田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

天徳寺の屯田兵木像

2020-11-18 16:14:15 | 「めだかの学校」関連

 それは天徳寺の本堂の脇に整然と並べられていた。若き屯田兵の木像32体である。宿命とはいえ、日露戦争に招集され戦地に散った32名の青年たちである。木像は凛々しさの中にもどこか悲しみを湛えた表情に見て取れた。

 天徳寺はJR野幌駅からほど近いところにあった。

   

 天徳寺の庫裡の呼び鈴を押したところ、住職の奥さまが応対してくれた。奥さまはとても気さくな方で、今年度見学をお願いしていて中止となったこと、来年度また同じ企画で訪れたいことをお願いしたところ、すぐさま快諾してくれた。

   

 この屯田兵木像は、記録によると「明治37(1904)~38年日露戦争の際、江別兵村及び野幌兵村から計71名が召集され、同39年3月日露戦争勝利の報をもって凱旋するが、招集された者のうち32名が戦死した。遺族が若い兵の霊を悼み、名古屋のからくり人形師「玉屋庄兵衛」に依頼して本人そっくりの木像を製作した。皆の写真、または特徴を聞き取りの上作られたものであり、体形、顔が皆異なっている。」とある。私が調べたところでは、こうした屯田兵の木像を作り、後世に残しているのはオホーツク地方に一か所あるだけと聞いている貴重なものである。

 私は見学の快諾を得たことで、「これで用足れり」と辞去しようとしたところ「木像を見ていきませんか?」とお誘いを受けた。私に断る理由などない。喜んでお誘いを受けた。

 庫裡の方から渡り廊下を行き、本堂に入るとすぐに左わきにその木像はあった。中央にお釈迦様(専門的なことは分からない)をはさみ、左右に16体ずつ並んでいた。それらは黒い軍服に身を包み、詰襟の部分が赤く彩られているのが印象的だった。また、中に水兵服姿の屯田兵もいた。奥さまに「写真を撮ってもいいですか?」と問うと、全く問題ないといった表情で許可してくれた。

   

   

         

  ※ 奥さまが「左上の兵隊さんは勲章をたくさん付けていますよ。写真に撮ったら」と勧めてくれた。胸のところに勲章が下げられている。

 木像の前には黒い箱に収められた「日露戦役 忠魂録」なるものがあった。奥さまはその箱の中に収められた忠魂録も見せてくれた。その中をちょっと覗かせていただくと、司令官・乃木希典、陸軍大将・大山巌など、当時の軍幹部の名前が散見された他、招集者名、戦没者名などが記され、さらには木像制作のための費用内訳、制作費用を寄進された人々の名前が記録されていた。

         

   

 屯田兵は北海道の開拓と北の守りを担うことが主たる任務であったから、国に一度事が起きれば招集されることは当時としては当然のことと捉えられていたのかもしれない。しかし、本州から新しい土地の開拓という志を抱いて北海道に渡ってきた若者たちにとって、志半ばで命尽き果ててしまったことはさぞかし無念のことだったろうと思われる。そうした思いを講座参加者たちと共有しながら、来年9月7日再び天徳寺を訪れたいと思っている。

 



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