と石原裕次郎が独立して制作プロダクションを設立し、共同で映画を制作しようとしていた。ところが当時は映画の配給権は映画五社が独占していて(五社協定)独立プロダクションが映画を制作したとしても全国で放映できないシステムとなっていた。その状況下を三船、石原の二人が共同し、各方面から支援を受ける中でなんとか全国配給することができたといういわくつきの映画である。また、出演する俳優陣も五社に所属する俳優が出演できないために、劇団民藝を率いる宇野重吉の全面協力で乗り切ったという背景もある映画である。
映画は関西電力が国内の電力不足の解消を狙って黒部峡谷に発電用ダムを建設することになった。その関西電力の工事現場責任者に三船敏郎(北川覚)、工事主体者である熊谷組の下請けでトンネル掘削を専門とする岩岡土木の社長の息子を石原裕次郎(岩岡剛)が演ずる。岩岡剛は父親が労務者を虫けらのごとく扱い、剛の兄の命までも軽んじた父に嫌悪を念を抱いて反発し、遠ざかっていた。しかし、父の体調が優れなかったことから、行きがかり上やむをえず父の代役としてトンネル工事に関わることになる。
映画の画面としての最大の見どころは前半最後の、トンネル掘削現場が破砕帯にぶつかり大出水事故に遭遇した場面であろう。実際の工事現場でも多くの犠牲者が出たというが、映画撮影においても想定外の大量の水が流れ出し、実際に石原裕次郎が怪我をするなど、大惨事を招くほどの迫力あるシーンだった。特に私はそのシーンの最後に写る石原裕次郎の必死の表情が印象深い。
※ 熊谷組の工事現場を撮影場所としてトンネルシーンを撮影したそうだが、トンネル内には何本もの排水用の管が走り、木材の骨組みによってトンネルが支えられている様子がよく表わされている。
映画全体としては、北川覚(三船敏郎)の家族と、岩岡剛(石原裕次郎)との交友。特に剛は覚の長女(由紀・樫山文枝)と結婚するに至る。また次女(牧子・日色ともゑ)が白血病で死に至るなどの事柄が挿入される。また、関西電力首脳の黒四ダム建設への壮絶な決意を描く場面の俳優陣の迫真の演技が見ものである。
監督は名将として誉れの高い熊井啓監督が務めているが、壮大なスケールの映画を人間味あふれるシーンも織り交ぜながら、トンネル建設という男のドラマを上手くまとめた映画といえるのではないか。
1968年というと、日本が高度経済成長期の真っただ中である。この映画が、さらに日本経済を成長するうえで後押しの役割を果たしたのではないか、と思える作品だった。
当時は、この映画の人間模様がどれだけわかっていたのでしょう?じーじになってわかることがたくさんありました。
年を取ることも悪くないなあ、と再確認した次第です。
“人間模様”…、そうですね。異常出水が続くトンネル工事という、いわば男のドラマの中に、さまざまな人間模様が描かれているのも本作の魅力でしたね。年齢を重ねることによってそうしたことに対して理解が深くなるという言葉に私も同感します。