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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ヘイトスピーチと表現の自由

2015-08-22 23:39:46 | 大学公開講座
 ヘイトスピーチ(憎悪表現)というと、日本においては在日朝鮮人に対する在特会(在日特権を許さない市民の会)の存在が耳新しい。一般的な感情としてマイノリティに対する嫌がらせのような行為は法で規制すべきでは、とも思うのだが、コトはそう単純でないという…。 

 時系列的にはこの講座の前にもう一つ受講したものがあるのだが、それは明日に譲り、北大公開講座「表現の自由と秩序」の最終講座(第4回)が8月20日(木)夜にあったので、それを先にレポートすることにした。この日のテーマはタイトルのように「ヘイトスピーチと表現の自由」と題して、法学研究科教授で、高等法政教育研究センター長を務める尾崎一郎氏が講義を務めた。

            

 尾崎氏は、氏の研究分野である「法社会学」について概要次のように説明した。「法社会学とは、法に関する社会的諸事象を他の社会的諸因子と関連づけ経験科学的に研究する学問分野」であるとし、けっして法そのものが研究対象ではない、と断りを入れた。
 そして、この「ヘイトスピーチと表現の自由」という問題(課題)は「終わりなき対立であり、噛み合わない議論」だとした。

 なぜ対立が終わらないのか、なぜ議論がかみ合わないのか、という点について、尾崎氏は次のように解説する。
 事実の問題として、被害者の被るダメージを重視するか、思想の自由市場が被るダメージを重視するか、という違い。
 規範の問題として、マイノリティの人権や尊厳を重視するか、個人の自己実現・自己統治の基盤としての普遍的な基本的人権としての表現の自由を重視するか、という違い。
 つまり両者の立ち位置が最初から違っているとした。

 尾崎氏が解説するには、ヘイトスピーチに対する法規制に消極的な論者は、対抗言論としての自由市場の確保と、政府(国家権力)の恣意的な介入を阻止することに意味があると主張するという。
 「自由市場」という耳新しい言葉を聞いたが、これは個人の多様な意見が自由に発信出来得る社会のことを指すようである。つまり法規制に消極的な論者は、事象に対する対処法より、原理的な価値である表現の自由の確保に重きを置くということなのだろう。

 尾崎氏は、自分の立ち位置を「現時点では」と断りを入れながら、法規制すべきとの立場を取りたいが、としながら法規制することのジレンマについて触れた。つまり、この問題について法規制は万能ではないという。
 その理由の一つは、国際人権法などにより国際基準を押し付けてくる諸外国より、我々日本人の方が高潔だと信じているヘイトスピーカーやそれを暗黙の裡に後押ししている層には効果がないということ。
 さらに、法規制することにより、彼ら(ヘイトスピーカー)の行為が確かに相手にダメージを与えている証拠であると、彼らが読み替えてしまう恐れがあること。
 そして、法規制の対象者となることによって生まれる倒錯した被害者意識をもってしまうこと。
 
 と挙げたが、ここらあたりはいかにも研究者たちが考え出した言説と感じられ、いま一つ説得力に乏しいとも受け取れるのだが…。

 リード文で示した在特会の在日朝鮮人に対するヘイトスピーチについては、大阪高裁が明確に在特会の非を指摘し、損害賠償を命ずる判決を下したが、そのことに対して私は何の違和感も感じなかった。
 その延長上に法規制の問題もあると認識していたが、コトはそう簡単な問題ではないことをこの講義で知った。
 
 北大公開講座「表現の自由と秩序」について4回にわたってレポートしてきたが、はたして講座の全容をレポートできたかと問われれば自信はない。しかし、こうして講座の内容を反芻することが私にとってはけっこうなボケ防止にはなっているのでは、と信じているところである。


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